幕間6-2:焚き火と約束
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凍てつくような冬の夜明け前。
ウルム村の巨大な防壁の外に設けられた「門外待機区画」は、数万の避難民が発する得体の知れない熱気と、煤の匂い、そして絶望的な呻き声に満ちていた。
「おい、そこの火、もう薪を足すな! 朝の炊き出し用にとっておけ!」
掠れた声で指示を飛ばし、ロイルは泥だらけの地面に力なく座り込んだ。門外の責任者に任命されてから数時間。ろくに眠ることもできず、暴動寸前の群衆をなだめ、喧嘩の仲裁に入り、限りある水と薪の分配をひたすら計算し続けてきた。彼の顔は煤と泥で汚れ、自警団の外套はすでに元の色が分からないほどに黒ずんでいる。
「ふぅ……」
一つだけ残された小さな焚き火のそばで、ロイルは冷え切った両手を火にかざした。地平線の向こうから、王国の正規軍がこちらへ向かっているという報せは、自警団の幹部たちにも共有されている。アシュランたちは迎撃のために外へ出る。自分に課せられた使命は、背後でこの数万の群衆がパニックを起こし、村の防壁を内側から食い破るのを何としても防ぐことだ。
その途方もない重圧に押し潰されそうになっていた時、背後から微かな足音が近づいてきた。
「ロイル。お疲れ様です」
静かな声と共に、焚き火の反対側に一人の少女が腰を下ろした。
炊き出しの大きな空鍋を洗い終えたのだろう、分厚い外套を着込んだロッテの指先は赤く腫れ上がり、金色の髪はくすんだ布で隠されている。頬にはロイルと同じように黒い煤がついていた。
「……お疲れ。そっちも、鍋の片付け終わったの……か」
ロイルは短く返事をしたが、内心ではどう接していいか戸惑っていた。
つい数時間前、彼はこの泥だらけの少女が、このエルディナ王国の正統なる王族——シャルロッテ王女であることを知ったのだ。本来であれば、平民である自分が気安く口を利いていい相手ではない。
だが、火の向こうで凍える手に息を吹きかけている彼女の姿は、どう見ても「ただのロッテ」だった。
「ええ。マルタおばさんたちと、次の粥の準備までは少しだけ休めるわ」
ロッテはそう言って、パチパチと爆ぜる赤い炎を見つめた。しばらくの間、二人を包むのは薪の爆ぜる音と、遠くで聞こえる赤ん坊の泣き声だけだった。現場が一段落したこの一瞬の「静けさ」が、かえって彼らの神経を逆撫でする。
「……ごめんなさい」
ぽつりと、ロッテが口を開いた。
「私の国の民が、こんなにたくさん、村の皆さんに負担をかけてしまって。……王都が彼らを守れなかったから、こんな冷たい土の上で震えることになって……」
炎に照らされた彼女の横顔には、王族としての深く重い罪悪感が滲んでいた。ロイルは手元の小枝を火にくべながら、静かに首を横に振った。
「君が謝ることじゃないさ。君だって、王都からここまで逃げてきたんだろ?」
「でも……」
「それに、俺たち村の人間は、彼らを恨んじゃいない。ただ……現実問題として、もうギリギリだな」
ロイルはため息交じりに、残酷な現場の数字を口にした。
「備蓄の薪は、あと三日で底をつく。川から水車をフル稼働させて水を汲み上げても、今の人数を満たすには足りない。俺たち自警団も、炊き出しの女たちも、ほとんど寝ずに動いてる。……誰も責めてはいない。だけど、もう余裕がないんだ」
「……それでも」
ロッテはぎゅっと膝を抱え込み、感情の底から絞り出すように言った。
「それでも、ここにいる全員を、壁の中の温かい場所に入れてあげられたら……せめて、凍える子供たちだけでも、全員保護できれば……」
それは、心優しい彼女の純粋な善意だった。王族としての、民を「全部救いたい」という痛切な願い。
だが、その言葉を聞いた瞬間、ロイルは冷や水を浴びせるような冷たい声を出していた。
「全部は無理だ」
パチン、と薪が大きく爆ぜた。
二人の間の空気が一瞬にして凍りつく。
「物理的に無理なんだ。感情で無理をして全員を中に入れれば、村のインフラが崩壊する。水が汚れ、倒れる者が増え、結局は壁の中の人間も、助けたはずの子供たちも全員共倒れになる」
言い切ってから、ロイルはしまったと唇を噛んだ。
相手は王女だ。彼女の純粋な善意を、平民の自分が頭から否定するなど許されることではない。不敬に当たると激昂されても文句は言えなかった。
だが、ロッテは怒りもしなければ、泣いて俯くこともしなかった。
彼女は炎から視線を上げ、真っ直ぐにロイルの目を見た。
「……そうね。あなたが正しいわ。アシュラン様もそう言っていた」
ロッテの瞳には、この村で学んだ「冷静な制度こそが人を救う」という事実への深い理解があった。
彼女は自身の感情的な善意を無理やりねじ伏せ、現場の責任者としての顔に切り替えた。
「全部は救えない。じゃあ、ロイル。どうしたらいい? 今ある薪と水だけで、彼らが暴動を起こさずに、この軍勢が過ぎ去るまで繋ぎ止めるには、どういう『仕組み』が必要?」
その問いに、ロイルは小さく息を吐き、彼女への見方を変えた。
目の前にいるのは、守られるだけの脆弱な姫ではない。泥にまみれながら、この地獄のような現実を共に回そうとしている「同志」なのだ。
「……優先順位を徹底するしかない」
ロイルは地面の泥を木の枝でなぞりながら答えた。
「動ける者には役割を割り振り、対価として配給を前倒しする。彼らを『支援される側』から『運営する側』に引き込むんだ。そうすれば、不満を暴動に向ける暇を与えずに済む。病人や子供への配給は、その若者たちの手でやらせる」
「労働と対価による、自己管理の徹底ね……わかったわ。マルタおばさんにも伝えておく」
空が、白み始めていた。
遠くの地鳴りが、風に乗って微かに届いたような気がした。もうすぐ、アシュランたちが迎撃の戦端を開くはずだ。
この数万の群衆が、その戦闘の音に怯え、パニックを起こす瞬間が必ず来る。
ロイルは重い腰を上げ、外套についた泥を払い落とした。
「俺は、何があってもこの門の前の秩序を守る。暴動の芽があれば、自警団を使ってでも力で押さえ込む。……これが、俺の役割だ」
「私も、行くわ」
ロッテも立ち上がり、煤で汚れた両手で、自分の頬を軽く叩いた。
その顔には、先ほどまでの迷いや罪悪感は一切ない。王族として、この数万の民の前に立つという、後戻りのできない覚悟だけがあった。
「私が前に出る。私の言葉と『王女』という名を使って、彼らの恐怖を繋ぎ止める。……力で押さえきれなくなった時は、私が盾になる」
それは、甘い恋の約束などではない。
圧倒的な暴力と絶望が迫る中で、互いの背中を預け合う「役割の約束」だった。
立ち上がった二人の視線が、焚き火越しに真っ直ぐに交差した。
泥と煤にまみれた顔。身分も育ちも全く違う二人。
だが、その一瞬だけ交わされた視線には、言葉にするにはまだ早すぎる、互いへの深い信頼と、淡く熱い感情の芽が確かに宿っていた。
「……頼む」
ロイルは、それだけを短く口にした。
王女に対してでもなく、ただの少女に対してでもなく、ただ一つの危機を共に乗り越える戦友に向けて。
「ええ」
ロッテは凛とした声で返し、小さく頷いた。
爆ぜる焚き火を背に、二人はそれぞれの過酷な持ち場へと、足早に歩き出していった。
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