幕間6-1:泥道と決意
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夜の王城は、いつも静謐な空気に包まれているはずだった。
だが、その夜は違った。私室のベッドの端で毛布を握りしめていたシャルロッテは、分厚い扉の向こうから微かに伝わってくる「異物のような音」に、全身を震わせていた。
規則正しい衛兵の巡回とは違う、重く乱れた複数の靴音。
遠くで響く、誰かの短い怒号と、鈍い衝突音。
窓の隙間から差し込む中庭の光が、異常なほどに増えたり減ったりしている。松明を持った大勢の人間が、本来立ち入るべきではない区画を走り回っているのだ。
何が起きているのか、政治的な背景はシャルロッテには全く分からなかった。ただ、本能が告げている。この城は今、決定的に安全ではなくなったのだと。
「……っ」
扉の鍵が静かに、しかし確実に回る音がした。 シャルロッテが息を呑んで後ずさった瞬間、音もなく滑り込んできたのは、見慣れた初老の男とシャルロッテの専属メイドだった。
「クラウス……!」
「姫様。時間がありません」
筆頭執事であるクラウスは、いつもの仕立ての良い燕尾服ではなく、街の裏通りに溶け込むような暗色の平服に身を包んでいた。その手には、大きな麻袋が握られている。
彼は無駄な説明を一切省き、麻袋から衣類を取り出してベッドに広げた。
「これを着てください。今すぐです」
それは、市場で使い古されたような粗末な麻のワンピースと、分厚いが色褪せた外套、そして底のすり減った革靴だった。
「……逃げるのですね」
「はい」
「クラウス様。お外へ」
クラウスの後ろに付き従っていたシャルロッテの専属メイドが、静かに、しかし毅然とした声で言い放った。
「……失礼いたしました。手早くお願いします」
クラウスは短く頭を下げ、足早に扉の外へ退出した。
メイドは青ざめた顔をしながらも手早く、シャルロッテが身につけていた上質な絹のナイトドレスを脱がせた。
冷たい夜気が素肌を刺すが、躊躇う余裕はない。メイドが着せかけた粗末な麻の服は肌を擦ってチクチクとしたが、シャルロッテは無言でそれに袖を通した。
「よくお似合いですよ、シャルロッテ様……」
メイドはそこで言葉を詰まらせ、大粒の涙をこぼした。
「あなたも早く着替えて。一緒に逃げるのよ」
シャルロッテが手を伸ばすが、メイドは静かに首を横に振った。
「いいえ。私はここに残ります。誰かがこのベッドに潜り込んで身代わりにならなければ、脱出がすぐに露見してしまいます」
「そんな……! 見つかったら、あなたは殺されてしまうわ!」
シャルロッテは青ざめてメイドの肩を掴んだ。共に育ち、ずっと自分の世話をしてくれた姉のような存在だ。置いていくことなどできるはずがない。
「私が仕えるのは、シャルロッテ様ただお一人です。貴女様が生き延びてくださるなら、私の命など惜しくはありません」
メイドは泣き崩れそうになるシャルロッテを優しく、力強く抱きしめると、すぐにその体を突き放した。
「さあ、お急ぎください。私の愛する、気高いシャルロッテ様。……どうか……どうか、ご無事で」
「……わかりました。ありがとう。あなたのこと、絶対に忘れません」
シャルロッテは溢れる涙を乱暴に拭い、後ろ髪を引かれる思いを断ち切って頷いた。
短い、しかし永遠にも等しい別れの後、扉をノックして再び入室したクラウスは、暖炉の灰を布に包み、シャルロッテの輝くような金髪をそれで無造作に汚し、くすんだ色の頭巾で深く覆い隠した。さらに、その灰で彼女の白い頬や手にも汚れを擦りつける。
「申し訳ございません、姫様。暫しの辛抱でございます。……王女シャルロッテとしての特徴は、ここで全て捨て去らねばなりません」
シャルロッテは、鏡台に置かれた自分の宝石箱に目をやった。母の形見の指輪や、美しい装飾品が詰まっている。せめて一つだけでも——そう手が伸びかけた時、クラウスが静かに、しかし力強くその手を制した。
「……お気持ちは痛いほど分かります。ですが、王家の装飾品は必ず足がつきます。お持ちいただけるのは、身元が分からない金貨数枚だけなのです」
クラウスの苦渋に満ちた、しかし冷徹な事実を告げる言葉に、シャルロッテは自分の手が震えているのに気づいた。
高価な香油の瓶も、お気に入りのリボンも、すべて置いていく。それは、今まで自分を守り、形作ってきた「王女」としてのすべてをこの部屋に捨て置くということだった。
「無礼をお許しください。今日から、あなたはただの『ロッテ』です。平民の娘として、ただ息を潜めて……何としても生き延びていただきます」
「……わかったわ、クラウス」
彼女は小さく、しかしはっきりと頷いた。
◇
城からの脱出は、シャルロッテが想像していたような劇的なものではなかった。
剣戟の音も、追手との派手な立ち回りもない。クラウスが選んだのは、使用人がゴミを捨てるための裏動線や、物資搬入用の暗い地下回廊だった。
彼は絶対に戦おうとはしなかった。
角を曲がる前には必ず立ち止まり、気配を探る。遠くに松明の光や鎧の擦れる音が聞こえれば、埃まみれの物陰にシャルロッテを押し込み、息を殺して通り過ぎるのを待った。彼の有能さは、敵を倒すことではなく「誰にも見つからずにすり抜ける段取り」にこそあった。
「走らないでください。目を伏せ、決して誰とも目を合わせないように」
すれ違うことの多い厨房裏の通路に出る直前、クラウスが極めて小さな声で指示を出した。
「息を整えて。貴方はただの、夜勤明けで疲れ切った下働きの少女です。……前へ」
扉を押し開けた先で、武装した数人の兵士が談笑しているのが見えた。
シャルロッテの足が恐怖で床に縫い付けられそうになる。心臓が早鐘のように打ち、今すぐ引き返して暗闇に逃げ込みたい衝動に駆られた。
だが、背中にクラウスの手がそっと触れた。その手は、そこにクラウスがいるという確かな熱だけを伝えた。
シャルロッテは深く息を吐き、頭巾を深く被り直して、重い足を引きずりながら歩き出した。
視線を床の石畳に固定し、兵士たちの横を通り過ぎる。兵士の一人がちらりとこちらを見たが、汚れた外套と猫背で歩くみすぼらしい姿にすぐ興味を失い、視線を外した。
背中に冷や汗をかきながら、シャルロッテはただクラウスの言う通りに足を動かし続けた。
◇
王都の最下層にある汚水路の出口を抜け、外の世界に出た時、容赦のない冬の風がシャルロッテの体を打ち据えた。
「ここは……」
見上げれば、王都を囲む巨大な外壁が、黒い影となってそびえ立っている。
彼らはついに、城の敷地はおろか、王都の防壁の外へと脱出することに成功したのだ。
「クラウス様、こちらです」
暗がりの中から、声を潜めた数名の男たちが現れた。
王家の意匠を外した暗灰色の外套を羽織る彼らは、クラウスが事前に手配し、王都の外で待機させていた少数の精鋭騎士たちだった。その中には、若き騎士セドリックの姿もある。
「姫様、ご無事で何よりです」
「皆も、よく集まってくれた」
短く労うと、クラウスはすぐに冷徹な表情に戻った。
少数の護衛と合流し、物理的な安全は少しだけ増した。だが、本当の地獄はここからだった。
道なき荒れ地と、凍てついた土の道。 王城の柔らかな絨毯や、完璧に磨かれた石畳しか歩いたことのなかったシャルロッテの足にとって、護衛たちに守られながらであっても、その一歩一歩は想像を絶する苦痛の連続だった。
すり減った平民の靴底は、氷の冷たさをダイレクトに足の裏へと伝えてくる。
少し歩いただけで、足の指の感覚が失われ、石ころを踏むたびに踵に鋭い痛みが走った。一時間も歩かないうちに足の皮が破れ、靴擦れの血が滲んでいるのが、痛みの質でわかった。
「痛い……足が、ちぎれそう……」
思わず零れた弱音。冷たい土の上に倒れ込み、もう一歩も動きたくないという誘惑が全身を支配する。
「助けて」と言えば、誰かが来た。王女でいる限りは。
だが、今の彼女はただの『ロッテ』だ。 背後を振り返れば、王都の空が不自然な赤色に染まっている。火の手が上がっているのだろう。あそこに残っていれば、今頃は間違いなく死んでいた。
歩くという行為が、これほどまでに痛みを伴い、泥にまみれ、己の命を削るようなものだったとは。シャルロッテは凍てつく土を掴み、その冷たさで無理やり意識を覚醒させた。
「王女シャルロッテ」は城の寝室で死んだのだ。今ここにいるのは、冷たい土と泥の感触を噛み締めながら、生き残るためだけに足を前に出す一人の人間だった。
◇
明け方。
王都から遠く離れた、街道から外れた鬱蒼とした森の入り口で、一行はようやく短い休息をとった。
クラウスは懐から小さな水筒を取り出し、シャルロッテに手渡すと、薄明かりの中で静かに地図を広げた。
「東へ向かいます」
クラウスが、一切の迷いのない声で告げた。
「東……? 帝国の国境の方角ですか?」
「はい。この王都の混乱から逃れ、かつ王国の軍が容易に手を出せない場所。そして、我々のような訳ありの人間を匿えるだけの力を持った場所が、一つだけあります」
クラウスは地図の一点を指差した。
「かつて死刑宣告の地と呼ばれた辺境……ウルム村です」
「ウルム……」
「はい。あそこならば、あるいは生き延びる道が開けるかもしれません」
それは、ただの根拠のない噂話などではない。クラウスが王都で集めた数少ない確かな情報と、冷徹な計算によって導き出された、唯一の「生存ルート」だった。
シャルロッテは、ズキズキと脈打つ足の痛みに耐えながら、ゆっくりと立ち上がった。
まだ幼く、脆弱な体だ。この先も飢えと寒さと痛みが続くことは火を見るより明らかだった。
でも、私は戻らない。
私は、生きる。
「逃げる」のではない。この痛みを引き受けて、自分の足で「歩く」のだ。
シャルロッテは、白み始めた東の空を見つめた。
そして、いつかこの泥道の痛みを忘れず、自分と同じように暗闇の中で凍えている誰かを、自分の手で助けられるようになりたいと、心の底で小さな、けれど決して消えない決意の炎を灯した。
霜の降りた土に続く小さな足跡は、彼女が己の足で歩き出した未来への一本道だった。
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