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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第6章 秩序と瓦解

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第92話:流出と空洞

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

初老の修理職人であるトマスは、隣に住んでいた靴職人ヨハンの家の扉が、今朝から半開きになったまま風に揺れているのを黙って見つめていた。

中を覗き込むまでもない。昨日の夕暮れ時、ヨハンが熱でぐったりとした妻を背負い、最低限の荷物だけを抱えて東門へ向かうのを見ていたからだ。


「ウルムへ行けば助かる」その根拠のない噂に取り憑かれたように、昨日だけで数え切れないほどの人間が、家も財産も捨てて王都から逃げ出していった。


残されたトマスは、重い足取りで自分の仕事場がある市場の裏通りへと向かった。いつもなら、早朝から荷車の車輪が石畳を叩き、商人たちの怒号が飛び交っているはずの場所だ。だが、そこにあるのは異様なまでの「静けさ」だった。


「トマス爺さん……店、開けたくても開けられないぜ。人がいないんだ」


市場の入り口で座り込んでいた荷運びの男が、空っぽの木箱を蹴り飛ばしながら吐き捨てた。


「荷を運ぶ者が消えたのか?」


「消えたどころじゃない。朝から一台も馬車が来ないんだ」


「裏通りのパン屋はどうした?」


「焼けないってさ。薪を割る奴も、粉を運ぶ奴も、みんな昨日の列に混ざって逃げちまった」


男の言葉に、トマスはぐるりと周囲を見渡した。

鎧戸が下りたままの店。放置された荷車。散乱した野菜のくず。


「……修理屋の俺も同じだ。直す物を持ち込む客がいない。直したところで、代金を払える奴もいない」


「鍛冶場の音も、今朝から完全に止まったな」


「槌の音がしない……」


トマスは深く、重いため息をついた。


「働き手がみな逃げちまった。中身が空っぽな、街のガワだけが残ったってわけだ」


金や物資が足りないのではない。それを動かし、街の血液として循環させるための「人」という存在そのものが、巨大な幻影に吸い寄せられて消滅してしまったのだ。経済の崩壊ではなく、都市機能の停止だった。



食糧の配給があるかもしれないという一縷の望みを抱き、トマスは中央広場へと続く大通りを目指して歩き出した。

だが、そこへ至る道筋の路地裏で交わされている会話は、どれも絶望に満ちていた。


「ねえ、この通り……最近、兵士の見回りが全然来ないの?」


幼い子供の手を引いた母親が、不安げに近所の男に尋ねている。


「来ないさ。用がないなら、暗くなる前に早く家に帰って閂をかけな」


「でも、もし暴徒に襲われて、助けを呼べば——」


「呼ぶな。呼んでも絶対に誰も来ないさ」


近所の男が冷たく言い放つ横で、通りかかった若い男が忌々しげに壁を蹴った。


「大通りの門の近くは、あんなに重武装の兵がいるのにな」


「一本路地に入ると、誰もいやしない。見事なもんだ」


トマスが路地の隙間から大通りを覗き込むと、軍の巨大な食糧倉庫や、貴族街へと続く橋の前にだけ、槍を構えた兵士たちが隙間なく並んでいた。彼らは近づこうとするやせ細った市民に対し、容赦なく切っ先を向けて威嚇している。


「倉庫の前だけはあんなに守るのに、こっちの居住区は完全に捨てるんだな」


若者の皮肉めいた言葉に、近所の男は自嘲気味に笑った。


「勘違いするなよ。国が守ってるのは『人』じゃない。軍の物資と、その通り道だけだ」


治安は、もはや国家が等しく保証するものではなくなっていた。 兵士の数は限られている。だからこそ軍部は、王都全体を守ることを放棄し、「点」としての要所だけを固めることに専念しているのだ。線や面で守られていない一般市民は、ただ見捨てられ、無法地帯に取り残されるしかなかった。



大通りへ出ることを諦め、トマスはスラムに近い裏通りを迂回して帰路についた。

その区画に足を踏み入れた瞬間、鼻をつく強烈な悪臭に思わず顔をしかめる。


「……臭いが消えないの。窓を閉めても、隙間から這い入ってくるんじゃ」


路地裏の淀んだ空気の中で、老人がボロ布で口元を押さえながら呻いていた。


「裏の排水溝が完全に詰まってるんだよ。もう何日も汚物が流れてないんだから」


痩せこけた女が、虚ろな目でどぶ板を指差す。


「だったら誰かが片付ければいいだろ!」


「運び人がいないんだよ! 片付ける人も、ゴミを回収する荷車も、みんないなくなっちまったんだ!」


苛立つ若い男に、女が金切り声で怒鳴り返す。

トマスは近くの共同井戸に目をやった。いつもなら女たちの井戸端会議で賑わう場所だが、今は誰もいない。水汲み桶の底に残っているのは、茶色く濁り、異臭を放つ泥水だけだった。


「水も濁ってきた。沸かしても、怖くて飲めたもんじゃない……」


「捨てる場所がないゴミが、あちこちで山になっていくだけだ」


街を清潔に保つための、目に見えない無数の労働。それらを担っていた下層の市民たちがこぞって「辺境の村」へと流出した結果、王都の衛生環境は一瞬にして致命的な限界を迎えていた。


「昨日、隣の婆さんが倒れたけど……」


女が、ふらつく足元を見つめながら呟いた。


「運んでくれる人間もいなければ、運ぶ先の治癒院もない。そのまま放ってあるよ。……この街は、もう回ってないんだ」


病が広がるのは時間の問題だった。飢え、暴力、そして不衛生。都市としての寿命が、音を立てて尽きようとしている。誰もがその事実を肌で感じながら、ただゆっくりと訪れる死を待つことしかできなかった。



「下層区の治安悪化と、それに伴う衛生状態の崩壊が看過できないレベルに達しています。このままでは王都の機能が完全に停止しますぞ」


王城の冷え切った会議室。文官の一人が悲痛な声で訴えかけるが、モンフォール元帥は、手元の書類から視線すら上げなかった。


「兵を回す余裕はない。我が軍の最優先事項は、暴徒からの『軍事物資の保護』と『主要幹線の確保』だ。スラムの小競り合いや、下水道の掃除に割く兵力など一兵たりとも存在しない」


その冷徹極まりない切り捨てに、文官は絶句する。

上座に座る大公爵もまた、ワインの入った銀杯を揺らしながら薄く笑っていた。


「構わん。外へ流れるなら流れれば良い。口が減る。…我々が生き延び、軍が動ける態勢さえ整えておけば、王都のガワなど後の政治でどうとでもなる」


彼らの目には、逃げ遅れた市民は既に「救う対象」ではなく、切り捨てるべき「負債」としてしか映っていなかった。

来るべき他国との戦争、あるいは内乱の鎮圧。その後の権力闘争の主導権を握ることだけが彼らの関心事であり、足元の泥で喘ぐ民の命など、盤上の駒以下の価値しかなかった。



夕闇が迫る王都は、不気味なほどの静寂に包まれていた。

トマスは暗い部屋の隅で、冷え切った金槌をただ無意味に撫でていた。


王族にも、軍部にも、そして魔術院にすら見捨てられた巨大な空洞。

既存の秩序が完全に崩壊し、権力者が明確に民を見捨てたその絶対的な「空白」は、市民たちの心にどうしようもない絶望と、ある一つのどす黒い渇望を生み出していた。


誰でもいい。どんな極端な思想でも、どんなに血塗られた手でもいい。

この地獄を壊し、自分たちを救い出してくれる「強力な誰か」を。


それこそが、過激な『救国』の物語が入り込むための、最悪の隙間だった。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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