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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第6章 秩序と瓦解

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第90話:噂と行列

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

朝。冷え切った隙間風が吹き込む粗末な部屋で、靴職人のヨハンは薄い毛布にくるまる妻の背中を見つめていた。

彼女は長引く微熱に体力を奪われ、時折乾いた咳を繰り返している。だが、飲ませる薬はおろか、水に溶かす塩すら底を突きかけていた。


昨日の昼間、中央広場で魔術院の救護とアルベールの演説を目の当たりにしたヨハンは、群衆の中で生まれた異様な熱気を肌で感じていた。

「明確な敵がいる」「誰かが俺たちの食糧を奪っている」。その怒りの矛先は、一夜明けた今、王都の路地裏や井戸端で、奇妙なほど熱を帯びた「希望の形」にすり替わって燃え広がっていた。


「聞いたか? 王都から東の果てに、『ウルム』って村があるらしいぞ」


「ああ。そこの壁の中じゃ、信じられないくらい食い物が余ってるって話だ」


水を汲みに出た路地で、男たちが血走った目で囁き合っている。

噂は、王都の飢えと恐怖を反転させたように、都合の良い誇張を幾重にもまとって爆発的に増殖していた。


「普通の水じゃない。一口飲めばどんな病気も治る霊薬の泉があるんだと」


「聖女様が守ってるらしいからな! 十年寿命が延びる黄金の果実が実ってるって噂だぞ」


「誰でも受け入れてくれて、行けば立派な家が一つ貰えるんだとよ!」


正気な時であれば、鼻で笑って一蹴するようなおとぎ話だ。ヨハンも最初はそう思った。だが、配給は途絶え、店は鎧戸を下ろし、愛する妻は熱で弱り切っている。そんな絶望の底にいる者たちにとって、それが真実かどうかはどうでもよかった。彼らが欲しているのは、今の苦しみから逃れられる「理由」なのだ。


「馬車で十日だって? じゃあ、歩けば二十日かかるのか!?」


「黙れ。ここにいたら“明日”がない」


「……ここにいたら、間違いなく死ぬ」


誰かがぽつりと呟いたその一言が、ヨハンの胸に深く突き刺さった。そうだ。ここにいても、待っているのは餓死か、病の悪化か、暴徒に家を襲われる未来だけだ。 行くしかない。


噂はついに、彼らの中で明確な「選択肢」へと変わった。



昼。王都のあちこちで、市民たちが異様な活気と思いつめた顔で動き始めていた。逃走の準備だ。


皆、重たい家財道具を道端に捨てたり、少しでも路銀の足しにしようと声を枯らして売り歩いたりしている。だが、この極限状態で重い家具を買う者など誰もいない。


「荷車を引いている奴は、老人や子供を乗せてやってくれ!」


「荷車がない奴は持てる分だけ背負え! 子供は絶対に手を離すなよ!」


「夜は先頭と後尾だけ松明を持て! 列が割れたら終わりだ!」


経験のある者や兵士崩れの男たちが、大声を張り上げて周囲に忠告している。徒歩での大移動が、いかに過酷で危険なものかを誰もが予感していた。


ヨハンは家に戻り、妻を背負えるように丈夫な布を裂いて帯を作った。 水筒と、わずかに残った黒パンを包む。そして、部屋の隅に置かれた職人の道具箱を見つめ、立ち尽くした。 親方から譲り受けた重い鉄の金槌。様々な形の木型。質の良い革をなめすための薬品瓶。どれも、彼の靴職人としての誇りであり、命の次に大切なものだった。


ヨハンは震える手で金槌を持ち上げたが、やがてそれをゆっくりと床に戻した。

今の妻を背負い、さらにこの重い道具箱を抱えて何日も歩き通すことなど不可能だ。


「……生きてたどり着けば、きっとまた作れる」


彼は最小限の革紐と、革を裁つためのナイフだけを懐にねじ込んだ。

職人としての過去を捨て、ただ生き延びるためだけの荷物を背負い、ヨハンは熱でぐったりとした妻を背負って家を出た。



夕暮れ時。王都の東門は、異様な光景に包まれていた。

凄まじい人の数だった。みな、ヨハンと同じように背中に荷物を抱え、無言で足を前に進めている。

着の身着のままの者、赤ん坊を抱いた母親、杖をついた老人。その表情は一様に固く、疲労が色濃く滲んでいる。だが、その瞳の奥には「あの村へ行けば救われる」という強烈な光が宿っていた。


道中の野盗や魔物を恐れ、人々は自然と寄り集まり、巨大な群れとなっていく。

もし行き先に何もご褒美がなければ、彼らはこの寒空の下で門を出る一歩を踏み出せなかっただろう。だが、「黄金の果実」と「霊薬」と「無償の家」という甘美なデマが、彼らの足を強制的に前へと動かさせていた。


ヨハンも妻の重みに耐えながら、その分厚い人の波に加わった。

ふと後ろを振り返ると、王都の暗い街並みから、次々と人が湧き出し、列の最後尾に連なっていくのが見えた。


この巨大な人口流出の流れは、もはや王都の誰にも止められない。

列は止まらない。ただ一つの幻の楽園を目指して、絶望の塊が這い進み始めていた。



夜。街道。

頭でわかっていたつもりでも、現実は想像を絶するほど過酷だった。王都を出て舗装されていない泥道に入ると、足元は容赦なく体力を奪っていく。刺すような冷たい冬の風が、薄着の避難民たちの体温を奪っていった。


「休むな! 置いていかれるぞ!」


「水が……誰か、水を一口でいいから……」


「まだ歩くのか……足の感覚がない……」


暗闇のあちこちで、子供の泣き声が響き、限界を迎えた老人が泥の中に倒れ込む。だが、助け起こす余裕のある者などどこにもいない。誰もが警戒のために松明を掲げているが、闇夜に連なるその無数の火の列は、かえって彼らの絶望的な数の多さと、どこにも逃げ場のない現実を冷酷に浮き彫りにしていた。


時折、列の端の方で、見ず知らずの他人の荷物を奪おうとする諍いや、くぐもった悲鳴が上がる。極限の疲労と食糧不足は、人から道徳を剥ぎ取っていく。倒れた者の懐から、わずかなパン屑を奪い取って口に放り込む者すらいた。

ここは救済への道などではない。ただの地獄の行進だった。


ヨハンも、背中の妻の浅い呼吸を聞きながら、歯を食いしばって泥に足を取られまいと必死だった。

足の裏の皮が破れ、血が滲んでいるのがわかる。

それでも歩を止めないのは、「ウルムに行けば妻の熱が下がる」という、根拠のない希望だけが彼を縛り付けているからだ。



徒歩による大行列の歩みは、老人や子供を含んでいるため絶望的なまでに遅い。

だが、絶望と熱狂に駆られた「情報」の足は、彼らよりもはるかに速かった。


馬を持っていた数少ない商人や、荷物を極限まで減らして身軽に走る体力のある若者たちが、泥まみれの大行列を横目に次々と追い抜いて先へと急いでいた。

彼らは道中にある宿場や、街道沿いの小さな村を通り抜けるたびに、王都で聞いた「楽園のデマ」をさらに尾ひれをつけて撒き散らしていく。


「ウルムに急げ! あそこには奇跡があるぞ!」


「遅れたら食い物がなくなる! 急ぐんだ!」


彼らが通り過ぎた後には、新たな不安と欲望が種として撒かれ、その村からもまた新たな避難民が列に加わろうとする。

噂は、人の足よりもずっと早く、風に乗って街道沿いに駆け抜けていった。


ウルム村に向かって、列より先に、噂が走った。

それは何千という人間の飢えと欲望をまとった、最悪の巨大な厄災の兆しとなって、真っ直ぐにアシュランたちの待つ辺境へと突き進んでいた。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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