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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第6章 秩序と瓦解

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第89話:施しと矛先

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

王都の下層区に住む中年の靴職人、ヨハンは、空っぽの木箱を見つめて深くため息をついた。


「今日も、豆の配給はなしか……」


昨夜から並んでいた中央広場の配給所は、早朝に「本日の物資は底を突いた」と無情な打ち切りを宣言された。

街の商店はどこも重い鎧戸を下ろしている。わずかに開いている店があっても、棚に並んでいるのは小分けにされた塩や水、石のように硬い黒パンだけで、とてもまともな生活ができる状態ではない。特に、熱を出して寝込んでいる妻のための薬草などは、金貨を積んでも手に入らない状況だった。


「夜は外に出るなよ。昨日も二つ隣の通りで、荷車ごと身ぐるみ持っていかれた奴がいるらしいからな」


「鎧戸を閉めても無駄だ。壊されて押し入られるぞ」


帰り道ですれ違う顔見知りの住人たちの口からは、そんな生活防衛の暗いルールばかりがこぼれる。

食糧が尽き、治安が崩壊し、誰もが疑心暗鬼になっている。王都の市民の生活は、もはや「もう限界」という言葉すら生ぬるいほどの絶望的な底に達していた。


その時だった。

広場の方角から、騒がしい足音と共に、ある噂が波のように流れてきた。


「魔術院の救護班だ! 粥を配って、怪我人を診てるらしい!」


その声に、ヨハンは迷いながらも、ふらふらと広場の方へ足を踏み出した。



中央広場では、魔術院の救護班が炊き出しと治療を進めていた。


黒と銀のローブを纏った魔術師たちが、見えない防壁で即席の区画を作り、そこに等間隔で魔術の灯りを浮遊させている。

その温かな輝きの下で、粥の配給と、魔法による怪我人の治療が静かに進められていた。


「慌てないでください。我々は誰も傷つけません。治療と救護のために来たのです」


最前列で怪我をした男が、術師の杖から放たれた淡い浄化の光に包まれ、瞬く間に傷が塞がっていく。その奇跡のような光景を見た瞬間、群衆は文字通り息を呑んだ。


「お、おおお……!」


「本当に治った……魔法だ、本物の魔法だ!」


彼らは本当に救われている。殺気立っていた市民たちの顔から、少しずつ恐怖が抜け落ちていく。


ヨハンもまた、懸命に治療に当たる魔術師たちの疲労に満ちた、しかし真剣な横顔を見て、胸を撫で下ろしていた。「王都はまだ、完全には見捨てられていなかったのだ」と、底知れぬ安堵が広がっていくのを感じたのだ。


だが、そのささやかな平穏は、突然響き渡った軍靴の音によって無惨に踏みにじられた。


「そこを退け! 警備の陣形を敷き直す!」


怒号と共に、公爵家の紋章を掲げた重武装の兵士たちが広場に雪崩れ込んできたのだ。彼らは救護活動を行っている魔術師たちを強引に脇へ押しやり、まるで魔術院の奇跡を自分たちの「見世物」として利用するかのように、群衆を取り囲んで威圧的な舞台を作り上げた。

しかし、魔術師たちは歯を食いしばりながらも、杖を上げなかった――攻撃魔法は、全面禁止だ。


「皆の者、道を開けよ! 新体制の代表、アルベール様が来られる!」


兵士の一人が高らかに宣言すると、安堵に包まれていた群衆のざわめきが、緊張と共にピタリと止んだ。



兵士たちが強引に群衆を掻き分け、魔術師たちに威圧的に道を開けさせたその奥から、一人の青年が進み出た。 かつて天才魔術師と謳われた、アルベール・ド・リヒテンブール。 彼は憔悴した様子もなく、むしろ内側から燃え盛るような異様な熱を帯びた「救う側の顔」をして、簡易的な演壇の上に立った。


「腹が減っているのはわかる。明日がどうなるのか、怖いのも当然だ」


アルベールのよく通る声が、静まり返った広場に響き渡る。

その言葉は、腹と恐怖にそのまま届いた。群衆の視線が、演壇に吸い寄せられていく。


「だが、理不尽に耐える必要はない。なぜなら、この王都の混乱は天災ではないからだ」


アルベールは演壇の上から群衆を見渡し、声を一段階低くした。


「この国を意図的にこうした者がいる。我々の秩序を壊し、その混乱に乗じて自分たちだけが得をしている者たちが、確実に存在しているのだ」


ヨハンは息を呑んだ。

周りの市民たちも同じだった。「誰のせいでもない不幸」ではなく、「明確な悪意」が存在するという言葉は、絶望していた彼らにとって、ある種の麻薬のような答えだった。


「我々は君たちを見捨てない! 私が必ず、この狂った秩序を立て直して見せる!」


アルベールは拳を固く握りしめ、本気の熱を込めて絶叫した。背後で魔術師たちが忌々しげに顔を歪めるが、アルベールは構わず彼らの成果を自らの手柄として群衆に誇示した。

それは彼自身が「自分が立てばこの国を救える」と本気で信じ込んでいるからこそ発せられる、狂気に満ちた信念の熱だった。


その熱は、完全に群衆に伝播した。

怒りと不安で満ちていたざわめきが、一瞬にして「救世主に対する期待」の静けさへと変わる。



市民たちは、もはや「正しい政策」や「複雑な権力闘争の真実」など求めていなかった。

彼らが求めていたのは、「自分が救われる理由」と、「自分が苦しんでいる原因」、そして「憎むべき悪者」という、わかりやすい『物語』だった。


アルベールの言葉によって、群衆はついにその“答え”を得た。


「……誰かがそう言ってくれるのを、ずっと待ってたんだ!」


「そうか、やっぱり誰かのせいなんだ。俺たちが悪いんじゃない」


「そいつらを止めれば、俺たちの生活は元に戻るんだな!」


広場のあちこちで、市民たちが顔を見合わせ、興奮した声で囁き合う。


「敵はどこだ? 誰が俺たちからパンを奪ったんだ!」


「どこかに、俺たちの分まで食糧を隠し持っている奴らがいるはずだ!」


ヨハンもまた、無意識のうちに拳を強く握りしめていた。

救いを求めて集まったはずの群衆は、アルベールの用意した物語に吸い寄せられ、次の一歩を踏み出すための「敵」を求め始めた。


その時、群衆の端から、誰かが意図的に流したような噂が、波のように広がっていった。


「王都の外の辺境に、異様に豊かな村があるらしいぞ」


「神も王も要らないと嘯いて、自分たちだけ安全な壁の中でぬくぬくと暮らしている奴らがいるそうだ」



「……そこに上手く逃げ込んだ奴もいるらしいじゃないか!」


その言葉が落ちた瞬間、広場の空気が完全に変質した。

誰かが足元の石を拾い上げる。誰かが、まだ火のついていない松明の柄を強く握り直す。「行こう」という声が、どこからともなく上がり始める。


彼らはまだ動いてはいない。だが、その瞳に宿る光は、もはや救いを求める弱者のそれではなかった。


救済と施しによって熱狂を得た群衆は、今まさに、その怒りの矛先を形作ろうとしている。

名前はまだ、明確には出ていない。

だが、その鋭い切っ先は、間違いなく「あの村」へと向き始めていた。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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