第87話:善意と制度
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夜明け前のウルム村。気温は氷点下近くまで冷え込み、臨時野営地には白い息と乾いた咳、そして寒さにぐずる子供の泣き声が重く立ち込めていた。
正門の内側に設けられた広場では、王都から命からがら逃げてきた避難民たちの列が、黒い蛇のように長々ととぐろを巻いている。
「……駄目だ、列が全く進まない。昨日の朝と比べて、待機列が二倍に膨れ上がっているぞ」
現場で指揮を執るロイルが、血走った目で状況を確認しながら吐き捨てるように言った。 問題は食料の不足ではなかった。村の女たちが不眠不休で回している炊き出しの鍋はフル稼働している。だが、温かいスープを配る「配給」、病気や怪我を診る「検疫」、そして仮設の「寝床」への案内という三つの作業が、一つの入り口で完全に詰まっていたのだ。
「早く温かいものをくれ! 子供が凍え死んじまう!」
「こっちは怪我人がいるんだ、先にテントに入れろ!」
簡易診察の順番を待てない者たちが怒号を上げ、仮設棟の前では寝床の割り当てを巡って小競り合いが起きかけている。村人たちの純粋な善意と献身だけでは、雪崩れ込んでくる数千の絶望を受け止めることは到底不可能だった。
◇
混乱を極める列の途中で、今にも押し倒されそうになっていた老婆を、細い腕がしっかりと支えた。
「大丈夫ですか。もう少しの辛抱ですからね」
質素な外套を羽織ったロッテだ。彼女は自分の分の毛布を老婆の肩にかけ、周囲の子供たちに安心させるような微笑みを向けていた。
その姿を見つけたロイルが、慌てて群衆を掻き分けて駆け寄る。
「おい、ここは危ない! 列がいつ暴発するか分からないんだ、あんたは下がってくれ!」
「いいえ。私にも出来ることがあります。彼らと同じように」
ロッテは凛とした声で返し、決して引こうとはしなかった。その眼差しは庇護されるだけの弱者のものではなく、現場を支えようとする対等な意志に満ちていた。
ロイルがその真っ直ぐな瞳に一瞬だけ言葉を失った、まさにその時である。
ドンッ、と後ろから押された避難民の波がロッテに迫った。
しかし、波が彼女に届くより一瞬早く、初老の執事クラウスともう一人の屈強な従者が、音もなくロッテの背後に滑り込んだ。
彼らは何気ない動作を装いながらも、完全に壁を背にした「盾」の陣形を敷き、周囲の死角を完璧に潰していた。さらに、配給の物資を受け取る際、彼らの手つきには一切の無駄がなく、流れるような軍の受領動作そのものだった。
しかも彼らの視線は、手元の食糧ではなく、常に『出口の導線』と『周囲の脅威』に向けられている。
(やはり……ただの従者じゃないな。あれは、命を預かる側の動きだ)
ロイルは背筋に微かな冷や汗をかきながら、彼らの異常なまでに洗練された挙動に圧倒されていた。
◇
物見櫓の階段を、革靴が一定の速度で下りてきた。
「……善意は立派な燃料だ。だが、燃やし方を間違えれば、ただ寒さに負けて凍えるだけだぞ」
俺は広場を見下ろし、冷たく言い放った。後ろには、カインとエレノアが影のように付き従っている。
俺は広場の惨状を数秒だけ見渡し、即座に手元の羊皮紙に何本かの線を引いた。
「ロイル、問題は物資じゃない。導線の設計だ。一つの列で全部をやろうとするから破綻する。今すぐ入り口の列を『三つ』に分岐させろ」
俺は躊躇いなく現場の構造を書き換えていく。
「一つ目は健康な者の『配給列』。二つ目は『検疫列』。三つ目は『寝床の案内列』だ。入り口の段階で目的別に人間を仕分けしろ」
「しかし、検疫のテントがもうパンク寸前です! 一人ずつ診察していては……」
「診察などするな」
俺はロイルの言葉を冷たく遮った。
「今は治療ではなく『危険度分類』だ。熱や酷い咳がある『赤』の者だけを隔離棟へ回し、それ以外の軽い怪我人は配給列へ流せ。命の危険がない者まで丁寧に診ている余裕はない」
「寝床の割り当ても変更します」
カインが眼鏡を押し上げながら、束になった木札を取り出した。
「口頭での案内は情報の伝達に時間がかかりすぎます。赤、青、黄に色分けした札を入り口で渡し、同じ色の旗が立っている天幕へ向かわせてください。案内係は持ち場を動かず、旗の下で立っているだけで済みます」
鮮やかなまでの手順の分解と、徹底した合理化。
「並ばせるな。流れを作れ」
俺は広場で立ち尽くす自警団たちに向けて、はっきりと告げた。
「同情で列は進まない。冷徹な手順だけが、この人数の命を回すんだ。動け」
俺の指示のもと、ロイルたちが一斉に動き出す。
すると、泥沼のように停滞していた数千人の群れが、水路を得た水のように流れ始めた。怒号は薄れ、配給と寝床が、手順どおりに行き渡っていく。
——奇跡じゃない。設計だ。
◇
だが、制度という名の明確なルールが敷かれると、必ずそこから弾き出されようとするノイズが現れる。
「ふざけるな! 俺たちはこいつらを王都から護衛してきたんだ! なぜ入り口で武器を預けなきゃならねえ!」
「ここはただの開拓村だろうが! 俺たちの剣がなきゃ、野盗に襲われた時に誰が守るんだ!」
入り口の検問で、腰に剣を帯びた数人の男たちが自警団に食って掛かっていた。
ルールを無視し、自分たちの力と特別扱いで列を突破しようとする、典型的な権威の残滓だ。
剣の柄に手をかける男たちに対し、俺は一切声を荒げることなく、静かに歩み寄った。
「道中、彼らを守ってきたあんたらの役目と力は否定しない。守る役が必要なのは俺も同意だ」
俺の底冷えのするような落ち着き払った声に、男たちが一瞬ひるむ。
「だが、この門の内側で『勝手な武装』を許せば、それは守護ではなく支配に変わる。武器を持ち込むなら、登録と指揮系統が先だ。できないなら、門の外だ」
暴力の匂いを一切見せず、ただ絶対的なルールの言語だけで壁を作る。その俺の一貫した態度に、男たちは毒気を抜かれたように舌打ちをし、渋々武器を差し出した。
◇
「……なるほど。田舎の村にしちゃ、随分と理路整然としたやり方じゃねえか」
一件落着かと思われたその時、列の最後尾から、人垣を割って新たな集団が現れた。
粗末な外套を深く被った、五人の男たち。
だが、その足運び、重心の低さ、そして周囲を牽制する絶妙な間合いの取り方は、先ほど喚いていたような素人の傭兵とは次元が違った。
「護衛だ。俺たちは王都の貴族街で、これで食わせてきたプロでね」
先頭に立つ顔に傷のある男が、外套の隙間から鈍く光る短剣の柄を覗かせながら、薄笑いを浮かべた。
「武器を預けろ? 指揮系統に入れ? ……馬鹿言ってんじゃねえぞ。自警団だか何だか知らねえが、素人のお遊びに命は預けられねえ」
男の目が、避難民の群れの中で小綺麗な服を着た商人や、財産を持っていそうな者たちを舐め回すように動く。
「俺たちは、俺たちのルールで“守ってやる”。この物騒な難民キャンプの中で、安全に夜を越したい奴らをな。……もちろん、それ相応の『代金』はいただくがね」
その「代金」という言葉の響きに込められた、圧倒的な暴力の匂い。 守るのではない。恐怖を煽り、守代という名目で財産を毟り取る気なのだ。 ロイルの背筋に、冷たい汗が流れ落ちた。
俺は、氷のような目で男たちを見据えたまま、微かに目を細めた。
王都の機能が崩壊し、力のある者が私兵化して弱者を貪るという地獄の余波。それが今、この村の門の内側へと持ち込まれようとしている。
俺は目を細めた。
こいつらは難民じゃない。——絶望に値札を付ける、商売人だ。
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