第10話:摩擦ゼロの滑り台と空飛ぶ豚
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「い、いいか! お前ら、鍬とスコップを持て! アシュランの指示に従うんだ!」
村長のギードが、裏返った声で叫んだ。
迫りくる死の行進『鋼鉄猪』の群れを前にして、パニックになりかけていた村人たちが、弾かれたように動き出す。
彼らは恐怖に顔を歪ませながらも、アシュランという一人の男への信頼だけで、かろうじて正気を保っていた。この男は、遠くの川まで水を汲みに行く過酷な労働から村人を救い、乾いた大地に清流を引き込んで見せた。ならば今回も、何か奇跡を起こすのではないか。
だが、アシュランが口にした作戦は、奇跡というにはあまりにも奇妙なものだった。
「狙う場所は、村の入り口から五十メートル手前。以前、水路工事の土砂を採掘するために掘った、あの『窪地』だ」
俺は、村の防衛柵のすぐ外側にある、すり鉢状の地形を指さした。
深さは三メートルほど。底には雨水が溜まり、泥沼になっている。落ちたら簡単には上がれないが、凶暴な魔獣を閉じ込めるには浅すぎるし、広すぎる。
「あんな穴、何の役にも立たねえぞ! 奴らは勢いをつけて駆け上がってくる!」
ドルガンが脂汗を流しながら叫ぶ。彼の言う通りだ。鋼鉄猪の脚力なら、あの程度の斜面など、速度を落とさずに駆け抜けるか、あるいはジャンプして飛び越えるだろう。
「普通ならな」
俺はニヤリと笑い、ドルガン、そして集まってきた村人たちを見回した。
「だが、もしその斜面が、氷よりも滑るとしたらどうだ?」
「……あ?」
「奴らの武器は、あの圧倒的な突進力だ。大人五人分の重さと、早馬並みの速さを併せ持つ肉弾戦車。その運動エネルギーは脅威だが、同時に弱点でもある」
俺は地面に簡単な図を描いた。矢印が、窪地に向かって伸びている。
「物体が運動を変えるには、地面との『摩擦』が必要だ。走るのも、止まるのも、曲がるのも、すべては足裏と地面との間に摩擦力が働くからこそ可能になる」
俺は村人たちに、そしてこの世界の住人にとっては未知の概念であろう『物理法則』を、可能な限り噛み砕いて説明する。
「いいか、奴らは止まれない。あの巨体と速度で突っ込んでくれば、急ブレーキをかけるには強大な摩擦力が要る。もし、その摩擦を限りなくゼロにしてやれば……奴らは自身のエネルギーを殺せず、そのまま慣性の法則に従って、あの窪地の底まで直行便だ」
「えねるぎい?」
「ま、まさつ……?」
「かんせい……?」
村人たちはポカンとしている。時間がない。理論の講義は後だ。
「とにかく! 奴らをあの穴に落とす! そのための『滑り台』を作るぞ!」
俺は具体的な指示を飛ばした。
「ヘイム! お前は大工チームを率いて、窪地への進入路にある石や切り株を取り除け! 可能な限り平らにするんだ!」
「お、おう! 平らにすりゃいいんだな!」
「ギード村長! 女性陣と子供たちに言って、倉庫から『あれ』を持ってきてくれ! 先日の衛生改善計画で採取した、スライムの粘液だ!」
「ス、スライムの!? あれをどうするんだ!?」
「全部だ! 樽ごと持ってきて、進入路にぶちまける!」
俺の指示に、村中が蜂の巣をつついたような騒ぎになる。
幸いだったのは、鋼鉄猪たちが慎重だったことだ。先頭の一頭がドルガンに弾き返されたことで、彼らは即座の突撃を躊躇し、鼻息荒く隊列を整えていた。そのわずかな膠着状態が、我々の勝機だった。
数分後。
「うわぁっ、ネバネバするぅ!」
「こぼすなよ! 貴重なんだからな!」
村の入り口から窪地へと続く、なだらかな下り坂。
そこに、大量の半透明な液体がぶちまけられた。
先日、村の衛生環境を改善するために捕獲・培養していたスライムたちの粘液だ。この世界の人間はただの汚物として扱うが、化学的に見ればこれは極めて優秀な高分子ポリマーを含んだ潤滑液だ。
「よし、そこに水を撒け! 粘液と泥を混ぜ合わせるんだ!」
俺の指示で、水路から汲んできた水がバシャバシャと撒かれる。
土と水、そしてスライム粘液が混ざり合い、地面は見るも無残なドロドロのぬかるみへと変貌した。一見するとただの泥道だが、その表面は異様な光沢を放っている。
「アシュラン、これで本当にあいつらが止まるのか?」
泥だらけになったヘイムが、不安そうに聞いてくる。
俺は自分の靴底で、その泥の表面を軽く擦ってみた。
ツルッ。
まるで氷の上を歩いているかのように、足が滑る。踏ん張りが全く効かない。
「完璧だ。摩擦係数 μは推定0.05以下。これなら、スパイクタイヤでも履いていない限り、制御不能だ」
「みゅー……?」
ヘイムは首をかしげたが、俺は満足げに頷いた。
「準備完了だ。……来たぞ!」
ズシン、ズシン、ズシン。
地響きが大きくなる。隊列を整えた鋼鉄猪たちが、いよいよ本格的な侵攻を開始したのだ。
「グルルルルォォォォォッ!!」
先頭のボスと思わしき個体が咆哮を上げると、八頭の鋼鉄の塊が、一斉に地面を蹴った。
凄まじい加速。
見る見るうちに距離が縮まる。
百メートル、八十メートル、五十メートル……。
「ひぃぃっ! 来る、来るぞぉぉぉ!」
「逃げるな! 持ち場を離れるなよ!」
村人たちが悲鳴を上げる中、俺は冷静にタイミングを計っていた。
奴らは一直線に村の入り口――つまり、我々が用意した『滑り台』の入り口へと向かっている。猪突猛進とはよく言ったものだ。彼らの辞書に「迂回」という文字はないらしい。
そして。
先頭のボス猪が、自信満々にその前足を、ドロドロの地面へと踏み入れた。
その瞬間だった。
「――ブギッ!?」
ボス猪の身体が、漫画のように浮いた。
いや、正確には、地面を蹴ろうとした前足が空転し、支えを失った巨体が前のめりに突っ込んだのだ。
通常なら、そこで転んで止まるか、あるいは踏ん張って体勢を立て直すだろう。
だが、ここはアシュラン特製・摩擦ゼロ地帯。
一度滑り出した質量三百キロの物体を止める力は、どこにも存在しなかった。
ズサーーーーーーーーーーッ!!!
「ブギィィィィィィッ!?」
ボス猪は、四肢をバタバタと無様に空転させながら、腹這いの姿勢で滑り出した。
その速度は落ちるどころか、斜面の重力加速を受けてさらに増していく。
「ブヒッ!? ブギーッ!!」
後続の猪たちも同様だった。
前の猪が滑っているのを見て止まろうとしたのだろうが、制動距離が足りない。慌ててブレーキをかけようとした足が虚しく滑り、次々とドミノ倒しのように転倒していく。
「す、すげぇ……」
「なんだありゃ……?」
村人たちが呆然と見守る中、鋼鉄の魔獣たちは、まるでカーリングのストーンのように、美しく、そして滑らかに滑走していく。
シュパァァァン!
泥飛沫を上げながら、ボス猪が窪地の縁から飛び出した。
美しい放物線を描き、そのまま泥沼の底へとダイブする。
ドッボォォォォン!!
続いて二頭目、三頭目。
次々と猪たちが空を飛び、泥沼へと吸い込まれていく。
中には、空中で仲間と激突し、「カィィィン!」と良い音を奏でる個体もいた。
「全頭、確保」
俺は静かにガッツポーズをした。
計算通りだ。運動エネルギー保存の法則と、摩擦係数の低下。物理学は、この異世界でも裏切らない。
わずか数十秒後。
あれほど恐ろしかった鋼鉄猪の群れは、一頭残らず窪地の底で泥まみれになり、折り重なって藻掻いていた。
這い上がろうとして斜面に爪を立てるが、そこにはたっぷりとスライムローションが塗られている。
カリカリカリ……ツルッ。ドボン。
その繰り返しだ。
「……やった、のか?」
誰かがポツリと呟いた。
静寂が戻った戦場に、猪たちの情けない「ブヒブヒ」という鳴き声だけが響く。
「う、うおおおおおおおおっ!!」
一拍遅れて、爆発的な歓声が上がった。
「すげぇぞアシュラン! 魔法も使わずに、あんな化け物どもを一網打尽にしちまった!」
「泥を塗っただけだぞ!? なんであんなに滑るんだ!?」
「見たかよ、あのボスの顔! 目を白黒させてやがった!」
村人たちが俺の周りに集まり、口々に称賛の言葉を浴びせる。
キドたち子供も、目を輝かせて窪地を覗き込んでいる。
「アシュラン! これも『科学』なのか!?」
「ああ、そうだキド。これは摩擦という現象を制御した結果だ。力が強いだけじゃ勝てない。世界のルールを知っている奴が勝つんだ」
俺はキドの頭を撫でながら、物理学の勝利を噛み締めていた。
だが、問題はここからだ。
「さて……野郎ども! 獲物は袋のネズミだ!」
ドルガンが、再びあの巨大な鉄鎚を担いで、意気揚々と窪地の縁に立った。
彼の目には、先ほどの借りを返すという闘志と、殺意が漲っている。
「上から岩を落として、一匹ずつ確実に潰していくぞ! 今夜は猪鍋だ!」
「おーっ! 殺せ殺せぇ!」
村人たちが殺気立って石を拾い始める。
無理もない。彼らにとって魔獣は恐怖の対象であり、生かしておけばいつまた襲ってくるかわからない害獣だ。殺して安全を確保したいと考えるのは当然の生存本能だ。
だが。
「待て」
俺はドルガンの前に立ちはだかり、その振り上げられた腕を制した。
「あ? なんだよアシュラン。止めを刺さねえと、あいつらまた這い上がってくるぞ」
「殺す必要はない」
俺は窪地の中で泥まみれになっている鋼鉄猪たちを見下ろした。
泥のおかげで興奮が冷めたのか、彼らは互いに身を寄せ合い、不安そうに鼻を鳴らしている。その姿は、先ほどの凶悪な魔獣というよりは、巨大な豚のようにも見えた。
俺は村人全員に聞こえるように、高らかに宣言した。
「飼うんだよ」
「……は?」
ドルガンが、口をあんぐりと開けた。
ギードも、ヘイムも、キドさえも、時が止まったように固まっている。
「ア、アシュラン……? 今、なんて……?」
「だから、飼育するんだ。家畜としてな」
俺は真顔で繰り返した。
「正気か!? 相手は魔獣だぞ!? 鋼鉄の皮膚を持つ、森の殺戮者だぞ!?」
「だからこそだ」
俺は指を折りながら説明する。
「まず、彼らの皮膚は硬い。これは優れた防具や、工業用資材になる。殺して剥ぎ取るだけじゃ一回限りだが、飼育して繁殖させれば、定期的に素材が手に入る」
「は、繁殖……?」
「次に、食料だ。あの巨体だ、肉の量は半端じゃない。一頭殺せば村全員が数日は食えるだろうが、もしあれを増やせれば? この村は未来永劫、食肉に困らなくなる」
「いや、でもよぉ……!」
「そして何より」
俺はニヤリと笑った。
「毎回毎回、森まで狩りに行くのは『非効率』だろう? 向こうから来てくれたんだ。これを利用しない手はない」
効率。
俺の行動原理の全て。
危険だから排除するというのは、短絡的な思考だ。危険なら、管理すればいい。制御すればいい。リスクをコストとして計算し、それ以上のリターンが得られるなら、それは立派な事業だ。
「で、でもよぉ、どうやって飼うんだ? 檻なんてねえぞ。普通の木の柵じゃ、突き破られちまう」
ヘイムがもっともな指摘をする。
「それなら心配ない。計算済みだ」
俺は懐から、先ほど書き殴ったもう一枚の羊皮紙を取り出した。
「彼らの突進力を、逆に利用して閉じ込める構造の檻。そして、彼らを大人しくさせるための生物学的アプローチ。設計図はある」
俺は自信満々に言い放った。
「・・・・・・・」
村人たちは口を開けたまま誰も声を出さなかった。いや、出せなかった。
「さあ、仕事の再開だ。穴の中の彼らがお腹を空かせて暴れだす前に、最強の牧場を作ってやろうじゃないか」
呆気にとられる村人たちを置き去りに、俺は次なる快適化計画――『魔獣牧場プロジェクト』へと進み出した。
この日、ウルム村の歴史に、新たな1ページが刻まれた。 それは、人類が初めて「魔獣」という脅威を、「家畜」という資源に変えようとした日でもあった。
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