第八話 失ったもの
それから数日がどう過ぎたのか、僕にはよく思い出せない。
ハンスさんの処刑日は、思いのほか早く決まった。
王宮の混乱を沈静化するために「示しをつける」必要があると言う。
証拠は揃っていると、大臣たちは口を揃えていた。
僕は、信じられないままだった。
ハンスさんの部屋に忍び込んで、何かを仕掛けることなんて、誰にだってできたはずだ。それなのに、なぜそれを証拠だと言い張れるのだろう。
あの夜の怪しげな会話を思い出すたびに、喉の奥が焼ける。
けれど、あの人たちが犯人である証拠も何もない。
そして何より、ハンスさん自身が何も言わずに、罪を受け入れているのだ。
「自分がやった」とは、一言も言っていない。けれど「やっていない」とも言わなかった。
なぜ、無罪を訴えないのだろう。
ローザさんも同じだ。彼女は明らかに何かを知っていた。それなのに、ハンスさんが捕まっても口を開かない。
ただ絶望した顔をして、料理を運ぶだけ。
もしかして、ハンスさんが本当に……?
そんな訳がない。だって、彼は言ったのだ。
『私はどんなことがあっても、この国に忠誠を違います』
あれは固い意志だった。ハンスさんの本心だった。
だから僕は何を言われようと、彼のことを信じている。
***
処刑の日。
石畳の広場には、信じられないくらい多くの兵士と民衆が集まっていた。
でもクリウスはいなかった。
ハンスさんは、処刑台の階段を自分の足で登った。一度も振り返らず、ただまっすぐに。
見ていられなかった。けれど、目をそらすこともできなかった。
僕は仮面の奥で、歯を食いしばっていた。涙なんて流してはいけない。泣いたら、本当に終わってしまう気がした。
「……最後に、申し上げたいことがございます」
ハンスさんの声が広場に響いた。静かに、しかし確かに。
ある兵士が止めようとした。が、別の兵士が、それを静止した。
ハンスさんは兵士たちに礼儀正しく頭を下げて、それから口を開いた。
「この国の行く末が、どうか穏やかでありますように。王子殿下には、よき支えと知恵を持った者が傍にいてくださることを……それだけを、私はただ願っております」
ハンスさんが言い終えると、兵士たちは彼を跪かせた。
一瞬だけ、ハンスさんと視線が合った気がした。僕の仮面を見つめ、うなずいたように思えた。
が、すぐに彼は肩を押し付けられる。ハンスさんの顔は、もう見えない。
刃が振り上げられる。
次の瞬間――
音が、消えた。鼓動の音だけが、世界のすべてになった。
しばらくして、人々のざわめきが遠くで響き始めた。
僕は泣くことも叫ぶこともできないまま、ただ立ち尽くしていた。
***
夜になっても、クリウスはハンスさんについて、何も言わなかった。
王の間には灯りもなく、彼は玉座の前にただ立ち尽くしていた。
その背中は、小さくて、痛々しかった。
「……俺は、もう、何もできない王子ではない」
ようやく口を開いた彼の声は、酷く冷たく乾いていた。
「重罪を犯した者を処罰する責任がある。王になるとは、そういうことなのだろう」
「……クリウス。君は本当に、ハンスさんがやったと思っているのか? 君なら処刑を止められただろう。王子の、時期国王の君なら……!」
彼はゆっくりとこちらを向いた。その目は、もうあのやんちゃで、無邪気に笑うクリウスではなかった。
「クリウスとしては、ハンスを信じたかった。ハンスを殺したくはなかった。
でも、それではダメなのだ。俺は時期国王として、罪人を罰しなければならなかったのだ」
「でも、ハンスさんは……」
僕はそれ以上、言葉が続かなかった。
「バルカ、お前には世話になった。……だが、もう昔のようにはいかない」
頭が真っ白になった。
「……何を言っているの?」
「お前の役目は終わった。退屈する王子の遊び相手として、お前はここにいた。
でも、もうそんな王子はどこにもいない」
その言葉が、刃のように胸を刺した。
違う、と言いたかった。ただの遊び相手じゃなかった。
友達だった。親友だった。家族だった。ここが、僕の唯一の居場所だった。
けれど、声は出なかった。その冷たい目を見てしまったから。
「明日から、ハンスやお前に代わる新しい従者がつく。……お前には、別館の掃除役でも任せよう」
彼はそう言って、背を向けた。
「きっともう、会うことはない」
世界が終わったように感じた。
どうして、どうして。
あれほど近かったのに。あれほど、ずっと一緒だと思っていたのに。
ハンスさんに、託されたばかりなのに。
君は、僕の全てだったのに。
この日、僕はたくさんのものを失った。
憧れの人、心の柱、親友、家族、居場所、幸せ、そして、生きる希望――
開いた窓から吹き抜ける夜風が、氷のように冷たかった。