第六話 予兆
その日の朝、王宮にはいつもと違う緊張が漂っていた。
朝食のために広間に向かう途中、部屋から出てきたクリウスと遭遇した。
いつも迎えに来るはずのハンスさんが来ないと、クリウスはぼやいていた。
席に着くが、料理は出てこない。ローザさんも現れない。これは何かあると、クリウスの方を見た。
クリウスも、不安そうに僕を見ていた。
そうしているうちに、ハンスさんが現れた。少し息が荒い。
「おはようございます。クリウス様、少々お時間を……」
「なんだ」
ハンスさんの表情は、いつもの冷静さをわずかに欠いている。
「何かあったのですか?」
僕が尋ねると、ハンスさんは少し迷うような仕草をした。僕に聞かせて良いものか、考えていたのだろう。
やがて決意したように、目つきを変えた。
「……お二人とも、これは他言無用です」
ハンスさんは小さく息をつき、遠くの窓の外を見た。
「南門にて、不審な動きが報告されています。地方の商人や農夫を装った者たちが、深夜に人影を集めていたようで……」
「深夜の人集め?」
「はい。詳細はまだ不明ですが、警備強化の指示が下りています」
その言葉を聞いたクリウスは、怪訝そうに眉を寄せた。
「それは怪しいとは思う。が、俺が心配することではないだろう。あの辺りに近づくことはない」
「しかし、クリウス様の身にも関わることかもしれません」
クリウスは黙ったまま、視線を床に落とした。
「おはようございます。遅れてしまい、申し訳ありません」
ローザさんが食事を運んできた。が、その表情は固い。いつもの軽口も飛んでこない。
――ガシャーン!
その音が、広間の静寂を一瞬で破った。ローザさんが食器を落としたのだ。
「ローザ、大丈夫か?」
「申し訳ありません。なんでもないのです」
床に散らばったグラスの破片を、ローザさんは震える手で拾い集める。
初めて見る彼女の動揺に、僕は胸がざわついた。
「どうかしましたか?」
僕が訊くと、ローザさんははっと表情を引き締めて答えた。
「い、いえ……ただ、厨房に不審な者が侵入したという報告を受けまして。その……少し動揺してしまっただけでございます」
「厨房に? 王宮の奥深くじゃないか」
クリウスが眉をひそめると、ハンスさんがすかさずローザさんのそばに駆け寄った。
「ローザ様、今日はお休みください」
ローザさんは唇を噛み、手を止めた。ぽつりと言う。
「……大丈夫です。私は、大丈夫ですから」
その言葉には隠しきれない焦燥が現れていた。
王宮のどこかで、まだ見ぬ影が動き出している。僕たちは、知らずにその渦へと引き寄せられていく。
そんな感覚だった。
***
夕方になると、王宮の廊下にほんのりと冷たい風が流れ始めた。
もうすぐ、冬が来る。
僕の背中には冷たさとは別の――どこかじっとりとした気配がまとわりついていた。
昼間の、あのローザさんの顔がどうしても忘れられなかった。
あの人はいつも、僕にもクリウスにも冗談まじりで軽口を叩いてくる。
それが今日に限って、何かに怯えているようだった。
夕食時、ローザさんは現れなかった。
代わりに見たことのない若い男の召使が、慣れない手つきでスープをよそった。
「……ローザ、どうしたのだろう」
クリウスはぽつりと呟いたあと、スプーンを止めた。
「きっとハンスさんが休めって言ったんだよ。あの人、倒れるまで働きそうだから」
「……ああ、そうだな」
ローザさんのいない夕食は、本当に静かで、寂しかった。
***
その夜、僕はひとりで王宮の回廊を歩いていた。床は冷たく、石造りの壁には灯りがほとんどない。
今日一日、何かが引っかかっていた。
足が向かっていたのは、使用人たちの区画。ローザさんは、きっと何かを知っている。
途中、見回りの兵士とすれ違いそうになったが、柱の陰に隠れてやりすごした。
心臓の音がうるさいほど響いている。
そのとき、ある部屋の扉の隙間から、かすかに人の声が聞こえた。
「……明日の朝には終わる。王が崩れれば、すべてが動く」
男の声だった。それに答える誰かがいる。その気配は感じるけれど、声は聞こえない。
僕は息をひそめ、扉にそっと耳をあてた。
「何をしているのですか」
低く、静かな声が背中を突き刺した。振り返ると、ハンスさんが立っていた。
蝋燭を手にした彼の顔は、表情が読めなかった。ただ、目だけがまっすぐに僕を見ていた。
「……い、いえ、ただ……ローザさんが、心配で……」
本当のことなのに、僕の声はかすれていた。ハンスさんは一歩近づき、僕の肩に手を置いた。
「バルカ様。あなたは、何も見なかったし、聞かなかった。いいですね?」
「……それは、どういう……」
「これは命令です」
僕は、言葉を失った。
ハンスさんが、こんなふうに命令口調で何かを言うのは初めてだった。
「……もう部屋へお戻りください。何も言わずに、何も考えずに。
今夜のことは、忘れるのです」
僕は逃げるようにその場を去った。
怖かった。ハンスさんだけじゃない。あの空間が怖かった。これから起こる何かが怖かった。
僕は自室に転がり込み、体を守るように布団に潜り込んだ。
あの会話が本当なら、明日の朝、何かが起こる。よりによって、明日。
明日は、クリウスの十三歳の誕生日だ。