第五話 悪夢
闇の中で、またあの音がする。
――ガシャン。ガシャーン。
何かが床に叩きつけられる音。
僕の心臓が、嫌に鼓動を早くする。
「お前なんか産まなきゃよかった!」
母の怒鳴り声。何度聞いたか分からないその言葉が、耳の奥を焼く。
僕は部屋の隅でうずくまりながら、ただただ、気配を殺す。
けれど、父の重たい足音が近づいてくると、全身がこわばる。
次の瞬間、頬に焼けつくような痛み。
――痛い。
痛いのに、声が出ない。
叫んだらもっとひどいことになる。身体が覚えてる。
「顔を見てるだけで吐き気がする」
「お前は化け物だ」
化け物。そうか、僕は化け物なのか。だからこんな思いをしても、仕方がないのか。
ただ、床に転がるガラスの破片だけが、ぼやけた視界に光っていた。
そのとき、不意に誰かが名前を呼ぶ。
「……大丈夫だ……バルカ……」
その声だけは、やさしかった。
仮面の奥に浮かぶ青い瞳が、僕のことを呼んでいた。
そう、僕はバルカ。化け物なんかじゃない。
僕は手を伸ばす。その瞬間、世界がぐにゃりと歪んで――
僕は息を飲んで、目を覚ました。汗で濡れたシーツ。胸の奥が痛い。
でも、泣いてはいなかった。
王宮に来てから三年。今日も、王宮の穏やかな一日が始まる。
***
朝食の途中、ハンスさんは仕事があると言って先に部屋を出た。
「ハンスさんはすごい。頭がいいし、武術にも長けていらっしゃる。憧れるなあ」
僕の言葉にクリウスは、そうだなー、と適当に相槌を打つ。
「ちょいとお堅いところがあるけどねえ」
ローザさんは、空いた食器を片づけながら、どこか愛おしそうにそう言った。
「そこも含めて、ハンスのことが好きなのだろう?」
クリウスが口を挟む。
「ちょ、ちょっと何ですか、いきなり」
重ねた皿が少し崩れる。ローザさんは慌ててそれを直す。
「ローザはずっとハンスのことが好きだと思っていたが。違うのか? なあ、バルカ」
「ええ。僕もそう思っていましたけれど」
「バルカまで。やめてちょうだい」
ローザさんは顔を真っ赤にしていた。何も言い返せずに口をもごもごして、それから、はっと僕の方を見た。
「そういうバルカだって、アンとはどうなのよ」
「え……」
痛いところを突かれた、と思った。早くこの場から逃げないと。
「アンからよく聞いてるよ。その仮面越しに、今日も目が合ってしまいましたって」
ローザさんの発言に、クリウスは勢いよく食いついた。
「そうなんだ。バルカとアン、チラチラ互いのこと気にして。俺のことなんかそっちのけだ」
「そんなことないよ。僕はいつもクリウス第一だ」
「いーや。あの空間では明らかに俺が邪魔者扱いだ」
クリウスは拗ねたように口を尖らせた。
ローザさんは、まるで自分の子どもたちを見るような温かい目で僕たちを見ていた。
「あたしたち従者に恋愛禁止なんてルールはないんだ。自分の気持ちに素直におなりよ」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
僕がそう返すと、ローザさんはまた恥ずかしそうに、控えめに笑った。
***
――コンコンコン。
僕は控えめにドアを叩く。
「どうぞ」
その優しい声を聞いて、僕はそっとドアを開けた。
「バルカです。少しだけ、お話してもいいですか?」
僕に対峙するような形で机に向かっていたハンスさんは、顔を上げた。
「少しでなくたって構いませんよ。その椅子を使いなさい」
僕は言われたままに近くにあった椅子をハンスさんの向かい側に移動させ、座った。
ここまで来て、なんでか言葉にするのが恥ずかしくなった。
「どうかしましたか?」
なかなか切り出さない僕を、ハンスさんは優しい声で促した。
僕は一度深呼吸をして、それから口を開いた。
「……僕にとって、クリウスは大切な存在です。いなくてはならない存在です。
でもクリウスにとってはどうなのでしょう。僕は、クリウスにとって必要な存在になれるでしょうか?」
ハンスさんは僕の目を見ていた。僕の目を見ているに違いないのに、その奥の違う誰かを見ているような気もした。
「そればかりは、クリウス様ご本人にしか分かりません」
「……そうですね」
「ですが、あなたが来てからクリウス様は明るくなりました」
少し驚いた。クリウスは、僕が出会ったあの瞬間からずっと明るくて、むしろ太陽みたいに眩しかったからだ。
「前は違ったのですか」
ハンスさんは、ええ、と答え、それから一つ息をついた。
「クリウス様を出産なさってすぐ、后様は亡くなりました。国王はあの通り、国のことばかりに目を向けられる。
それゆえ、クリウス様は人一倍、承認欲求をお持ちなのです。以前のクリウス様はなんとか国王の気を引こうと必死で、それを隠すように底抜けの明るさを演じていらっしゃった。
けれど今は違う。今のあの方は、バルカ様が隣におられる時のクリウス様は、心の底から笑っておられます」
「そうですか」
僕はクリウスの立場に少し心を痛めながらも、自分が彼の大事な存在になれているかもしれないと分かり、嬉しかった。
「国王も、本当はずっとクリウス様のことを気にかけていらっしゃるのですが。少し不器用なのですよ」
ハンスさんの物言いには、遠い過去を懐かしむ哀愁のような、大切な誰かを思いやる愛情のような、そういうものが感じられた。
「国王とは、何か特別なご関係が?」
「国王は、私にとって生きる希望です。あなたにとってのクリウス様のように」
「国王の専属召使だったことがあるとか?」
「ここから先は秘密です。私の大切な宝物ですから」
ハンスは珍しく、少し恥ずかしそうにはにかんだ。
「ただ、これだけは教えてあげましょう。私はどんなことがあっても、この国に忠誠を違います」
それは揺らぎようのない、強い意志だった。
僕はあの悪夢を思い出す。忘れた頃に、あの夢が襲ってくる。どんな生活を送ろうと、僕の過去は消えない。
けれどいつも、最後にはクリウスが助けに来てくれる。
クリウスと出会ったあの日から、全てが変わった。親友がいて、家族のような温かみを知って、気になるあの子にドキドキして。
今の僕は、最高に幸せだ。
そしてクリウスは、いつだって僕の救世主だ。