第二話 絵本の中の世界
「名はなんと言う? 俺はクリウスだ」
クリウスと名乗った少年は、しゃがみ込んで真っ直ぐに見つめてきた。
僕は咄嗟に目を逸らす。
声がうまく出なかった。口が乾いて、喉が詰まった。
それでも、僕は精一杯の声で、かすかに名を告げた。
「……バルカ」
「バルカ、よい名だ。家はどこだ。送ってやる」
「……大丈夫。一人で帰れる」
そう言いながらも、僕はそこから動かなかった。
「帰りたくないのか?」
クリウスは不思議そうに首を傾げる。
「僕の居場所なんて、どこにもない」
それを聞いて、クリウスはしばらく黙っていた。が、急に立ち上がり、歩き出した。
僕はうずくまっていた。帰りたくなかった。けれど、帰るのが遅くなれば、きっとまた殴られるだろう。
「何をしている。来い」
顔を上げると、クリウスは手招きをしていた。
僕は戸惑った。どこへ行くのかもわからない。でも……
僕は立ち上がり、彼の後をついていった。
***
道は森の中へと続いていた。
小鳥の鳴き声、土の匂い。青空が木々の間から覗いていた。
彼は時折振り返りながら、僕に歩調を合わせてくれた。
「バルカ、王宮に行ったことはあるか?」
不意に言われて、僕は立ち止まった。
「王宮……?」
王宮。それは絵本の中でしか知らない世界。僕には縁もない、遠い遠い場所。
彼はにやりと笑った。
「俺の家だ。少し広すぎて、退屈だな。
だが、お前に見せたい場所があるんだ」
「家って、それじゃあクリウス、君、まさか……」
「ああ。俺はこのカタルーツ国の王子、時期国王だ」
あまりに現実離れしたその言葉に、僕は唖然とするほかなかった。
「もうすぐ見えて来るぞ」
森を抜けて見えたそれは、絵本よりも大きく、美しく、そして、僕には場違いすぎるほど輝いていた。
白い壁、尖った塔、陽の光にはためく旗。
僕は立ち尽くした。足が動かなかった。
「大丈夫だ。怖くはない」
クリウスはまた、あの時と同じ声で言った。
けれど僕は、まだ動けずにいた。こんな美しい世界に、醜い僕が立ち入っていいわけがない。
そんな僕を見て、彼は自分の背中に背負っていた包みを解いた。
中には、白い仮面がふたつ。片方には金色の模様、もう片方には銀色の模様が描かれていた。
「街でこっそり買ったのだ。ハンスにバレたら、怒られるのだけれどな」
ハンスとは誰のことだろうと考える間もなく、クリウスは片方を僕に差し出した。
「お前は銀だ。金の方がカッコいいからな、こっちは俺のだ」
ゆで卵の表面のようにつるりとした仮面が、彼の美しい顔をすっぽりと覆い隠した。
「ほら、お前も早く着けろ」
仮面を手にしたまま動かない僕を見て、クリウスは急かした。僕は恐る恐る仮面を顔に乗せる。
重さはなかった。むしろ、不思議と心が軽くなったような気がした。
「ようこそ、バルカ。お前は今日から、俺の友達だ」
友達――その言葉が、僕の胸の奥を熱くした。
そして、僕はクリウスとともに、王宮の門の前に立った。
そこが自分の大切な居場所になるということを、僕はまだ知らなかった。