第九話 仮面の下
新たに掃除役を任された別館の部屋は、今はあまり使われていないらしく、そこら中に埃を被っていた。
しばらく丁寧に掃除をしていた。それ以外に、僕ができることはなかったから。
しかし、いつまで経っても誰もここを使わない。
僕は、その別館の部屋のうちの一つを自分の部屋として使うことにした。もちろん、他に寝泊まりができる小さな部屋は与えられているわけで、ここに住み着こうと言うのではない。
僕はしばしば町に出て、本を買った。その本を、この別館の部屋に置くことにした。僕は毎日、掃除を終えるとこの部屋に篭り、本を読んだ。
僕は、何かを学ぶことが好きだった。
僕に文句を言う者はいなかった。ちゃんと掃除はしていたし、何より、いつも仮面をつけている不審な掃除役に、声をかけようという者はいなかったーーただ一人を除いて。
ーーコンコンコン。
「バルカ。入っていい?」
「どうぞ」
茶色の長い髪を器用に団子にまとめた少女ーーアンは、カゴに無造作に入れたパンくずや野菜の余り、袋に入れた肉の切れ端を抱えている。
「今日も、余った食材を持ってきたわ」
「ありがとう。いつも助かるよ、アン」
「それはいいのだけれど、いつもこれをどうしているの?」
アンはカゴを机の上に置き、僕の読んでいた本を覗き込んだ。
僕は本を伏せて、遠くを見る。
「町を抜けた先の村で、貧しい人びとや子供たちに配ってやっているんだ」
「優しいのね」
「これは……優しさなんかじゃないさ」
町はまだいい。それなりに栄えていて、人びとに活気が見られる。少なくとも表向きには、明るい町だ。
しかし、その周辺のたくさんの村は違う。気候のせいでほとんど農作物は採れない。飼っていた家畜も、安値で町人に買い取られてしまう。けれど買ってもらわなければ、村人たちは生きて行けない。だから彼らは、反抗できない。
にも関わらず、町人と同じように税は取られる。金を貯める術はない。だから彼らは、村に生まれたら最後、一生その貧困生活を抜け出すことができないのだ。
村人たちは、国王をーークリウスを恨んでいた。こんなに苦しんでいる自分たちを、どうして助けてくれないのかと。
この国の王は、形だけでしかない。実際に権限を持ち国を動かしているのは、大臣や兵士の上官たちだ。
そのことを民衆は知らない。クリウス自身も、きっと気づいていない。
そしてクリウスは、この国の現状を知らない。
だから僕は、村で気持ちばかりの食料を配る。村人たちのためではない。王宮から来たと言って、クリウスへの怒りを少しでも和らげるためだった。
効果があるのかは分からない。それでも僕は、クリウスのために何かをしたかった。
アンは僕の言葉に首を傾げたが、特にそれを深掘りすることはなかった。
「けれど、こんなことして、ここの誰かに見つかったら怒られはしない?」
「その時はその時さ。君に迷惑はかけない」
「別に迷惑だなんて、思わないけれど」
そう言いながら、彼女は僕の本を手に取り、目を通した。が、よく分からなかったのか、すぐに元に戻した。
僕は顔を上げ、アンに目を合わせた。
「それで、クリウスはどうだい?」
僕と目が合ったアンは、少し悲しそうに笑った。
「いつも、クリウス様のことばかりね」
「どうしても気になってしまうんだよ。あれだけ一緒にいたからね」
「……捨てられてしまったのに?」
アンは、独り言のように小さな声で呟いた。
「そんな言い方しないでくれよ」
僕は思わず、強い口調で言い返す。
「でも、本当のことじゃない」
何も言い返せなかった。そうだ。彼女の言うことは、正しい。
「ねえ。いつになったら、その仮面を外してくれるの?」
「もう少し……もう少し互いのことを知ってからかな」
「私は、いつだってあなたのことを見ているのよ。あなたが、私を見ないだけ」
アンはそう言い残し、部屋を出て行った。
アンの気持ちは知っている。それは痛いくらいに純粋で、真っ直ぐで、綺麗な恋心だ。
そして僕もきっと、彼女のことが好きだ。目を合わせるだけで会話を交わしたこともなかった、あの頃からずっと。
けれど踏み出すことはできない。その勇気が、僕にはない。
彼女にこの仮面の下を見られるのが、どうしようもなく怖いのだ。