第二話
【 She saw [ ]. 】
神はいつでも、私を見守っている。
***
子供の頃、休日の朝はいつもスパゲティだった。父の好きなメニューだからだ。
母は唇をとがらせながらも内心は喜んで父のためにスパゲティを作り、私と弟は黙ってそれを食べた。彼女は自分たちが仲のよい、幸せな家族なのだと心から信じていた。
食事を終えてテレビを見ていた私の首を、父が絞める。ごつごつとした大人の男性の指が食い込むのと同時に歯ぎしりが聞こえた。赤く染まった父の顔は憤怒の表情で、私はただ理由もわからないままに謝罪をくりかえす。
寝そべってテレビを見ているのが気に入らないと父は言った。
テレビから聞こえるアナウンサーの声が遠くなる。母は皿を洗っているのだろう、水の跳ねる音がした。
助けを求めて視線をさまよわせる私の目の前を、洗剤のボトルからはみ出した泡が七色にきらめいて舞う。鼻歌が聞こえる。私は泣くことも叫ぶこともできずにいる。色濃く感じたのは恐怖だったが、幼い頃から気に入らないことがあると暴力をふるわれてきた私は、強い諦念に支配されていた。
母は私たちがどんな暴力さえも水に流すことのできる、仲のいい家族なのだと信じて疑わなかった。
私を取り囲む世界は音も光も届かぬ深海である。冷たい海の底は、ときに四百度の温水を噴き出し、水圧でそこに住む者を押し潰してしまう。
父に締められた首が腫れた日、母は私を病院に連れて行った。原因をたずねる医者に、母はタンスの角でぶつけたと嘘をついた。
医者はこれまで見たことのない病状に大騒ぎしてさまざまな検査をしたが、結局原因はわからないままだった。それでも尚、母は嘘をつきつづけた。
母を退席させた医者が奇病のサンプルをとるべく注射針を構える。喉に差し込まれていく注射針を受け入れた私は、そっと瞬きをする。
病院の待合室にはウーパールーパーがいる。水槽の空気ポンプの音は診察室にまで響き、生まれては次々と弾けていく儚い泡を私に想像させた。
「本当はお父さんに首を絞められたの」
喉から注射針を抜いて黄色がかった液体に見入っていた医者は、眼鏡の奥の目を細くして「そうか」と静かにこたえた。
「君の首をくるっと半周するようなタンスなんか、ないだろうからね」
医者の視線は注射器で採取したばかりの液体に注がれている。
私は己の内に深海があることを思い出す。冷たく暗い海の底に、光は届かない。
この世は果てのない地獄だ。喜びを捨てるかわりにすべての苦痛から逃れられるのならば私は何もいらない。
首はその後もたびたび腫れたが、母はもう、私を病院には連れて行かなかった。
***
私はサンタクロースの存在を信じない子供だった。
フィンランドにいるというサンタが一夜にして全世界の子供の元に贈り物を届けるのは物理的に不可能であるし、もしそれが魔法のような不思議な力によるものだったとしても自分の元へはやって来ないということをわかっていた。
たくさんの玩具がクリスマスにあわせて売り出される理由を知っていたし、広告の隣に並ぶ数字の意味も理解していたから、クリスマスが近付くごとに盛り上がる園児たちのサンタ話を聞いても浮かれることなくいつも通りの生活をした。
「今年はサンタさん、来てくれるかしら」と弟に優しく語りかける母の声を聞きながら、今目の前にある焼き魚を口に詰め込んだ。私にとって、手に入らなさそうな幻よりも、目の前の食事の方が大切だった。
弟がきらびやかなイルミネーションのような幻想を語り「お姉ちゃんはサンタさんにどんなプレゼントをお願いするの?」とたずねるのに「からあげ」と答えた。
「また食べ物なの? お姉ちゃんは本当に食いしん坊ねぇ」
口先で呆れながらも母が機嫌よく笑う。母が笑うことで私はかすかな安堵を得られた。だから、真っ赤なリボンが欲しいことは誰にも言わなかった。
上品な光沢を宿す分厚い布でできたリボン。真ん中に乗った、うさぎの尻尾のような白いふわふわした飾り。一つに結った髪につけるだけで一気に華やかさの増すそのリボンが頭に乗っているところを想像して、自分の赤茶けた髪には赤いリボンが似合わないと打ち消した。
上等なお菓子の箱を包んでいたリボンがごみ箱に捨てられているのを見るたび、とても悲しい気持ちになった。こっそりと拾うことはできた。けれども母の機嫌を損なうことは避けねばならぬことだった。
私の家のすぐ傍には、森に囲まれた大きな神社がある。幼馴染みの一族が管理しているものだ。鬱蒼というよりも清浄な静けさのある、この鎮守の森が好きだった。幼馴染みの柾人を呼びに行くとき、まず彼の家でなく神社に向かうほどに。
宮司にあいさつをして社務所の中に上がらせてもらうと、奥で柾人が缶に入ったクッキーを頬張っていた。私の姿を見るや否や満面の笑みを浮かべ、遊びの相談をはじめる。
そんな彼をよそに、私の目はクッキーの缶の横に丸められた包装紙と赤いリボンに吸い寄せられた。
打ち消しても打ち消しても、似合わないはずのリボンが気になって仕方ない。遠慮がちにクッキーを口に運びながら、リボンが欲しいと強く思った。
そっと手にとって幼馴染みの髪に結った。彼の黒い髪に、赤いリボンはよく映えた。
「あずさちゃん、なあに?」
自分よりも幼馴染にリボンが似合うことに気付いて愕然とする。けれども満足だった。彼がリボンをつけることは自分がリボンをつけるのと同じことのように思えたからだ。
***
「おっ……はよ」
家を出たところで不自然なほど緊張した声をかけられた。斜向かいの家に住む柾人だ。鞄の肩かけベルトが門扉にひっかかって、妙な呼びかけになったものらしい。
「おはよう」
「えーと、あの、一緒に学校行ってもいい?」
肩掛けベルトをはずしながらあわてた様子でそう言う彼に、私はよくわからない男だ、という感想を抱く。
「目的地が同じなのだから自然とそうなると思うのだけど」
「そっ……そうだよね」
目を伏せるばかりでなく逸らし、首の後ろを触っておどおどしている柾人を不思議な思いでながめた。
幼い頃は彼の苦手な昆虫を持ってよく追いかけたものだが、今の彼に危害を加えるつもりはない。緊張する必要も遠慮する必要もなかろう。幼馴染というものは切っても切れない家族とは違うのだから、私のことがあまり好きではないのなら話しかけなければいい。ましてや一緒に学校に行くなどというのは理解しがたい。それとも彼も、私が両親に抱くような複雑な思いを持っているのだろうか。
ようやく隣に並んだ柾人の背後から、ばたばたと足音が近付いてくる。食パンをくわえた彼の弟……弥人君が「柾人、待っててよかったね」と笑いながら横を駆け抜けて行く。
柾人が何か言いたげに弥人君をにらんで、ふと私を見る。彼の頬が赤く染まるのがわかった。
「あらおはよう。いってらっしゃい」
家の前にごみを出しに来た母が快活に笑うと柾人はひどく狼狽して、蚊の鳴くような小さな声で「いってきます」と言った。
***
父が手にしたバスタオルをねじりながら足早に近付いて来る。ドライヤーで髪を乾かしていた私はその光景を困惑とともに見た。
「色気づきやがって」
バスタオルが私の首に絡む。父の言葉に思い当たる節はなかった。首の後ろでさらにタオルをねじって逃げ場を封じた父は、そのまま私を引き倒す。母が「女の子だから顔に傷はつけないでよ」と忍び笑いを漏らしている。
私の感情は、うまく現実と繋がらない。海面へ向かう小さな気泡が弾けるように刹那的で、連続性に乏しい。
何かが起きたときの理由を他人の感情から見出すことは、不得手ではあったが可能だった。
しかし自身の感情がその位置に据えられる可能性を、私はなかなか認められなかった。やらねばならぬから行動するのであって、日常生活と自分の感情とに接点があまりなかったのだ。
色気づいているという自覚はなかったが、父がそう思うのであればそうなのだろう。
部屋を引きずりまわされる私にできる唯一の抵抗は、ねじれたタオルと首の間に己の指を入れることだけだ。
***
中学二年生の夏に告白されて、柾人と付き合うことになった。彼が私との関係を変えたいというのであれば、私はそれに従うまでだ。私の感情は、私が生きて行く上での行動理由足り得ない。
交際をはじめたものの、特には何も変わらなかった。登下校は元より一緒になることが多かったし、手を繋ぐことや接吻することも子供時代の延長のような、ささやかな接触でしかなかった。もしかしたなら私が、男ではなく男の子でいて欲しいと口にしたせいなのかもしれない。けれども彼との時間は、私の好む鎮守の森のような、適度な静けさに満ちていた。
「あずさ、腕」
「腕? 何かあるの」
うめくような声を出した柾人に驚いて、下校中に足を止めた。腕をながめたものの別段変わったところはない。理由がわからずにたずねると、彼はうつむいて「あざ」と答えた。
「いつものことだ」
「……」
淡々と歩を進めようとする私の横で、柾人の拳が白くなっている。赤や黄色に染まりつつある桜の葉が、風にかさかさと鳴った。遠くで聞こえた自転車の甲高いブレーキ音が耳に飛び込んできて、いつまでも足を止めている彼を促そうと名前を呼んだ。
「アイス食おっか。腹冷えたら嫌だし、半分食ってよ」
「秋だものね」
早く帰宅しなくては買い物帰りの母に見とがめられるかもしれないというのに、父に告げ口されるかもしれないというのに、無理に笑う柾人と寄り道をすることを、私は選んだ。
それは彼の言葉に従った結果だろうか。それとも私が望んだ結果だろうか。刹那的で連続性に乏しい私の感情では測りきれない。
***
私には愛情というものがわからなかった。服従と支配以外の選択があることを理解するのに時間がかかった。
父の手が首を絞める。「愛を知らないけだもの」とささやいた舌が耳たぶを絡めとる。薄い胸をつかむ手と、肩に噛みつく口と、押し開けられた足、律動する身体、吐き出された汚濁、そうして流れるおびただしい血。ここから先の光景は切れ切れで、脳裏にうまく再現することができない。
深海に光など届きはしない。夢など見るから絶望するのだ。私は何もかも捨ててあきらめてしまった。
それでも暗闇がのしかかる中であのひとを思い出すと、泣きたくなる。心地よい静けさをくれる、穏やかな、私が最期に一目だけでも会いたいと願うひと。
私の心や身体は朽ち果てて、いずれは泡のように消えてなくなる。だから深海に降る雪のような、本当の言葉など誰も知らなくていい。それなのにあのひとは何故受け取るのだろう。誰もまともにとりあわなかった私の言葉に、何故耳を傾けようとするのだろう。
「子供は作るなよ」
「あんたと一緒にするな!」
柾人の拳が真っ直ぐに父を殴り飛ばす。金切り声をあげてわめく母に、柾人が詰め寄って洗いざらい暴露する。怒号と悲鳴と極端に冷えた声を、ただ呆然と聞いていた。海底に積もった言葉は、とても私の世界を示すものだとは思えなかった。
深海に降る雪は死骸でできているという。ならばやはり、柾人が語るのは、殺しつづけた感情の死骸が次々と舞いあがる私の世界なのだろう。
「首を絞めただなんて、あれはじゃれあっているだけよ。あなたたちの被害妄想だわ。あずさ、あんた、家の恥を外へ漏らしたの!」
私は神も悪魔も信じない。けれども神は、いつでも私を見守っている。私を生み、育て、作った神は。
叱責をつづけようと息を吸い込んだ母が、泡を吹いて後ろに倒れる。意識を失った母が病院で目を覚ましたとき、彼女の記憶から私は完全に抹消されていた。心臓が止まった結果、脳萎縮が起こったのだと医者は言った。
私は神に逆らったという、己の罪におののいた。柾人に本当のことを伝えなければ、こんなことにはならなかった。親に疎まれるのも蔑まれるのも暴力をふるわれるのも、私が不出来な娘だからだ。けれども私は今以上のものを求めて、母の言う、幸せな家庭を壊してしまった。色気づいていると言われるのも無理はない。きっとかなわぬ夢など見た罰なのだろう。ごめんなさいお母さん。ごめんなさい。
お母さんのことは私が看るから、罪は償うから、だからどうか、見捨てないで。
***
目をみはるほどの奇跡が起こると信じた父は、病状が回復しないのを病院のせいにして、母を自宅に引き取った。
奇跡的に一命をとりとめたのだ。奇跡は二度も起こらない。私はそうあきらめていた。弟の母代わりになった。娘として介護を任された。鬱憤を晴らす玩具として殴られて組み敷かれた。見舞いにきた親戚たちが弟の春幸を「明るくてよく笑うし、子供らしくていいわ」とはしゃぐのを黙って聞き流した。そうやって罪を償う方法しか、私には考えつかなかったのだ。
彼らは皆、一様に愛を口にする。母を自宅へ引き取った父を深い愛情の持ち主だと称え、家族同士助け合っていかなくてはと言う。……本当にその言葉は正しいのだろうか?
私は厭い、憎む。己の大切なもののために、他を踏みにじる愛というものを。そうして私の内にある、柾人を恋しく思う気持ちを。彼をうつむかせ、苦しませる私という存在を。絶望しかない暗い海の底を照らす柾人のあたたかな、決して私が手に入れることのできない光を。
「ねえ、お母さん。どうして私を助けてくれなかったの? 苦しかったのに、痛かったのに、辛かったのに。どうしてそんなお母さんの面倒を私が見なくてはいけないの? ずいぶん虫がいい話だと思わない?」
ああ、柾人、お願いだから私に幸せを、外の世界を見せないで。私の目を覆っていて。
「苦しいよね。歯ぎしりが出るまで力を入れようか。だから私が子供の頃みたいに笑って頂戴」
母の首にまわした私の両手など、見たくはない。
「どうして私のことだけ忘れたの?」
私をいつでも見張ってきた二つの丸い目が、怯えてこちらを見る。己の胸に誓った贖罪さえ果たせない利己的な私の心は、シーソーのように愛情と憎悪の間で揺れ動く。
あのひとのもたらす光に触れることを、私をこの世に生み落とした神は禁じた。けれども私は、柾人が恋しくて仕方がない。
(She saw [ ]. ・了)




