2 女司祭長 「She saw [ ].」 第一話
石段の上にそびえる鳥居はあまりに赤く、僕は息がすっかり上がっているのも忘れて途中で足を止めた。参道の両脇には鬱蒼と茂る木々が緑の葉をざわつかせており、ヒグラシの声に混じってときおり小鳥のさえずりが聞こえてくる。
駅から二十分ほど川沿いの公園を歩いて坂を上ったところに、その神社はあった。
電車での不思議な出来事以来、少女の残像は常に僕の視界のどこかに居座るようになり、何をしていても消えなくなってしまった。話しかけても何か別のものを熱心に見ていてまるで聞こえないようだし、肩をつかもうとしても、触れようとした瞬間、幻のように消え去って、別の場所へと移動している。友人の言った「憑かれている」というのはあながち間違いでもないのかもしれない。
なにより心配なのは、あの早苗という少女のことだ。再び動き出した電車の中でカードだけを残して消えてしまったあの少女は、一体どこに行ってしまったのだろう。通学のために、あの日と同じ曜日、同じ時間帯の電車に何度か乗ったけれど、結局早苗に会うことはできなかった。
少女は残像として、僕の視界をくりかえし行き来する。
もしかして、閉じ込められてしまったんじゃないだろうか。
そんな不安が頭をよぎりはじめた頃、ベース弾きの友人が「まだ憑かれてるんなら行ってみる?」と知り合いの神社を紹介してくれた。
長い石段の途中で足を止めると、残りを上るのがひどく億劫になる。ズボンの尻で手の汗を拭い、階段中央に据えつけられた手すりに身体を預ける。ますます足の裏に根が生えたようになって、僕は階段を下りて来た少女の残像に見入った。一段進むごとに少女の黒いフリルのスカートは上下して、風に揺れる花のようだった。
息を整えてようやく石段の残りを上りきると、社殿の前を掃き清めていた巫女と目が合った。巫女はにこりともせずに小さく会釈をすると、ホウキとちりとり、枯葉の入ったビニール袋を持ってすぐに社務所へと戻って行った。古めかしい神社にビニール袋というのが少しアンバランスだ。赤茶けた髪を一つに結い上げた後ろ姿を見送って、手水で手を清める。
神社にお参りをするのは初詣以来だった。僕は信心深くないから、賽銭箱の前で手を何回叩くのかさえ覚えていない。巫女には見えないように、適当に叩く回数をごまかして社務所に向かった。
「お祓いをしていただきたいんですが」
必要事項を記入する薄い紙を用意する巫女に、カードを手渡す。絵札になっているのは二枚だけで、残りの二十枚は全て白紙だ。
「ここは神社です。こういった西洋のものは教会にお持ちになった方がよろしいのでは」
彼女は手を止めて怪訝そうな顔をした後、ゆっくりと瞬きをした。まなじりの吊り上った鋭い目は厳しく、女性独特のやわらかさはない。先生に叱られているような気分でうなだれていると、巫女は小さくため息をついて、御祈祷依頼と書かれた紙をよこした。
「けれどもご縁があっていらした方の頼みをお断りするのはよくない。あいにく宮司は来客中ですので少々お待ちいただくことになりますが、よろしいですか」
巫女が建物の奥へわずかに顔を向ける。案外根は優しい人なのかもしれない。
古びた木と日焼けした襖の奥から、かすかに人の話し声がする。内容は判別できない。
「ええ、お願いします」
備え付けのボールペンで空欄を埋める間、巫女は手に取ったカードをしげしげとながめていた。
「ウェイト版のタロットですね。《THE FOOL》《THE MAGICIAN》、それから《THE HIGH PRIESTESS》……あとは白紙」
「え?」
絵札は二枚だったはずだ。巫女の手元をのぞきこむと、二枚の絵札の他に新たなカードが増えていた。Jと書かれた白い柱とBと書かれた黒い柱の間に女性が悠然と座っている、《THE HIGH PRIESTESS》のカード。
そういえば電車の中で、早苗は何と言ったのだったか。
──あなたはこれから二十一の記憶を旅しなくてはならない。
玉砂利の上を、軽やかに残像少女が駆けて行く。黒いスカートの裾が大きく波打つ。
少女の言葉が本当であるなら、僕はこれからこの巫女の記憶を見ることになるのだろうか。それは他人の秘密をのぞくようでとても申し訳なく、同時に不安で、ほんの少しの好奇心をそそられる。
財布からお祓い料を出して、自分の中にわきあがる期待を打ち消しながら社殿に進んだ。巫女が祭壇の前に置かれた三方の上にタロットカードを置く。
「宮司を呼んで参ります。少々お待ち下さい」
一礼をして祭壇に向かった巫女が三方を捧げ持った瞬間、鼓膜の奥に聞き覚えのある、ビシッという硬い音が響いた。
巫女が見えない力に跳ね飛ばされる。手を伸ばして支えようとしたけれど、彼女は赤い袴の裾をさばいて、あっという間に体勢を整えた。
「これは宮司や巫女の仕事ではないね」
先ほどとはがらりと変わった口調で不敵に笑った巫女の頬には浅く一筋の傷がついていた。跳ね飛ばされたときに切ったものだろう。
「異空間へ誘いこまれたか」
胸元に手を差し入れた次の瞬間、巫女は銃を構えて横に飛びのいた。
「疑似空間とは言え、神前での発砲は不敬極まりない。神々が正当防衛と見なしてくれればよいのだけど」
映画でも見ているような気分で口を開けていると、破裂音がした。正確にカードの位置を狙って、巫女が距離を詰める。
「結構だ。そのまま」
銃を構えたままカードに触れた巫女の両脇をかすめるように、白と黒、二本の柱が槍のように伸びていく。
その景色は僕が見たばかりの《THE HIGH PRIESTESS》のカードに似ていた。