1 魔術師 「キャベツとピストル、あるいはロールプレイ」 第三話
【 キャベツとピストル あるいはロールプレイ 】
キャベツの芯は、己が外気に触れた瞬間に切り取られ、捨てられることを知っている。だから乱暴な指が葉をはぎ取って一枚一枚近づいてくるたびに怯えて息をひそめる。私はキャベツの芯を震え上がらせることが楽しくて、つい皮を剥きすぎてしまう。
それはきっと、か弱い女の子を日常的に泣かせるいじめっ子の気持ちにも似ているだろうし、お姫様のように大切にされているものへの嫉妬でもあるだろう。
たくさんの葉で大切に守られたキャベツの芯に指をかけ、慎重に包丁を突き進めて葉と切り離す。白い蛍光灯に芯をかざしてから、三角コーナーに放り込んだ。がこんと重たい音をたてるのと同時に、かぶせてあった生ごみネットが歪んだ。私はキャベツの芯になりたいと思った。
***
去年の夏、私たち一家の住むマンションで火事が起こった。犯人は回収前夜から出してあった古新聞に放火したらしい。ゴミ捨て場のすぐそばに住む私たち一家が最も被害をこうむった。
幸い私以外は布団に入ったばかりで、寝入ってはいなかった。私も開けっぱなしの窓から流れ込んできた煙が寝苦しくて目覚めた。
どこかの不良が夜中に花火でもしたのだろうか。私はさして気にもとめず、くんくんと煙の臭いをかいだ。火薬の臭いはしなかった。遠くから消防車のサイレンの音が聞こえる。居間が騒がしいのに気付いた。
母が父に助けを求め、父が母に呼びかける。キャミソールの上に翌朝着る予定だった制服のブラウスを羽織って部屋を飛び出そうとしたとき、母が妹の名を呼ぶのが聞こえた。間髪入れずに「行くぞ!」と怒鳴る声とガラス戸を引く音が聞こえて、私の足はすくんでしまった。
消防車のサイレンはだんだん大きくなるけれど、私は廊下に出る気をなくしてしまった。ガラス戸を閉める音はサイレンにかき消されることなく私の耳に届く。私はベッドに戻るとすべての音を遮断するように頭から布団をかぶった。
私の名前は一度も呼ばれなかった。
自分がなんとなく家族から浮いていることは知っていた。
父が仕事でケガをしたと電話があったとき、私はすぐに母がパートをしているスーパーへ連絡した。電話口で泣きだした母をなだめて病院へ向かわせた。塾にいる妹に連絡をした。保険証と着替えと財布と銀行のキャッシュカードを用意してかばんに詰め込み、なぜか預金通帳と印鑑まで持って出かけた。きっと気が動転していたのだろう。
妹の帰りを待って二人でタクシーに乗った。私が電話口で鉛筆を走らせたメモには、病院名も病室も、最寄り駅や電話番号でさえもきっちりと書かれていた。聞いた記憶はまったくなかったけれど、メモにあるということは聞いたのだろう。
幸い、父のケガは大したことがなかった。母はやはり泣きながら安堵し、妹は怒り、私はかばんの中身が見つからないよう、ぎゅっと持ち手をにぎった。
伝言ゲームの途中で話が大きくなっていたとはいえ、父は念のために入院することになった。入院手続きに保険証と印鑑が必要だという看護婦さんに黙ってそれらを差し出すと、家族は戸惑いの表情を浮かべた。
「落ち着いた、いいお嬢さんですね」
その言葉が追い討ちをかけた。家族はあいまいにうなずいていたが、看護婦さんがいなくなると途端に疎ましげな顔をした。
「お父さんが無事でよかった」
本当に心配していたのかと言外に非難する空気を変えようと、妹が無邪気に笑った。逆効果だった。
頭から布団をかぶって、誰かが私の名前を呼んでくれるのを意地になって待つ。助けに来てくれなくてもいい。ただ名前を呼んで、安否を確かめてくれればいい。
けれども私が自分の名前を聞く前に、窓という窓を突き破って水が入り込んできた。
痛いほどの水の冷たさに私はいっそう身を縮こまらせた。窓の外から世間話が聞こえる。消防隊員がやじうまを退けようと叫んだ声も聞こえた。
──このまま死ねば、誰かが後悔するだろうか。
そんな私の思いとは裏腹に、小火はごみ収集所を少し焦がしただけでおさまった。水びたしの家で家族と再会したとき、母は「いやあね、この子ったらいつまで寝てるの」と笑った。父は「何故避難しない」と怒った。妹は何も言わずに哀れむ目で私を見た。誰もが私の存在を忘れたことをごまかしていた。
***
むいた葉を水で洗ってまな板の上で、芯をとる。徹底的に排除されていく芯に少しだけ罪悪感を覚えながら、一枚、また一枚とキャベツを重ねていく。包丁を小刻みに動かすと、次々とザルの中に千切りキャベツが落ちていく。
「お姉ちゃん、ただいま」
適当な返事をする。明るくて人当たりのいい妹は誰にでも好かれていた。
うらやましいと思ったところで、私に彼女の性格を真似ることはできないし、彼女には彼女の悩みがある。たとえばたくさんの男性に告白されたり、交際を断った男性に付け回されたり、絡まれたりするようなことだ。私からすれば半ば自慢のような悩みだけれど、彼女の苦労もわからないわけではない。
学校帰り、ガラのよくない男に声をかけられた。妹はあっという間に私の後ろに隠れ、首をすくめて様子をうかがっていた。
──普段誰とでもよくしゃべるくせに。男友達だって多いくせに。
私は自分の内側にとても冷たい気持ちがあふれたのに気付いた。矢面に立たされるのはいつも私だ。
物心付いたときから姉だった。頼られることに慣れすぎた私は動じることなく「結構です」と告げ、あとは完全に無視した。
ほんの少し、うしろから妹の腕が引かれればいいと思った。そうしたら私は気付かないふりをして、早足のまま立ち去るだろう。嫌なことやつらいことや怖いことを私に片付けさせてきた彼女は、きっと一人でどうすることもできない。天真爛漫な笑顔や少女らしい仕草で私にどういうことをさせてきたのか思い知ればいい。手を汚すのも、ケガをするのも、疎まれるのもすべて私だった。
キャベツの芯を一つ、口の中に放り込む。
表から姿が見えないことと存在しないことは決してイコールではない。私は忘れられるということがどういうことなのか、十分すぎるほどよく知っていた。キャベツの芯はしゃくしゃくと噛むごとに青臭くなり、最後には苦味が残った。
「今日はハンバーグ?」
「ううん、コロッケ」
仕事で遅くなる母の代わりに下ごしらえを済ませておく。けれどもきっと、母が仕事明けに風呂から上がったときにはコロッケが出来上がっているだろう。揚げたての衣をサクサクと割れば、中から肉汁を吸い込んだじゃがいもと、みじん切りにしたにんじんとたまねぎが出てくる。つけあわせは千切りキャベツとワカメの酢の物。
誰が望んだわけでもないのに、模範的な娘であろうとしている。
制服のままエプロンをしめて洗濯を取り込めば、目があったご近所さんに「えらいわね」と褒めてもらえる。はにかんで一言三言話すうちに妹が大通りに現れて、きゃあきゃあとご近所さんと話しはじめる。
もし私たち姉妹が殺人事件の容疑者になったとしたら、妹は「あんなに明るい、いい子がねぇ……」と言われ、私は「地味で何を考えてるかわからない子だったから……」と言われるだろう。
模範的な娘を演じつづけ、私は私を見失った。
だから私は私を捨てる。
***
学校も予備校もない日は、電車に乗って遠くの街へ出かける。
服飾店の目立つ大きな通りは、華やかな装いの人々が行き交うせいでまぶしい。一本横道にそれると見知った顔がいた。手を振ると、相手も笑顔で「サナ」と手を振り返してくれた。
最初にこの街を訪れたとき、私は制服を着ていた。友人に頼まれて買い物に付き合っただけだった。にぎやかな街の中で制服を着たままでいることが恥ずかしくて肩をせばめた。友人は制服でも堂々と胸を張って店員と話していたけれど、何も買わない私には居心地が悪かった。居心地が悪いはずだった。
──横で見ているうちに、ふと惹かれた。
ふわりとしたスカートのパラソルのようなラインや、華麗なドレープ、すそを縁取る繊細なレース、シックな色使い。そんな、私の生活には欠片もない華やかさが、とても美しく見えた。
着てみようかな、と呟いたら友人は喜んで、色々とアドバイスをくれた。CDや参考書を買う予定だったお金で服を買った。
そのままデパートのトイレでメイクをすることになった。これまでも化粧をしたことはあったけれど薄化粧で、マスカラなんて塗ったことはなかった。ブラシでなぞるたびにまつげが太くなって、顔立ちが華やかになった気がした。元の肌の色がわからなくなるくらいファンデーションを塗ると、自分の顔が別人のように見えた。アイラインで縁取ると、目が大きくなったような気がした。
私であって、私でない。
鏡にうつる私はどんどん顔立ちを変えていき、友人が満足げなため息をつく頃には、人形のような穏やかな笑みが私の唇に刻まれていた。
勝てる。
最初に思ったのはそんなことだった。我ながらどうかという気がするけれど、今なら妹にも勝てるのではないかと思ってしまったのだ。私はお人形のように生まれ変わったのだから。
その日から、私の毎日は変わった。街へ出かけるたびに服が増え、化粧品が増え、アクセサリーが増えた。
最初は友達の友達として顔見知りが増えていったのだけれど、次第に一人で気の合う友達を見つけることができるようになった。
ゴシックロリータを着ている子たちの間で流行っている音楽も聞いた。最初は激しい音使いに驚いたけれど、歌詞に共感したら気にならなくなった。それよりも私の苦しさをわかってくれるような気がした。私の胸のうちにある悲しさを引き受けて、かわりに歌ってくれているような気さえした。
私の部屋にあった本棚がCD棚になった頃、初めてライブに出かけた。この頃になると親が私に些細なことを理由に話しかけてくるようになった。
今までほとんど私を見てこなかったくせに。放っておいたくせに。
食後の数十分を居間で過ごすことをやめ、部屋に閉じこもる。いらだちをCDの爆音で消したけれど、ヘッドホンから音が漏れていたらしい。様子を見に来た妹は「私はそういうの、あまり好きじゃないから」とあいまいに笑ってすぐに部屋を出た。
当たり前だ。この劣等感も苦しさも悲しさも、妹にわかるはずがない。そういった息苦しさのわかる人間だけが、感情の渦のはけ口として激しい音使いを愛するのだから。
ゴシックロリータだってそう。外見だけ見て眉をしかめる人もいるけれども、それぞれにこだわりや思いがあってあの格好をしている。
事実、私は新しい自分を手に入れた。
黒髪だけは染めなかったけれど、ゴスロリ服に包まれているだけで、私は変われたのだという気がした。
なりきり遊びに見えるという人もいるかもしれないけれど、私は少なくとも、ゴスロリ服を着ている間だけは自分の好きな自分でいられた。
ゴスロリ服はピストルのように私の頭を撃ち抜いた。早苗でなく、サナとして生きていく道を与えてくれた。
(キャベツとピストル あるいはロールプレイ・了)