1 魔術師 「キャベツとピストル、あるいはロールプレイ」 第一話
窓の奥に街の灯りが流れていく。電車が鈍いブレーキ音を響かせると一斉につり革が揺れ、つづけて開いた扉からはねっとりした風と、鈴虫の音が飛び込んできた。ひと気のない駅の照明が弱々しく瞬くと、発車アナウンスが流れた。僕は自宅へ向かう蒸し暑い電車の中で雑誌をぱらりとめくり、暇つぶしに読んでいた小説コーナーに再び目を落とした。
──巫女は眉間にしわを寄せて「ここは神社です。こういった西洋のものは教会にお持ちになった方がよろしいのでは」とそっけなく言った。ヒロシの両肩が極端に下がったのを見て「けれどもご縁があっていらした方の頼みをお断りするのはよくない」と小さくため息をついた──。
目の端に飛び込んできた少女から視線を外す。気付かないふりをする。小説のつづきは大して気にならなかったけれど、今は少女以外のものに集中したかった。
最近、ことある毎に少女の幻を見る。
ラッシュを避けて乗った電車の中、大学の構内、遅い昼食をとったファーストフード店、猫が集まる近所の公園、マンションのらせん階段はもちろん、部屋の中、風呂場やトイレ──見覚えのない少女はどこにでも現れた。ふとした拍子に目の端に映って、顔をあげたときには消えている。
最初は疲れているんだろうとたかをくくっていたのだけれど、土日にぐっすり眠ったあとも幻は現れた。バイトもなく、レポートの期限に追われることもなく、ただひたすら寝て食ってだらだらして休日を過ごした僕の目の前を、少女はひらひらした独特の服装で通り過ぎていった。
自分が気付かないだけでストレスを感じているのだろうか。心療内科へ行って症状を訴えてみたが、何種類か薬を処方されただけで終わった。袋に書いてある時間を守って薄く色のついた錠剤を毎食後飲んだけれど、症状は一向に改善されなかった。頭がぼんやりしただけだ。
最初は四六時中見張られていることがひどく落ち着かなかったのだけれど、次第に慣れて、少女を観察する余裕が生まれた。彼女は決してこちらを見なかった。いつも何かを見つめていて、僕には一切興味がないようだった。
何度か観察するうち、ふと目をそらしたスキに消えてしまったり、まばたきの合間に消えてしまうこともあった。どうやら僕が彼女に声をかけようとすると消えてしまうようだった。
多少気味の悪さは残ったが、少女はいつも僕の視界の片隅にいるだけだ。視線を向けられることも話しかけられることもない。僕はだんだん彼女を目で追うようになった。少女はいつも同じ黒いフリルのついた服を着て、同じカートを引き、同じパラソルを抱えていた。バンギャといって、バンドのファンの女の子たちがこういう格好をしていることがあるらしい。ベースを弾く友人に相談したら「それって憑かれてんじゃないの」と笑われた。「心霊現象なんて信じてんの? だっせぇ」と返せるほど、僕にとって少女のいる視界は自然なものになりつつあった。
ガタンと電車が揺れて、膝の上に乗せた雑誌に影ができる。ふと顔を上げると、見覚えのある顔が視界に飛び込んできた。
パラソルを抱えた少女は紛れもなく、僕の視界の隅に住む少女だった。
いつものようにそっと目をそらした。そうして彼女の気配を探りながら、膝の上の雑誌をめくった。電車が揺れるたび、タータンチェックのフリル付きスカートが雑誌の向こうでちらちらと動いた。
次の瞬間、読むともなくながめていた雑誌の上に、はらりと一枚のカードが落ちてきた。顔を上げる。意識すれば途端に消えてしまうはずの彼女は僕の目の前に立ったまま、「ごめんなさい」と蚊のなくような声であわてて言った。
膝に落ちてきたのはタロットカードのようだった。下には《THE MAGICIAN》とある。けれどもカードに描かれた男は、魔術師というにはいささか奇抜な格好をしていた。手品師のようにさえ見えた。
目の前の彼女が、いつも僕の世界に現れる少女でないことは確かだった。服装が違う。こちらを真っ直ぐに見る。
無言で拾って差し出したカードに少女の白い手が触れたとき、鼓膜の奥にビシッと硬い音が響いた。