0 愚者 「ある骨董品店の一日」 第二話
「予算はどれくらい?」
女の子はうつむいて言いにくそうにしていたが、僕を恐る恐る見上げて「二万円です」と、やはり小さな声で答えた。店番が割り引けるのは三千円が限界で、この女の子に商品を売るのは難しい。ちらりと横目で少女を盗み見ると、遠慮がちな視線でまごついている。
「カードが欲しいんだよね?」
僕はふとひらめいて、ポケットに押し込んであった白い手袋をした。三万円が箱の価値だとしたら、中身だけ別に売ったって、それほど問題はないだろう。
ふたには蝶番もなく、上に持ち上げただけで簡単に開いた。意外と軽いのに驚いた。
銀の小箱は、くすんだ赤の布で内張りがしてあった。その中に少女のお目当てのタロットカードが入っている。長く使われていたのだろう。箱とそろいの唐草模様はかすれ、台紙は黄ばんで、縁が折れていた。骨董品屋の商品なんてものは、皆こんなものだ。
「あれ?」
裏向けてあったカードを一枚ひっくり返す。カードを何枚かつづけてめくってみる。絵柄がない。よく見ると絵が描いてあるような気もするけれど、ほとんど何の絵なのかわからない。何のカードかわからないのでは不良品と言わざるを得ない。
「困ったな……」
下までぱらぱらと見た後、僕はもう一度はじめにめくったカードを手にした。
「あれ?」
今度は絵があった。犬をつれた男が崖の上で空を見上げている。荷物を持った旅人のようだけれど、下には《THE FOOL》とあるから、きっと愚か者なのだろう。つづけてめくる。模様のない白紙が続く。絵柄があるのはたった一枚だけだった。きっと最初のカードを二枚同時にめくってしまったとか、そんな理由なんだろう。僕は首の後ろに鳥肌が立つのを止めることができなかった。
「ごめん……カードだけでも売ってあげたかったんだけど、これ、不良品みたい」
女の子も、さぞがっかりしているだろう。そう思って振り向いたのだけれど、当の本人は目を細くして笑っている。つやつやと光る唇の隙間から漏れる吐息の甘さが、僕のところまで香ってくるような気がした。両目の印象が途端に変わって、さっきと変わらないはずの上目遣いが薄気味悪く見える。
「これが欲しかったんです」
ただの錯覚だったはずなのに、鳥肌がなかなかひかない。
うって変わってはっきりした女の子の言葉に、僕はうなずくことしかできなかった。
「そう……」
僕は不良品のタロットだけを抜き出して、箱を棚へ戻した。ほんの小さな、先ほどまで軽かったはずの箱の重さを、掌にずっしりと感じた。
カートの中をごそごそと探しはじめた女の子に「お代はいいよ」と言う。目を丸くした少女に愛想笑いをして、未だにひかない鳥肌をごまかした。
「不良品だし売り物にならないから、そんなのでよければ持ってって。でも店長には内緒にしといてね」
これだけ商品があるのだから、叔父に黙っていてもわからないだろう。データベースの記述はこっそり変えておけばいい。
少女が何度も頭を下げるのを見送る。黒いスカートがドアに挟まることなく店の外へ出たのを見届けて、必要以上にほっとした。ベルが鳴って、やがて止む。扉の向こうは夏の名残か、景色が熱ににじんでいる。店内とは大違いだ。
僕はゆっくりとパソコンの前に戻って、データベースの修正をはじめた。
「人々の残像を集める? 一体何のためにと困惑するヒロシにお構いなく、残像少女は目を細くして笑った。
『記憶は細胞の海にとけた魂だからよ』
ついと近付いてヒロシを見上げたその唇のなまめかしさと言ったら! ああ凡庸な青年ヒロシは少女の呪縛から無事逃れることができるのか! 次回ご期待、第二」
先ほど小さくしたはずのラジオの音がやけに大きく聞こえて、僕は周波数を変えた。ヒロシという、僕と同じ名前の人物の物語に、さして興味を持たなかった。