第9話:詩織の部屋
静寂が、夜の街を包んでいた。
オフィスを出た夕は、足取りも覚束なく、ぼんやりとした意識のまま歩いていた。
——今日も、おかしなことばかりだった。
詩織以外の人間が、詩織を知らない。
会社の同僚も、上司も、誰も——。
「詩織のこと、覚えてる?」
そう尋ねるたび、彼らは決まって、同じ反応を示した。
首をかしげ、困惑し、やがて「誰?」と答える。
そんなはずはない。
詩織はいる。
確かに、私のそばにいる。
「私のこと、忘れないでね?」
詩織は、そう言った。
そして、そっと夕の肩に手を添えた。
——その時の、あの手の感触。
冷たくもなく、温かくもない。
——まるで、生きている人間の体温ではないような。
「……詩織」
気がつけば、目の前に詩織が立っていた。
街灯の下、彼女の黒髪が夜の闇に溶け込んでいる。
「おかえり、夕」
穏やかに微笑む詩織の顔を見て、夕は不思議な気分になった。
まるで、帰るべき場所に戻ってきたかのような——安堵。
だが、その安心感こそが異常なのではないか、とも思う。
「……ただいま」
無意識に、口をついて出る。
違和感がある。
なぜ詩織がここに?
私の帰りを待っていた?
でも、私たちは一緒に住んでいないはず——
「ねえ、夕」
詩織の声が、夜の静寂に溶けるように響く。
「今日は、私の部屋に来ない?」
「……詩織の、部屋?」
詩織の部屋。
今まで、一度も入ったことがない。
どこに住んでいるのかも、ちゃんと聞いたことがなかった。
でも——
詩織は、いつも私のそばにいた。
その詩織が、自分の部屋に誘ってくれる。
「……行く」
気がつけば、そう答えていた。
詩織は嬉しそうに微笑んだ。
「こっちだよ」
彼女の手を取る。
その手は、少し冷たかった。
夜の街を歩く。
ビルの灯りが滲み、世界がぼやける。
詩織の手を握る感触だけが、はっきりと感じられる。
人気のない裏路地に入り、知らない道を進む。
「詩織……どこに住んでるの?」
詩織は振り返ることなく答えた。
「すぐそこだよ」
気がつくと、目の前に古びたアパートがあった。
外壁はひび割れ、窓ガラスは薄汚れ、まるで長い間放置されていたような佇まいだった。
「……ここ?」
詩織は微笑む。
「そう。さあ、入って」
扉を開けると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
中は薄暗い。
明かりをつける。
そして——
言葉を失った。
そこには何もなかった。
家具もない。
生活の気配が、まったくない。
そして壁一面に——
「夕」
その二文字が、無数に刻まれていた。
「……なに、これ」
喉がひりつく。
足がすくむ。
「詩織……?」
詩織は、ゆっくりと振り返る。
「ねえ、夕」
穏やかな声だった。
「ここ、素敵な部屋でしょう?」
微笑みを浮かべる詩織。
——その顔が、一瞬、まるで仮面のように見えた。