第8話:誰も知らない詩織
昼休み、休憩室のテーブルに座りながら、夕はふと隣に座っている同僚に声をかけた。
「ねえ、詩織がさ」
そう、当たり前のように聞いたつもりだった。
詩織は、いつも自分の近くにいて、時には一緒にランチを食べたり、仕事を教えてくれたりする存在だ。
けれど、同僚の反応は、思いも寄らないものだった。
「誰?」
夕は一瞬、言葉を失った。
「え、詩織だよ、一緒に働いてる、あの……」
「詩織なんて人、うちの会社にいたっけ?」
同僚は顔をしかめ、首をかしげる。
「冗談でしょ?」
その言葉に、夕の心臓が止まるかと思った。
指先が震えて、カップを持つ手がわずかに揺れる。
「そんなことない……本当に、詩織はここにいるはずだよ。」
周りの空気が重く感じられる。
そのまま一瞬の沈黙が流れる。
「おかしいな……」
夕は言葉を絞り出すように呟いた。
目の前の同僚は、まだ何か言おうとしているが、夕の頭の中ではもう、詩織の存在が確かであることを信じたくても信じきれない、そんな不安が膨れ上がっていた。
その時、ふと振り向いた先に——
詩織が立っていた。
柔らかい笑顔を浮かべ、彼女の細い指がカップを持っている。
そして、何事もなかったかのように、にっこりと笑う。
「そうだよ。私は、夕のすぐそばにいるよ?」
詩織はそう言って、夕の肩にそっと手を添えた。
その手の温かさが、ふいに夕の背中を走り抜ける。
けれど、その感覚が心地よいものとして感じられたはずなのに、同時にどこか不安なものに思えて、胸の奥がざわついた。
「……大丈夫だよ、夕は正常。」
詩織の声が優しく響く。
その言葉に、少しだけ安堵が広がる。
でも、何かが違う。
――詩織は、確かにここにいる。
でも、周りの誰もが、彼女を知っているはずなのに、知っていると言わない。
その違和感がどんどん大きくなっていく。
「でも、みんな、詩織のことを知らない……」
夕はぼそりと呟き、再び詩織に視線を向けた。
その瞬間、詩織が少しだけ首をかしげる。
「夕、誰もが私のことを忘れているわけじゃないよ。」
その言葉に、夕の心臓が大きく跳ねる。
「私は、ずっと、ここにいるよ。」
詩織の笑顔は、どこまでも優しくて、温かい。
でも、それが少し怖く感じられた。
「夕、大丈夫だよ。私は、ずっとあなたのそばにいる。」
詩織の言葉が、やけに耳に残る。
その言葉が、まるで何かを強調するように頭の中で響いて、何度も何度も繰り返し、消えなかった。
そのまま、夕は口を開けたまま、目の前の詩織の顔をじっと見つめる。
だけど、その顔が少しだけ歪んで見えたような気がした。




