第7話:名前が増殖する
午前9時。会社のデスクに座り、夕はPCを立ち上げた。
いつも通りの業務開始。
メールを確認し、クライアントからの資料をダウンロードする。
——画面が、一瞬、揺れた。
「……え?」
ノートPCのディスプレイに、何か違和感を覚える。
見間違いかと思い、画面を凝視する。
そこに映っていたのは——
『詩織』
エクセルの表のセル、メールの送信者欄、保存フォルダの名前、開いていたメモ帳、カレンダーの予定表。
あらゆる文字が、すべて『詩織』になっていた。
「……何、これ?」
血の気が引く。
表の中に並ぶ数字のはずの部分まで『詩織』の文字列で埋め尽くされている。
どこを見ても、詩織、詩織、詩織、詩織、詩織、詩織、詩織、詩織、詩織……
無数の『詩織』が、まるでPCの画面そのものを侵食するように並んでいる。
「おかしい……」
恐る恐るマウスを握り、ブラウザを開く。
Googleの検索窓にも、**『詩織』**と打ち込まれていた。
意識していない。入力した覚えはない。
マウスポインタが震える。
わずかに汗ばんだ指先でタスクマネージャーを開く。
だが、PCの動作は正常だ。
「どういうこと……?」
思わず目をこすり、もう一度画面を見る。
——元に戻っていた。
「……え?」
さっきまで埋め尽くしていた『詩織』の文字は、どこにもない。
資料の文字も、メールの送信者も、カレンダーの予定表も、元通りになっていた。
「見間違い……?」
そんなはずはない。あれだけはっきりと見えたのに。
「夕、大丈夫?」
背後から、詩織の声がした。
「詩織……?」
振り向くと、そこにはいつもの詩織が立っていた。
「顔色、悪いよ?」
詩織は心配そうに微笑む。
「……あの、ちょっと変なものを見ちゃって……」
夕はそう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「変なもの?」
詩織が、少しだけ首をかしげる。
——どう説明すればいい?
「えっと……PCの画面が、ちょっとバグったみたいで……」
「ああ、疲れてるんじゃない?」
詩織はクスッと笑う。
「でも、ちゃんと覚えておいてね?」
「え?」
「私のこと。ちゃんと覚えておいて。」
その言葉が、妙に耳に残る。
詩織の笑顔は優しい。
でも、その声が、頭の奥にじわりと染み込んでくるような感覚に襲われた。
脳の中に、『詩織』の名前が焼き付くようにこびりつく。
「……もちろん、忘れたりしないよ。」
夕はそう答えるしかなかった。
だが、その瞬間、脳内で何かが『カチリ』と音を立てたような気がした。