第5話:病院へ
夕は、診察を受けるために心療内科に足を運んだ。
不安と焦燥感を抱えながら、白い病院の待合室で名前を呼ばれるのを待っていると、胸の奥にひどく鈍い痛みが走った。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
自分の身体の異常、記憶の喪失、そして何より、あの奇妙な感覚——
どれもこれも、まるで自分が誰かに操られているかのように感じられた。
「夕さん、こちらにどうぞ。」
ナースが名前を呼び、診察室に案内される。
部屋に入ると、白衣を着た中年の医師が座っている。
「こんにちは、夕さん。今日はどんなことでお悩みですか?」
医師は優しい笑顔を浮かべて、カルテを開いた。
夕は言葉を詰まらせ、思わず目をそらした。
「最近、記憶が抜け落ちることが多くて……」
医師はメモを取りながら、静かに頷く。
「記憶の抜け落ち、というと具体的にどういったことですか?」
「昨日の出来事が思い出せなかったり、仕事の内容を突然忘れてしまったり。あと、誰かと会った記憶が、まるで他人のもののように感じることがあります。」
医師はゆっくりと考え込み、次に質問を投げかけた。
「それは、寝ている間のことですか? それとも、日中の出来事?」
夕はしばらく黙って考えた。
寝ている間——それも一つの原因かもしれない。だが、何より不安なのは、自分がいつからか、現実を完全に認識できていないのではないか、という感覚だった。
「最近、よく眠れていますか?」
その問いに、夕は反射的に答えた。
「はい、眠っています。ただ、眠っているはずなんですけど……朝、起きた時に、まるで時間が飛んでしまったような感覚があるんです。」
医師は眉をひそめ、カルテに何かを書き込む。
「……なるほど。過度のストレスが原因で、時折記憶の一部が抜け落ちることもあります。あなたの症状は、軽度の認知障害の可能性もありますね。」
「認知障害……?」
夕の心臓が一気に高鳴った。
その言葉は、彼女の不安を一層深くした。
「過去の記憶や体験が、段々と断片的になったり、実際には起きていないことが記憶として残ったりすることがあるんです。特に、ストレスが強い場合は……」
その時、突然、扉が開いて、詩織が入ってきた。
「夕、まだ終わらないの?」
詩織は笑顔で部屋に入ってきた。
その笑顔に、夕は一瞬、安心感を覚えた。
医師は詩織を見て、軽く頷いた。
「お付き添いの方ですね。少しお待ちください。」
詩織は椅子に座り、手を握るようにして夕の隣に寄り添った。
「夕、あなたは大丈夫だよ。」
その言葉に、夕は無意識に頷いていた。
でも、心のどこかで、何かが引っかかっていた。
「そう、でしょうか?」
夕の声は、自分でも驚くほど震えていた。
詩織は微笑んだ。
「もちろん。私がいるから、大丈夫。」
その微笑みが、少し不気味に感じた。
どうしてこんなに、詩織の顔が近づいているように思えるのだろう。
その時、医師が言った。
「夕さん、少し安心してください。あなたの検査結果は、特に異常は見られません。ですが、心配な点があればまたお知らせください。」
夕は一瞬、顔を上げた。
医師の言葉が、どこか現実感を欠いているように感じた。
「ありがとうございます……」
「大丈夫。これ以上心配しないでください。」
詩織が言うと、突然、夕の中で何かが「カチリ」と音を立てた。
その音は、心の中で深く響いた。
——何かを確信した気がした。
夕は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。
「はい。ありがとうございます。」
その時、何かが、少しずつ、変わり始めていた。