第4話:顔がわからない
夕は、仕事の合間に部長に話しかけられた。その時、目の前の部長の顔が、何だか不自然にぼやけて見えた。
最初は疲れ目のせいかと思ったが、目をこすっても顔がはっきりと見えない。
部長の顔が、まるで霧がかかったように、輪郭が揺らいでいるのだ。
「部長、どうしたんですか? 顔、どうかしました?」
夕は思わず口に出してしまった。
部長はびっくりしたような顔をしたが、すぐに穏やかに笑った。
「どうしたんだ、夕さん。顔が見えない?」
「え?」
目の前で、部長が何かを言っている。口が動いているのは確かだ。でも、その言葉がまるで響かない。
部長の口元は動いているのに、その声が届かない。まるで遠くから誰かが話しているような感覚だった。
「すみません、もう一度言ってください。」
部長がまた口を開けた。
でも、また音がまったく聞こえない。
夕は必死に耳を澄ませるが、どうしても音が届かない。
その時、視界が揺れるような感覚が走った。
——これ、何かおかしい。
冷たい汗が額を伝う。
頭が重く、まるで中身が引き裂かれるような感覚がした。
「どうしたんだ、夕さん?」
部長の口が再び動く。
その言葉は、やっと耳に届いた。
「部長、何か、何かおかしいです。」
夕は思わず声を出したが、部長はただにっこりと笑っている。
その笑顔が、なぜか怖く感じられる。
「何もおかしくないよ。夕さん、大丈夫か?」
その笑顔が、歪んで見えた。
「……え?」
部長の顔が、今度は完全に消えたわけではないが、途端に色が変わった。
——ぼんやりと、のっぺりとした顔に変わっていった。
ただ、顔の輪郭だけが分かる。
でも、その顔に表情がない。
目は、ただの黒い点。
鼻も、口も、存在しているはずなのに、それらの部位がまるで無いかのように思えた。
その顔は、まるで粘土で作った人形のようだった。
夕はその不気味さに、体が固まった。
「部長……?」
「どうした、夕さん? 何か、気に障ったか?」
部長の顔が、少しずつ元に戻りつつある。でも、夕にはその変化が奇妙に感じられてならなかった。
「ちょっと休憩しようか。」
部長が言うと、突然、肩を叩いてきた。
その手の感触が、冷たく感じられる。
——どうして、こんなに気持ち悪いんだろう。
夕は一歩下がり、慌てて部長から視線を外した。
その時、目の前で、詩織が現れた。
「夕、大丈夫?」
詩織は優しく微笑んでいた。その顔は、夕にとってはまるで日常そのもので、違和感なく受け入れられる。
「うん、ちょっと疲れてるだけ。」
詩織がすっと夕の肩に手を添えると、その手の温もりが心地よく感じられた。
「それより、ちょっと休んでいったら?」
詩織の言葉に、夕はうなずき、少しだけ安心した。
——でも、何だかおかしい。
頭の中で、あの部長の顔がふっと浮かんで消える。
その不気味さが、まるで心の中に深く染み込んでいるように感じた。
でも、詩織はいつだって優しくて、夕のそばにいてくれる。
そのことだけが、今は唯一の確かなものに思えた。
——詩織、ありがとう。
そう心の中で呟きながら、夕はその不安を押し込めるようにして、目の前の現実を受け入れた。