第3話:読めない文字
カタカタカタ……
キーボードを打つ音だけが、静かなオフィスに響く。
夕は、今日のプレゼン資料の最終確認をしていた。
画面に表示される文字を目で追う。
——おかしい。
意味が、わからない。
資料の文章が、歪んで見える。
まるで、活字の配置が微妙にズレているかのように、単語の意味が掴めない。
日本語なのに、まるで知らない言語のように感じる。
「……読めない……?」
思わず独り言が漏れる。
瞬きをして、もう一度画面を見直した。
文字は確かにそこにある。
だが、それが何を意味するのか、理解できない。
「夕さん、大丈夫?」
隣の席の同僚が声をかけてくる。
「……ねえ、この資料、読める?」
モニターを指差す。
同僚は怪訝そうに眉をひそめ、画面を覗き込んだ。
「え、普通に読めるけど?」
即答だった。
「嘘……」
焦りがじわりと広がる。
おかしいのは、自分だけ?
「ちょっと疲れてるんじゃない?」
同僚は気の毒そうに微笑んだ。
夕は曖昧に頷きながら、デスクの引き出しからメモ帳を取り出した。
手書きなら大丈夫かもしれない。
ボールペンを手に取り、試しにメモを取る。
「資料を修正する」
数秒後、それを見返した瞬間——
血の気が引いた。
メモ帳に書かれた言葉が、すべて『詩織』に置き換わっていた。
資料を修正する。
会議の時間。
ランチの約束。
書いたはずの文字が、すべて消えている。
そこに残っているのは——
『詩織』
その二文字だけが、紙面にびっしりと並んでいた。
「っ……」
ゾッとした。
震える手でメモ帳を閉じる。
頭を振り、もう一度開く。
……元に戻っていた。
「……私、疲れてるのかな……」
自分に言い聞かせるように呟く。
「夕、どうしたの?」
詩織が、すぐ隣に立っていた。
「詩織……」
何か言おうとしたが、声が出ない。
「ねえ、これ、読める?」
詩織は、笑ったまま尋ねた。
夕は、ゆっくりと頷く。
「……読める……よ。」
すると、詩織は嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。あなたも、もうすぐ読めるようになる。」
その言葉の意味を理解する前に、
オフィスの時計が、針を止めた。