そして私は、彼にそれを教えない
盲の渡し守と、
聾の彼と、
物言わぬ私。
*
川幅はとても広くて、対岸を見ることはできない。
私は橋の終点に立って、川の向こうを見た。岸より伸びた橋は、志半ばで終わり、川幅の中腹にすらも届いていない。橋の終わりをのぞきこめば、そこには緩やかな流れがある。白く濁った流れが、音もなく。
欄干に腕を置いて岸を見ると、少し遠くで渡し守が船を出している。川向うへ渡る人々に舟を出してやるのが彼らの仕事だ。
櫓櫂船が一隻、岸を立った。ゆるりゆるりと動き出した舟は、三日かけてこの川を渡る。必ず三日かけて、この路を往く。晴れても曇っても、たとえどれだけこの川が荒れても。なぜかと尋ねたら、そういうものなのだと渡し守は答えた。
渡し守は相変わらず、白い布で目隠しをしていた。どれだけ美しい瞳をしていようとそれを見ることはできない。見せることは適わず、そして渡し守とはそういうものなのだと、渡し守は私に教えた。
私が何も変わらない霧を眺めていると、一人の青年が私の隣にやってきた。数十日前から見かける顔だ。目隠しをしていないから、彼が渡し守の仲間でないことは瞭然だった。
ここに来た人は皆、まるでそれが責務であるとでも言うかのように、急くように、競うようにして川向うへと渡っていく。乗船者は、渡し守が名を呼ぶ声を聞いて、船着き場に集まる。そして舟に乗り込んで、行くべき場所に行くのである。
そして彼もまた、それを待つ人の一人だった。とはいえ普通の人はみな、ここに着けばほとんど間を置かずに名を呼ばれ、川を渡っていくから、彼のようにここに数十日もここに滞在している人間は珍しい――けれどそれでも彼だって、渡し守に名を呼ばれたことを知れば、すぐさま船着き場へ飛んで行くだろう。
私が彼を見上げれば、彼もまた私を見てほほ笑んだ。それは彼の、彼なりの挨拶である。白い霧を背景にした黒い髪と黒い瞳はとてもきれいで、私は彼の持ったその色がとても好きだった。
彼が聴覚を失っていることを私は知っていた。顔見知りになった彼に、私は首を傾げて挨拶をする。彼は私の言葉を分からず、けれどにっこりと笑って首を縦に振った。
黒い髪が揺れて、焼け焦げた耳がその間から覗いた。
今日は一段と霧が濃いわね。
彼の方を向いてゆっくり言うと、彼は首を縦に振った。耳の聞こえない彼は、私の言葉を口唇の動きで聞く。
今日は川全体に薄い霧がかかっている。晴れている日は珍しくて、私が陽の光を最後に見たのは確か百七十日ほど前のことだから、恐らく彼は、この場所が晴天に覆われたところなど見たことはない。
けれどこの霧がない日でも、ここから対岸を見ることはできないのだ。――川向うはとても、遠いから。
見られることは稀だけれど、ここの空はとても青くて、とても高くて、とても広い。遮るものもなく堂々と、遍く広がり、そして帰ってくることがない。それを見ることもなく行ってしまう人々は勿体ないと常々思う。
だが時々、私も、川向うの空は何色だろうと思うことがある。はたして川向うの霧は濃いのだろうか、深いのだろうか。川向うの水面の色は澄んでいるのだろうか澱んでいるのだろうか、川向うの人は、川向うの渡し守は――。それを見てみたいと思うこともある。
だが一度行ってしまえばそう簡単には帰ってこれず、だから私は躊躇って、ここで一人空を見上げ、そして川の流れを眺める。
川向うは素晴らしいところなのかしら。彼の方を見ずに早口で言うと、彼は困ったような表情で首を傾げた。私の言葉を見て取ることができなかったのだろう。
もう一度言っておくれと、彼は仕草で言う。けれど私はそれを聞いてほしいと思わなかった。だから私はそれを繰り返すことはせず、
川の向こうは、とても遠いのよ。
代わりに、もう何度口にしたかわからない言葉を、彼に告げる。
今度は理解できたらしい。聾の彼は私のくちびるを見ると、同じように微笑んで、同じように頷いた。
半刻ののち、霧の中から舟が一隻姿を現した。
乗っているのが渡し守一人だけであるということが、その舟が復路を来たのだということを示している。他の人々は川向こうで下り、舟と渡し守だけが帰ってきたのだ。往路と同じように緩やかな速度で、それはまるで水面になみあとを残すことを恐れているかのようでもある。
渡し守は楷で舟を操って、船着き場に舟をつける。舟は衝撃に少しだけ揺れて、けれど乗った渡し守が平衡を崩すことはない。持っていた櫂を舟にくくりつけて、渡し守は地を踏んだ。
そうしてから、渡し守は聾の彼の名を呼んだ。
彼の順番が来たのだ。
渡し守はその場に座り、懐から煙管を取り出すと、刻んだ葉を雁首に入れた。火を点けて煙を喫い、吸い口から唇を離してゆっくりと吐く。それは嗜好品としてのものではなく、悪しきものを追い払うための儀式なのだそうだ。名を呼ばれた彼は、私の隣で欄干に寄り掛かって、渡し守のその姿を面白そうに見ていた。
それから渡し守は、吸って吐く作業を二度繰り返すと、ひっくり返して中身を捨てた。火皿から少量の灰と、残った刻み煙草が落ちる。
煙管を懐に戻すと、渡し守はまた彼の名を呼んだ。渡し守は、いつものように舟を出すため、彼のことを待っている。舟を出すこと、それが渡し守の仕事だ。ただそれだけのことが、渡し守の仕事だ。そのためだけに、渡し守はここにいる。
渡し守が船着き場から、よく通る澄んだ声で彼の名を呼んでいる。霧のかかった真っ白なこの場所に似合わない、とても透き通った声がここまで届く。水の流れも空気すらも白く澱んだこの場所で、ただその名だけが澄んだままに届いている。
――だが彼は行かない。
私の隣で微笑んだまま、足を踏み出すこともない。
聾の彼に、渡し守の声は聞こえない。
彼の耳は用を成さず、だから彼はそれを聞けない。
そして渡し守は、彼を見ることができない。
渡し守はそのあと数度、同じように彼の名を呼ぶ。けれどその名の持ち主が出てくることはないから、諦めて船着き場に戻っていった。
だから彼はまた舟に乗れず、彼のいない舟は彼のいないまま、彼岸へと漕ぎ出してゆくことになる。
*
きいきいと舟を漕ぐ音が響く。
客の乗らぬ櫓櫂船が一隻、霧の中へ漕ぎ出していく。
私は彼に、舟が行くわ、と言う。
彼は、そうだね、と頷いてみせる。
彼は私の隣に立って、霧の中へ消えていく船を眺めている。
彼はそれが、自分の乗るべきものであったことを知らない。
だから彼はただ、静かに、楽しそうに、微笑んでいる。
私は彼の隣でただ、その船を見送っている。
あの船が次に帰ってくるのは、六日後だ。