第8話
男が部屋に来る日に、何の料理を作っておくか、悩んだ挙げ句に、ラタトゥイユと、豚肉と卵とキクラゲの中華炒めにすることにした。
前日の金曜日、近所のスーパーマーケットが開店すると、私はすぐに買い物に行った。買い物かごの中を、食材でいっぱいにしながら、買い忘れがないか、店内を歩き回った。
ラタトゥイユは味が染みるように、前日から仕込んだ。玉ねぎ、パプリカ、茄子、ズッキーニなど、まだ今の季節ではない野菜を、食べやすいように一口大に切っていく。玉ねぎを先にオリーブオイルで炒めて、半透明にしんなりしてきたら、他の野菜も入れて軽く炒め、缶詰のトマトを入れて、コンソメで味付けをして、酸味がなくなるまで、しばらく弱火で煮込んでいく。たいして難しい料理ではないが、なんとなくオシャレな料理を作った気分になれる。
ラタトゥイユを煮込んでいるあいだ、ベッドに腰をかけて、煙草を吸った。小説を書かず、部屋がキレイになってから、もうすぐ一週間になる。どうにも、落ち着かなかった。明日には、この部屋にあの男が来るのだ。なんだか、現実味がなかった。私は、あの喫茶店で、男が私の手に、自分の手を重ねた時を思い出した。ヒンヤリして、それでいて表面はつるりとしていた。爪がキレイに整えられていて、右手の中指には、立派なペンだこができていた。あの手から、美しい字と言葉が綴られる。そういえば、あの男が手話で会話するところを、いまだに見たことがないことを思い出した。ラタトゥイユがグラグラと煮詰まっている音がして、私は慌てて台所に行って、コンロの火を消した。
約束の土曜日は、やけに天気が良くて、清々しい日だった。町を歩く人々が、いつの間にかコートを脱いで、身軽な服装になっている。
私は、最寄りの駅の前で、男を待っていた。服装は、迷った挙げ句に、男と最初に喫茶店で会った時の、ワンピースを着てきた。少し肌の調子も戻ってきて、化粧もちゃんとできた。
こうやってキチンと、男を待つのは初めてかもしれない。私は、バッグから小さな鏡を取り出して、化粧の具合や髪の乱れを確認していた。
突然、ポンと優しく、左肩を叩かれた。ビクリとして、鏡から顔をあげると、男が笑顔で立っていた。今日の天気のように、清々しい笑顔だった。私は驚いて、ウッカリ鏡を地面に落としてしまった。鏡は、呆気なくパリンと割れた。
私は慌てて、しゃがんで鏡の欠片を拾った。男もしゃがんで、一緒に欠片を拾ってくれた。どうして、こういう時に限って、こんなことをしてしまうのか。私は、泣きたいような気分になった。
ようやく鏡の欠片を拾い集めると、男はショルダーバッグから小さなビニール袋を取り出して、欠片をその中に入れた。私にも、入れるようにと、袋の口を広げてくれた。私は、「ごめんなさい・・・」と言って、袋に欠片を入れた。男は、袋の口を縛り、自分のバッグに入れた。私は、自分の情けなさとやるせなさで、顔を上げられなかった。男は、また私の左肩をポンと叩いた。顔を上げると、男はゆるく首を振った。「気にしないで、よくあることさ」とでも言うような笑顔で。
私は、男の胸に飛び込みたい気持ちを堪えるのに必死だった。なんとか悟られないために、私は照れたような苦笑いを、無理に作った。
男は、春物の薄手の青いニットを着ていた。下はベージュの細身のパンツで、グレーのスニーカーを履いていた。
男は、左手に持っている紙袋の口を広げて、私に見せてくれた。私が見たことのない、おそらく海外の銘柄の缶ビールが、6缶入っていた。「ありがとう。楽しみだわ」
私は、男に伝わるように、口を大きく動かして喋った。男は、「僕も楽しみだよ」と言うように、笑顔で何度も頷いた。
私は、自分のアパートのある方向を指差した。男は、とても自然な流れで、右手で私の左手をとった。相変わらず、手はヒンヤリとしていた。私は控えめに、男の手を握り返した。私達は、歩調を合わせて、アパートの部屋に向かった。




