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第7話

 いつの間にか冬が過ぎて、気がつけば春が来て、空気が暖かくなっていた。私は、クリスマスも正月も花見も関係なく、ただただ男に読ませる小説を書いていた。

 突然、変化は訪れた。

 土曜日、私は男と喫茶店にいた。いつものように、男は私が書いた小説を読んでいた。私が昔、新人賞に応募した作品だ。他の作品と平行しながら、何度も手直しをして、やっと書き終えた。

 その日は、いつもと少し違った。男は、暖かくなってきたからか、白いTシャツにグレーのカジュアルなジャケット姿だった。細身のジーンズは変わらないが、足元は白いスニーカーだった。テーブルには変わらず、熱いコーヒーと灰皿と、ラッキーストライクが置いてあった。

 私は、書いてきた小説を、男に渡した。いつもなら、男は右手だけで受けとるのに、今日は両手でうやうやしく受け取った。今回の作品が、長編なので、いつもより厚かったからかもしれない。

 マスターがコーヒーを持ってきてくれた。それを待っていたかのように、男は私の小説を読み始めた。

 男は、いつもよりゆっくりと丁寧に、小説を読んでいた。その証拠に、私がコーヒーを飲み終わり、煙草を4本吸い終わっても、まだ読み終わっていなかった。男から漂う空気も、なんとなく何か違うような気がした。私は落ち着かなくて、マスターを呼んで、コーヒーをもう1杯注文した。

 男が、私の小説を読み終わったのは、私が2杯目のコーヒーを飲み終わり、煙草を6本吸い終わった時だった。

 男は、私の小説を一度閉じると、パラパラとページを捲った。そして、表紙に書いた題名と私の名前を、愛おしそうに指先で撫でた。私は、こそばゆいような気持ちになって、また煙草に火を点けた。

 男は、ショルダーバッグに、私の小説を丁寧にしまった。私が書いた小説を読むと、男は必ず持って帰る。男の部屋には、私の小説が、どんどん蓄積されていく。

 男は、もう冷たくなってしまったコーヒーをゆっくり飲み干した。そして、ノートと万年筆を取り出し、サラサラと綴った。

「ありがとう。とても面白かった。最後の、主人公の2人が海に落ちて、溶けていく場面が、本当に切なかったよ」

 男は、初めて私の小説を、具体的に評価した。私は、嬉しさと恥ずかしさで、本当は男に笑顔を向けたいのに、思わず下を向いてしまった。

 男は、さらにノートに万年筆で綴り、私に見せた。

「来週の土曜日は、あなたの部屋に行ってもいいかな?あなたの部屋で2人でビールを飲もう。ビールは僕が、お土産に持っていくよ」

 私は、最初ノートの言葉がうまく飲み込めずにいた。男が、私の部屋に来たがっている・・・その事実が受け入れられなかった。嬉しいはずなのに、戸惑って、「あ、あの・・・」と妙な声が出てしまった。

 男は、私の戸惑いを察したのか、苦笑いをして、さらにノートに言葉を綴った。

「いきなりこんなことを言って、失礼だよね。ごめん。でも、あなたがどんな暮らしをしてるのか知りたいんだ」

 男は、少し申し訳なさそうな表情をした。私は、鼓動がどんどん早くなっていた。口の中が苦くなり、カラカラに渇いていた。

 男が、私に万年筆を渡してくれた。私は、覚悟を決めて、ノートに言葉を綴った。

「ぜひ来てほしい。下手だけど、料理を作って待ってる」

 男は、その言葉を読むと、眼を細めて嬉しそうに笑った。そして、テーブルの上の私の上に、自分の手をそっと重ねた。男の手は、ヒンヤリと冷たかった。


 男と別れたあと、私は大急ぎで自分のアパートに戻った。部屋の鍵を開け、ドアを開けると、まるで空き巣と格闘したかのような自分の部屋の状態に、絶望した。ここのところの、小説中心の生活のせいで、私の部屋は以前よりも、さらに酷くなっていた。来週の土曜日に、男がこの部屋に来る。その前にどうにかしなくては。私は溜め息をついた。

 私は手始めに、床に散乱している小説の下書きのルーズリーフを拾った。それを、作品ごとにクリアファイルに入れて整理した。テーブルに置いてある食器をシンクで洗い、ゴミを袋に入れた。本を本棚にしまい、洋服をクローゼットのケースに畳んでしまい、洗う服は洗濯機に入れた。ベッドの埃まみれのシーツをはがし、新しいシーツに替え、枕カバーもはがして、洗濯機に入れた。化粧品や薬などの小物類は、メイクボックスにしまい、公共料金の領収書もクリアファイルに入れた。テーブルの上が片付いたので、着なくなったTシャツを切って、それを雑巾代わりにして磨いた。台所に行き、コンロとシンクを磨き、排水口を漂白剤で除菌した。トイレを掃除し、風呂の掃除をした。

 黙々と掃除を続けていたら、いつの間にか夜が明け、朝日が昇っていた。窓を開けると、冷たい朝の風が、部屋の中に入り込んできた。

 部屋は、何年か振りに、床にもテーブルにもベッドにも、物が置いてない状態になっていた。私は、溜まったゴミの袋を、外のゴミ捨て場に出しに行った。まだ時間は早いが、私は部屋に掃除機をかけ、床を雑巾で力を入れて隅々まで磨いた。

 掃除が終わると、ひどく喉が渇いているのに気づいた。冷蔵庫を開けると、ビールが1本だけ入っていた。ここ何ヵ月も飲んでいなかったのに、なぜあるのか。私はそれを開けて、一気に飲み干した。キリキリに冷えていて、私の空っぽの胃を刺激した。

 ビールを読み終えると、私はベッドに倒れ込んだ。掃除の時にはまるで感じていなかった、疲労と眠気が、津波のように押し寄せてきた。眼を瞑り、そのまま次の日の朝まで眠った。

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