第5話
土曜日は、とても天気は良かったが、空気は冷たい日だった。
私は、寝不足の中、早起きをし、クローゼットを漁って、洋服を選んでいた。あの男と会う時は、仕事帰りが多いので、いつも裾が擦りきれたジーンズや、毛羽立ったTシャツやトレーナーだった。しかし、今日は昼間に、しかも居酒屋ではなく喫茶店で会うのだ。そして、私の書いた小説を読んでもらうのだ。だからといって、別にデートというわけでもないが、普段とは違う格好をしていった方がいいような気がした。
部屋がゴミ屋敷のようになるのも気にせず、私は洋服を入れている収納ケースから、グレーのワンピースを引っ張り出した。もう何年前に買ったかは忘れたが、一時期お気に入りだったワンピースだった。疲れていたこともあり、私はこれを着ていくことにした。黒いタイツを履いて、ワンピースを着てみた自分を姿見に映すと、スカートの丈が少し短すぎたし、その下から伸びる足が、以前より醜くずんぐりとしていた。おまけに、腰回りも明らかに以前より太く、むっちりと肉をつけていた。久しぶりにマジマジと見た自分の全身像に、軽く絶望しながらも、時間は待ってくれない。私はベッドに腰をかけて、化粧を始めた。
手鏡で自分の顔を見ながら、リキッドファンデーションを薄く肌に伸ばし、さらにパウダーを全体にはたいた。眉毛を整え、瞼にブラウンのアイシャドウを薄くのせた。黒いアイライナーを慎重に細く引き、睫毛をビューラーで無理矢理上げて、マスカラを塗った。最後に、唇にピンクベージュの口紅を塗った。
化粧が終わって、手鏡で改めて自分の顔を眺めた。久しぶりに化粧をした自分の顔は、ひどく醜い、というよりも、なんだか惨めな雰囲気にさえ見えた。どうして、私は綺麗になれないのだろう。2度目の絶望を味わっていたが、時間は待ってくれない。私は、バッグの中の荷物を確認し、トレンチコートをまとい、玄関でスニーカーではなく、少しヒールの高いパンプスを履いて、ドアを開けて外に出た。
約束の喫茶店は、すぐに分かった。駅の出口のすぐ横にある、寂れた木のドアに鈴が付いている。古そうだけれども、どことなく品のある風貌だ。私は、控えめに木のドアを、ゆっくりと開けた。鈴が、チリンと鳴った。
店内は、ドアと同じように、古びてはいるが、品が良く、清潔な雰囲気だった。カウンター席と、テーブル席が5席、天井にはステンドグラスのランプが吊るされている。テーブルは飴色に磨かれ、窓のない壁は少し黒ずんではいるが、掃除が行き届いているおかげか、不潔な印象はせず、むしろ味わいすら感じた。壁には、写真や絵などは、なにも飾られていなかった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中に、髪の真っ白なマスターらしき男性が、カップを拭いていた。白いワイシャツに黒いベストとズボンという姿で、皺の刻まれた顔をほころばせながら、私に笑顔を向けた。
「おひとりですか?」
「すみません、待ち合わせで・・・」
「ああ・・・、あちら様ですか?」
マスターが顔を向けた方向を見ると、あの男が一番奥のテーブル席に座って、私に手を振っていた。さっき店内を見渡した時は、いなかったような気がしたが、気のせいだろうか。
私は、慌てて男の席に駆け寄り、まだ待ち合わせ時間にはなっていないが、待たせてしまって申し訳ないと伝えるために、頭を下げた。男は、「大丈夫だよ」とでも言うように、柔らかい笑顔で、右手を顔の前で振った。私も、ぎこちない笑顔を作って、男の向かいの席に座った。椅子は、木で出来ているが、妙に座り心地が良かった。
テーブルには、まだ湯気の立っている、白いカップに入ったコーヒーと、同じく白い灰皿が置いてあった。灰皿には、吸い終わった煙草が一本、その横にはラッキーストライクの箱とライターが置いてあった。
マスターが席に来て、コップに入った水を持ってきてくれた。
「ご注文は?」
「えっと、コーヒーをお願いします。あ、一番安いのでいいです・・・」
「はい、かしこまりました」
マスターはそう言って、笑顔を私に向けて、去っていった。ホテルの支配人のような丁寧な口調だった。
私は、バッグを膝に置き、中から原稿用紙の束を取り出して、男の前に置いた。私が昔書いた小説を手直しし、原稿用紙に清書し、紐で綴じたものだ。表紙には、100円ショップで買った、白い画用紙をつけて、小説のタイトルと、私の名前が書いてある。
男は、無表情でそれを手に取り、表紙を手で撫でた。私は、自分が撫でられたような感覚がして、ドキリとした。
「お待たせ致しました」
マスターが、コーヒーを持ってきて、私の前に置いた。私は、コーヒーを一口飲んだ。舌が焼けそうなほど、熱かった。
男は、私の顔を見ずに、表紙を開いた。どうやら、読み始めているようだ。私は、緊張した。自分が書いた小説を、生まれて初めて、人に読ませている。恥ずかしさよりも、男が、いったいどんな反応をするのか、気になって仕方がなかった。「面白かった」と言ってくれるのか、「つまらない」「よくわからない」などと言われるのか。男が読んでいる間、私は落ち着かず、何度もコーヒーに口を付けたり、煙草を吸ったりした。
男は、特別早いわけではないが、かといって遅くもなく、私の小説を読み進めていった。コーヒーにも口を付けず、煙草も吸わずに、一心不乱に読んでいる様子だった。そんなに集中して、読むほどの作品じゃないのに・・・。私は、罪悪感に似た感情を抱えながら、コーヒーをまた一口飲んだ。
男が、私の小説を読み終わったのは、わたしがコーヒーを飲み終わり、煙草を4本吸い終わった時だった。表紙を静かに閉じ、私の目の前に置いた。そして、冷めてしまったコーヒーを、ゆっくりと飲み干した。
男は、テーブルの下に直接置いたショルダーバッグから、ノートと万年筆を取り出した。ノートを開き、万年筆のキャップを開け、サラサラと綴っていった。そして、私にそれを見せてきた。
「ありがとう。来週の土曜日にも、この店で同じ時間で会おう。また新しい作品を読ませて欲しい」
ノートには、それだけ書かれていた。感想などは一切なく、来週の土曜日までに、私はまた新しい小説を書かなければならなくなった。私は、なにも言えずに、男に聞こえないことは分かっているのに、「はい・・・」と口に出して頷いた。
男は、納得したのか、いつもの笑顔に戻った。そして、ノートと万年筆をバッグにしまい、肩にかけると、席を立ってマスターのいるカウンターへと歩いていった。私はハッと我に返り、慌てて男のあとを追って駆けた。会計は男が払ってくれた。
店から出ると、外は夕方になっていて、空気がより冷たくなっていた。私達は、いつものように、その場で別れた。男の立ち去る背中を見ながら、私は口の中が、コーヒーと煙草で、ひどく苦くなっているのを、今さらながら感じていた。




