第2話
仕事を終え、駅に着くと生暖かい空気が全身を被い、電車の冷房で冷えた身体がジンワリと汗ばんだ。早く冷たいビールが飲みたくて、仕方なかった。
先日給料日だったし、実家で金を無心することもできたので、居酒屋で少し飲んでいこうと決めた。私は駅前の横断歩道を渡った。
横断歩道を渡って左に行くと、狭い路地があり、そこに小さな居酒屋がある。もつ煮込みを売りにしている、個人経営の店で、ここに引っ越してきてから、月に2回ほど通っている。値段も安い上に、店主や店員が常連だからといって馴れ馴れしくしてこないし、他の客も静かに飲んでいて騒がしくないところが、気に入っている。
店にに入ると、程よく涼しい空気と、甘辛い匂いが鼻をくすぐった。「いらっしゃいませ、カウンターへどうぞ」と、店員が適度に愛想の良い声で言った。私は、出口の近くのカウンター席に座り、瓶ビールと、もつ煮込みとたたき胡瓜を注文した。すぐに瓶ビールとグラスが運ばれてきた。私は、グラスにゆっくりビールを注いで、一気に飲み干した。ほどなくして、もつ煮込みとたたき胡瓜も運ばれてきて、私はまたグラスにビールを注ぎ、私は割りばしを割って、胡瓜から箸をつけようとした。
後ろから、ガラガラと出口が開く音と、生暖かい空気が入ってきた。振り向くと、スーツ姿の小柄な男が立っていた。「いらっしゃいませ、カウンターへどうぞ」と店員が言うと、男はひとつ席を空けて、私の右隣に座った。
人の顔や名前を覚えるのが苦手な私だが、その男には、どこか見覚えがある、と思った。正確に言うと、顔ではなく雰囲気やシルエットに対してであった。
顔の造りは、いたって平凡というか、平均的な顔だった。奥二重の眼、高すぎず低すぎずな鼻、その鼻のサイズに収まる小さな唇、少し尖った顎。それなりに年齢は重ねてはいそうだが、どこかあどけなさを残している。華奢な身体にピッタリとはまった紺色のスーツ、白いYシャツ、グレーのネクタイ、書類がたくさん詰まっていそうな黒い鞄は、よく磨かれた黒い革靴を履いた足元に置いてある。
男はメニュー表を開き、少し眺めると右手を上げた。店員が「はーい」と言って近づいて来ると、男は私に背を向けて、店員にメニュー表を見せながら、無言でメニューをいくつか指差した。
「瓶ビールとマグロの山かけと蓮根のきんぴらですね。少々お待ち下さい」
男も常連なのか、店員は慣れた様子で注文を受け取った。男は軽く頭を下げると、短く切り揃えた黒い髪と、白いうなじが、店の照明でツヤツヤと光って見えた。
私は無意識に、男の後ろ姿をジッと見てしまっていたのだろう。店員が去っていくと、男はクルリと身体を回転させて、私の方に顔を向けた。おそらく、私の視線に男も気づいていたのだろう。奥二重の黒目がちな眼で、堂々と私に視線を合わせてきた。私は、驚きと恥ずかしさで、「すみません!」ととっさに呟き、思わず顔を下に向けた。
いつ顔を上げようかドキドキしていると、トントンと右肩を優しく叩かれた。恐る恐る顔を上げると、いつの間にか男が私のすぐ隣の席に座っていた。男の表情はとても穏やかで、私の不躾な視線な視線に怒っているわけではなさそうだった。
私はホッと胸を撫で下ろして、男にぎこちなく笑い返した。男は、私のような相手には慣れているのだろう。「安心して下さい、怒ってなんかいませんよ」と言っているような、眼を細め、ホンノリ口角を上げた、初対面の人間でも包み込むような優しい笑みを浮かべていた。そして、男は無言で、私の前にダブルリングで綴じられたノートのページを開いてみせた。罫線の引かれた白紙のページの一番上の行間には、こう書かれていた。
「失礼ですが、どこかでお会いしましたか?」
流れるような、それでいて読みやすい文字だった。細く、深い黒色のペンで書かれていて、白紙のページにくっきりと浮かび上がっていた。
しばらくその文字を見つめていたが、なにか答えなければならないことにハッと気づいて、「えっと・・・」と戸惑っていると、男はキャップのついた細いペンを差し出してくれた。私は、お辞儀をしながらペンを受け取り、キャップを外した。それは、万年筆だった。持ち手とキャップの色は黒で、白い筆記体で「R.M」という文字が書いてあった。ペン先は銀色で、照明に当たってキラリと光った。私は万年筆の値段なんて分からないが、安物には見えなかった。
私は、その万年筆でノートに文字を走らせた。初めて手に取るのに、万年筆は私の手に馴染み、スルスルと滑るように文字を書くことができた。
「ジロジロ見てしまって申し訳ありません。以前、あなたを見かけたような気がしてしまったんです。駅前のコンビニには、行ったことはありませんか?」
私は、万年筆を男に返し、その文章を見せた。男は、文章に眼を走らせると、「ああ、それか」というような表情をして、万年筆でノートに書き始めた。
「あのコンビニには、煙草を買いに、しょっちゅう行っています」
彼は書き終えると、スーツの胸元に手を入れて、煙草とライターを取り出した。銘柄は、ラッキーストライクだった。
「お待たせ致しました」
店員がお盆を持ちながら、男の注文した品をテーブルに素早く置いていった。男は、瓶ビールをコップにゆっくりと注ぎ、綺麗に泡を立てた。そして、グラスを私の方向へ近づけてきた。私は慌てて、泡が消えてぬるくなってしまったビールのグラスを持ち、男のグラスにぎこちなく当てた。男は、愉快そうな笑い顔をして、ビールを飲んだ。細い首の割に立派な喉仏が上下に動いていた。私も、ビールを飲み干した。
私が空になったコップをテーブルに置くと、男は瓶を持ち上げて、ビールを注いでくれた。私は、「すみません、お構い無く・・・」と言うと、男は私が恐縮している様子を微笑ましいような顔で見て、自分のコップにもビールを注いだ。そして、蓮根のきんぴらを一口つまむと、その器を私の方に寄せた。男は、万年筆のキャップを外して、またノートに文字を走らせた。
「お嫌いでなければ、とうぞ。この店の隠れた名物ですよ」
そう書かれて断る理由もなく、私は箸を持ってきんぴらを一口食べた。甘辛くて、優しい味わいだった。私は、笑顔を造って頷くと、男も満足そうに頷いた。
しばらくの間、お互い黙ってビールを飲んで、料理を食べた。気まずいわけではないが、どうしたらいいのか分からず、私は気持ちを落ち着かせるために、バッグから煙草を取り出して、火を点けた。私の行動に、男は少し安心したような顔をして、自分もラッキーストライクを咥えて、火を点けた。そして、ゆっくり吸い込むと、細く白いクリームのような煙を口から吐いた。
「キャメルをご愛飲なんですね」
煙草を一本吸い終わり、灰皿に押し付けている間に、ノートにそう書かれていた。万年筆もそのままテーブルに置いてあったので、私は手に取り、文字を走らせた。
「一番の理由は、値段が安いからなんです。貧乏人なものですから」
そう書くと、彼は口許に左手を当てて笑ったが、声は出さなかった。聞くなら今だと思い、私はそのままノートに言葉を続けた。
「失礼ですが、あなたは耳が聞こえないんですか?」
そう書いて、私は万年筆を男に渡した。男は万年筆を手に取り、すぐにノートに文字を走らせた。
「そうです。生まれた時から、まったく聞こえません」
男はそう書くと、またスーツの胸元に手を入れて、茶色い革の名刺入れを取り出し、名刺を一枚私に差し出した。名刺には会社の名前と、男の名前が印刷されていた。珍しくはないが、そうどこにでも転がっているわけでもない、そんなタイプの名前だった。そして、万年筆の「R.M」が、男のイニシャルだと気がついた。
私は、名刺を貰ったからには、自分も自己紹介しなければと思い、ノートに自分の名前を書いた。男は、ノートに書かれた私の名前を、指先でそっと撫でた。そして、お互いに照れ臭そうに笑いあった。
私達は、瓶ビールをもう一本とポテトサラダを注文し、飲んで食べながら、その合間に万年筆でノートに自分の事を書き合った。男はこの近くにひとりで住んでいて、電車で30分ほどの場所にある会社で経理の仕事をしているという。年齢は、私より3歳年上で、この店には毎週のように通っているらしい。
お互いに最低限の情報を共有し合うと、ちょうど酒もつまみも終わり、その日は店を出ることにした。
「またお会いできるといいですね」
私はノートにそう書いた。
「きっと会えますよ」
男はノートにそう書いた。でも、次の約束はしなかったし、連絡先の交換もしなかった。男がご馳走させてくれと言ってきたが、さすがに丁重に断った。
店を出て、駅前まで行くと、男は私の住まいと反対方向を指差した。私も、自分の住まいの方向を指差した。私達は、またお互い照れ臭そうに笑い、ペコリと頭を下げた。そして、自分達の暮らす部屋へ、それぞれ帰っていった。




