第11話
眼を醒ますと、私はベッドの上で、布団にくるまっていた。カーテンを開けた窓から、日射しが入ってきて、部屋はホンノリ明るかった。
布団をめくり、ベッドから身体を起こした。枕元を見ると、私のスマートフォンと、昨日着ていた服が、ストッキングやブラジャーまで、とても丁寧に畳まれていた。スマートフォンを開くと、朝の7時過ぎだった。
畳まれた服を、ひとつひとつ身に付けながら、私は部屋に男がいないことに気がついた。最初はトイレか、シャワーでも浴びているのかと思った。しかし、なんの物音や気配がしなかった。
テーブルを見ると、万年筆とラッキーストライクの箱が置いてあった。きっと、朝食を買いに行ったのだ。だって、男のとても大切な万年筆とラッキーストライクが置いてあるのだから。そう思うのが自然だ。しかし、なぜか胸騒ぎがした。
私は落ち着かねばと思い、立ち上がって、水を飲もうと、冷蔵庫を開けた。そこで、違和感に気がついた。冷蔵庫に、男が持ってきたビールがまだ2缶残っていたはずなのに、それが無かった。さらに、昨日飲んだビールの空き缶も、なくなっていた。私が昨日洗った、食器やフライパンは、そのままだった。
私は、部屋を見渡した。男の洋服も、バッグも、ノートもない。台所に置かれていた灰皿には、私の吸っている煙草の吸い殻しかなかった。この部屋に残っている男の痕跡は、万年筆とラッキーストライクだけだ。
私は慌てて、スマートフォンを手に取ったが、開く前に気がついた。私は男の連絡先を知らない。どこに住んでいるかも知らない。私達は、ノートに万年筆で綴った言葉でしか、お互いの思いを伝えなかった。
私は、自分のバッグから財布を取り出し、中身をベッドの上にぶちまけた。居酒屋で最初に男と会った時に、名刺を貰ったはずだ。しかし、スーパーやドラッグストアや美容室のポイントカードばかりで、男の名刺は見つからなかった。
私は、なにも持たず、玄関に向かい、安いサンダルを履いて、外に出た。天気はいいが、春の朝の空気は冷たかった。私は小走りで、駅前まで向かった。この時間に開いている店は、コンビニくらいで、日曜日なので、人通りも少なかった。
駅前まで来た。運動不足の私は、小走りしただけで、ハァハァと息がきれた。人気の少ない駅前で、立ち尽くしながら、私は気づいてしまった。男が消えたことに。私と、自分の分身のような万年筆とラッキーストライクを置いて、男は消えたのだ。私は、フラフラと自分の部屋に帰った。
部屋に帰ると、ベッドにはさっきぶちまけた財布の中身と、テーブルには万年筆とラッキーストライクが行儀よく、私を待っていた。
私は、床にしゃがみこみ、ラッキーストライクの箱を開けて、一本取り出して火を点けた。思い切り吸い込むと、渇いた喉に刺激が直撃して、ゴホゴホと咳き込んでしまった。台所から灰皿を持ってきて、煙草を押し付けて消した。
私は、万年筆を手に取った。黒い待ち手に白い筆記体で書かれた、「R.M」の文字を眺めた。キャップを外すと、細い銀色のペン先がキラリと光った。私は、男の名前を呼んだことがなかったような気がする。男も、私の名前を呼んだことがないような気がする。私は、男の万年筆のイニシャルを、指先で撫でた。きっと、いつか男の名前も、忘れてしまうのだろうか。私は、ラッキーストライクを一本咥えて、また火を点けた。白い煙が、魂のように上にあがって、そして消えた。




