第1話
「ナミちゃん、そのお客さんはラッキーストライクよ」
レジの奥の煙草コーナーを睨んでいたら、店長と思われるおばさん店員が、隣のレジで戸惑っている若い女性店員に声をかけた。若い女性店員の前には、スーツを着た男の客が1人立っていて、青い表紙のノートを店員の前に広げていた。私は、そのノートになにかいかがわしい言葉か絵でも書いてあるのかと思い、男の後ろに周り、ソッとノートを覗いてみた。ノートには、「ラッキーストライクをひとつ、お願いします」と、一行だけ書かれていた。
ナミちゃんと呼ばれた店員は、慌てて後ろの煙草が並ぶ棚から、ラッキーストライクをひとつ取ってきた。「こちらでよろしいですか?」と店員が言うと、男は黙ってゆっくり頷き、すでに右手に用意してあったらしい小銭をレジに置いた。「ちょうどですね。ありがとうございました」と店員が言うと、男は黙って、ペコリとその場で頭を下げた。男の短く切り揃えた黒い髪の毛と白いうなじが、コンビニの照明でツヤリと光った。
男は頭を上げると、先程広げたノートを閉じて、持っていた黒い鞄に煙草と一緒に素早くかつ丁寧な仕草でしまうと、ゆったりとした足取りで、店を出て行った。私は、そのピンと姿勢の良い後ろ姿に、なんとなく眼を奪われてしまった。「お客様?どうぞ」という店員の言葉でハッとし、慌てて「キャメルクラフトの6をひとつ」と言って、バッグの中の財布を探した。
外に出ると、さっきの男の姿はなかった。駅の方面からは、私と同じ仕事帰りらしい人達が、家路に向かって足早に過ぎ去ってゆく。もう夕方の6時を過ぎているのに、空はまだホンノリ明るく、湿った風が肌にまとわりつき、夏が始まってしまったことに、私はなぜか虚しさとやるせないような気持ちになった。
ドアを開け、靴を脱いで玄関に足を踏み入れようとした瞬間、足の小指に固い物が当たり、強烈な痛みが走った。電気を点けると、先日図書館で借りてきた長編小説の単行本だった。なぜ、こんな所に置いてあるのかは不明である。私はそれを拾い上げ、部屋に入り、ベッドの上に置いた。
バッグを置くと、私は服もブラジャーも靴下も脱いで、ショーツ一枚になり、ベッドの上に散らばっているTシャツとジャージのズボンに着替えた。冷蔵庫を開けて、缶ビールを取り出し、二口飲んだ。冷たさと刺激と苦味が、空っぽの胃袋に流れ込んでゆく。煙草をくわえて火を点け、一息吸い込んで吐き出すと、やっと落ち着くことができた。電気ケトルに水を入れて、スイッチを押すと、床に置いてある紙袋から豚キムチ味のカップラーメンを取り出す。
お湯を入れたカップラーメンと缶ビールをテーブルに置いて、ベッドに腰かけた。テレビを点けると、トークバラエティー番組がやっていて、最近人気らしい8歳くらいの子役の少女が、ゲストで出演していた。彼女は、司会者の質問にハキハキと答える一方で、子供らしいあどけない発言をして、出演者達から微笑ましい笑いを受けていた。こんな子供でも、自分に与えられた仕事をキチンとこなしている。私はテレビを消して、のびかけたカップラーメンを啜った。
カップラーメンの残り汁をトイレに流して、2本目のビールを空けた。飲みながら、改めて汚部屋を通り越して、廃墟のような自分の部屋を見渡す。テーブルの上には、何日も洗っていない曇ったコップ、今朝飲んだ野菜ジュースの紙パック、光熱費の領収書、吸殻が溜まった灰皿、化粧水と乳液、鎮痛剤に風邪薬、爪切り、綿棒、ハサミ、体温計・・・。テーブルはガラス製で、本来は透明だが、こびりついた汚れと埃で白く曇っている。床には、テレビとエアコンのリモコン、取り込んだまま畳んでいない山積みの服、黄ばんだクッション、本棚に入りきらない本、飲みかけの麦茶のペットボトル、ドライヤー、箱ティッシュ、書きかけの手帳、そしてその隙間を埋める埃や食べかすや私の髪の毛・・・。私は、この足の踏み場のない廃墟を彷徨う幽霊だ。
煙草を灰皿に押し付け、私は高校生の頃から使っているCDコンポの再生ボタンを押した。小さな音量で、ちあきなおみの曲が流れ始めた。昔、リサイクルショップで安く手に入れたベストアルバムだ。
「雨に濡れた慕情」「夜間飛行」「夜へ急ぐ人」・・・、そして「朝日のあたる家」が流れた。故郷を出て、汽車でニューオリンズという町にたどり着いた女は、「朝日楼」という名の娼館へ向かう、という内容の歌詞だ。
この歌を知って、ニューオリンズという町は、とてもさびれた淋しい町なのかと想像して調べてみたら、アメリカのミシシッピ川沿いにある町だった。ジャズ発祥の地で、飲食店などもたくさんあり、意外にも明るくて賑やかな町らしい。
そんなジャズの音楽で賑わう大通りから離れ、人通りの決して多くない暗い道端で、冷たい壁に寄りかかっている女がいる。寒いのに、胸元や太ももが露出したワンピースを着て、煙草を吸っている。顔にはコッテリと厚化粧をして、長い髪は半分乱れたようにカールしていて、爪には赤いマニキュアが塗られている。女はうつむき加減で煙草を吸い、足元に散らばった吸殻を眺めながら、故郷の家族や昔の恋人に思いを馳せる。やがて、男が通りかかり、いやらしさと軽蔑を込めた笑みを浮かべながら、女に声をかける。金の交渉をし、お互いの利害が一致したふたりは「朝日楼」へと向かう・・・。
汗ばんできたので、エアコンのスイッチを入れた。これからエアコンで電気代がかかる季節だ。そろそろ実家に顔を出しに行こうか、ボンヤリ考える。数年前に会社員を辞めてから、私は日雇い派遣会社に登録し、週に3~4日ほど働いている。今日は、電車で15分ほどの場所にある倉庫で、立ったまま化粧品の検品を7時間やってきた。もちろん、その程度の仕事では、毎月の給料は生活費に消え、ほとんど貯金はできない。会社員時代に貯めた貯金も、もうたいして残ってはいない。そんな経済状況の私が、ギリギリとはいえ暮らしていけてるのは、隣の県にある両親の住む実家に、2~3ヵ月に一度、「顔を見せにきた」という名目で、父親から金を無心しに行っているからだ。実家に行くと、母は「ちゃんと働かないなら、こっちに戻って、結婚相談所にでも登録しなさい」と、最近必ず言うようになった。私は、その言葉には答えず、母が嫌がるのを知っていながら、庭に面した縁側で煙草を吸う。しばらくすると、父が金の入った封筒を持って近づいてきて、無言で私に差し出す。私は、「いつも悪いね」と無感情な声で封筒を受け取る。いまだに現役で働いている父の軽蔑のこもった視線には、気づかないふりをしながら。
音楽を消して、缶ビールを飲み干すと、私はテーブルの上のゴミを捨て、コップをシンクに運び、その他の物は床に置くなどして、なんとかスペースを作り、ルーズリーフと水性ボールペンを置いた。クッションを座布団代わりにして座り、ボールペンを持つ。そして、ルーズリーフに文字を走らせていく。
私の母は、「本を読むと頭が良くなる」と信じて疑っていなかった。まだ字が読めない私に本を読み聞かせ、休日は図書館に毎週通い、誕生日にオモチャや人形を欲しがる私の言葉を聞かず、いつも童話や伝記などをプレゼントしてきた。その成果なのか、私は小学校に上がる前から、ひらがなや簡単な漢字なら読んだり書くことができた。結果として、国語以外の教科の成績はパッとせず、高校も大学も普通レベルの所に進学したが、本を読むことが、手を洗ったり歯を磨いたりするように、日常に溶け込んでいった。
様々な本を読んできた私は、やがて受動的にただ読むだけでは満足できなくなった。私の言葉が文字という形で現れたら、どうなるだろうかと考え始めた。学校で、作文や読書感想文などは書いたことはあるが、それは先生やクラスメイトが読むし、あくまでも勉強だ。それとは違うものを書いてみたくなったのだ。小学校4年生の時、勉強に必要だからと嘘をついて、母から小遣いを貰い、大学ノートと鉛筆を買った。自分の部屋の机に座り、鉛筆を削り、ノートを開いたが、いざとなると何を書けばいいのか思いつかなかった。とりあえず、日記を書いたり、読んだ本の感想を書いたり、好きな物語にアレンジを加えて書いてみたりした。そして、次第に自分が想像した自分の言葉での物語を書くようになっていった。
夢中になって自分の頭の中の物語を文字で表現し、その文字によってノートがびっしりと埋まっていくのは、達成感より快感に近かった。たとえ、ありふれたストーリーでも、拙い表現でも、自分の作った物語が文字という形になって、それを手に取れることは、私を愛おしい気持ちにさせた。流行りの洋服よりも、人気のテレビタレントや俳優よりも、最新型の携帯電話よりも、私を魅了した。
小説を書くことを、両親にはもちろん、どんなに仲の良い友達にも、かつて誰よりも愛した恋人にも言ったことはなかった。恥ずかしさももちろんあったが、面白半分に私の世界を覗いてもらいたくなかった。
それでも、私の作った物語を誰かに読んでもらいたいという気持ちが、まったく無いわけではなかった。会社員を辞めて少し経った時、私はある出版社の新人賞に応募した。審査員に、私の尊敬する作家がいたのが理由だった。もし賞が取れれば、賞金が貰えて、自分の作品が本として出版されるという条件に眼が眩んだのもあった。当時パソコンとプリンターを持っていたので、私は仕事以外はほとんどパソコンのキーを叩いて、小説を書き進めていった。内容は、姉と弟の禁断の関係の話だった。書き終えると、プリントアウトして、出版社へ送った。半年ほど経って、その出版社のホームページを見てみると、私の名前はなかった。受賞したのは、私よりも若い女性で、その新人賞以外にも有名な賞を受賞し、一時期「新鋭の若き女性作家」と話題になった。私の落選を嘲笑うかのように、その後すぐにパソコンとプリンターが壊れた。
それでも、私は書くことをやめられなかった。やめてしまえば、私になにが残ると言うのだろう。小説を書くことは、趣味や気分転換を通り越して、私の堕落した生活の中で、唯一の秩序のようなものになってしまった。書くことによって、今の私を維持することができる。私は、誰にも読まれず、誰にも喜ばれない物語を、これからも一生書き続けるだろう。
今書いている小説は、自分の不注意で恋人を死なせてしまった男と、死んだ恋人の妹との愛憎劇のような物語だ。男は、罪の意識に苛まれながらも、恋人の妹との肉体関係を続ける・・・、ありふれた内容だと自分でも呆れながら、どうせ誰に読ませるわけでもないので、書きたいように書き出した。
切りのいい場面まで書き、私はボールペンを置いた。足が痺れ、肩や首が凝っていて、頭を回すと、バリバリという音がした。今日はこれで終わりにしようと思い、私は歯を磨いた。明日は仕事は休みなので、風呂にも入らず、顔も洗わず、電気を消して、ベッドに横になってタオルケットに身体を包んだ。眼と頭と手を使っていたので、頭が冴えてすぐには寝付けなかったが、やがて眠りの世界に落ちていった。