4章32 万能聖女、宿星のダンジョンへ潜る4
瞬間、生理的な嫌悪にぶるりと体が震え、本能が無条件に拒絶反応を起こし、ぞわわわわっと鳥肌が立つ。
「こ、この音は……まさか」
乃詠の嫌な予感はだいたい当たるのだ。
フロア内は薄暗いが、視界に困るほどではない。油をさし忘れた機械のように、ぎこちなく首を横へ向けると――いた。
音の正体が。違ってほしかった、それが。壁に張りついて、長い触角をピコピコさせた――黒光りする、にっくきアイツがっ!
「なんでダンジョンにゴキがいるのよぉっ――!!」
嫌いな虫の中でもダントツの一位。並ぶものなし。
しかも、だ。そのサイズがヤバい。全長三十センチほどもあるのだ。気持ち悪いにしてもほどがある。
『F+ランクの『ビッグコックローチ』ですね』
名前はそのまま、巨大なゴキだった。
攻撃は噛みつきだけで、特殊なスキルも持たないが、動きが非常に素早く、天井や壁に張りついて移動できるし、低空ではあるが飛ぶ。
低ランクでも、わりと面倒な手合いではあった。
『ちなみにドロップアイテムは『触角』と『翅』で、どちらも薬の材料になるそうです』
『……拾いたくない』
すぐさまコウガがズバンと両断し、排除してくれた。
ついでにドロップアイテムも拾ってくれた。
「うげっ。ニャー、これあんまり好きじゃないにゃん」
と舌を出しながらも、床を這うビッグコックローチの背に短剣の刃を突き立て、息の根を止めるアビー。
騎士隊の中にも苦手な者はけっこういるようで、対応こそしているものの微妙に腰が引けている。
さもありなん。こいつは虫の中でも別格なのだ。
「うぅー……同じ虫でも、これだけは本当に勘弁してほしいわ……」
こんなふうに、本気で泣き言をこぼす乃詠というのも珍しい。
そして、そんな彼女の様子を見た過保護な従魔たちは、その視界にビッグコックローチの姿が入らないよう周りを取り囲んだうえで、接近してくる端から排除していくのだった。
――そんな彼女たちの様子を、背後の岩壁と同化しながら、カイが少しばかり意外な思いで見ていた。
(ノエさん、虫ダメなんだ)
まだ乃詠とは知り合ったばかり。直接、姿を見たのは森での発見時と今、言葉を交わしたのは先の念話が初めてで、それっきりだ。だから、まだ彼女のことはほとんど知らない。
だが、ここまで見てきた印象では、美しく聡明で、優しくて強い、誰もが憧れるような完璧な女性。カイからすれば高嶺の花、雲の上の存在だ。
当然のように怖いものなどなく、苦手なんてものもありはしないと、そう思っていたのだが――違った。
実際には、他にも天然の気があったり鈍いところがあったり嘘が致命的なまでに下手だったりするのだが、カイはまだそこまで知らないのだ。
(……かわいいな)
完璧だと思っていた女性が、雲の上の存在が、魔物ではなく虫という存在に怯えている。それこそ、普通の女の子のように。
そのギャップに、カイはきゅんとなる。
(だからこそ、許せない)
彼女を怖がらせるものなど、存在してはならない。
キリッとした面持ちで戦意を、殺意をみなぎらせ、陰ながらビッグコックローチを狩っていく。
彼女たちの視界に入るよりも早く、気づかれないのをいいことに、それこそアサシンのごとく。
今回はその特性を活かした連絡役で、自分の身を守る以外は戦うなと言われていたのに。
その役割上、体力などは極力、消耗してはいけないから。
けれども、カイは戦う――すべては乃詠のために。
もうすっかり、彼は乃詠に心酔していたのだった。
◇◇◇
「……思ってたのと違うの」
宿星は、スクリーンの映像を呆然と見ながら冷や汗をかいていた。
「速度がヤバすぎるの。やっぱり、このままだとよくないの」
ダンジョン攻略というのは、特に完全未知となれば時間がかかるものだ。
たとえ魔物を瞬殺できたとしても、次層への階段を見つけるのは容易ではない。こんな入り組んだ造りなら、なおのこと。
「銀髪の少女が、指示を出してるの。何か、そういうスキルを持ってるの? すごくズルいの」
おかげで一行は、最短ルートをサクサクと進んでいる。
ダンジョン探索とは思えないスピードだ。
一フロアの踏破に時間がかかれば、とどまる時間が長くなり、出入りも活発になる。その分、生命力を多く得られるという算段だったのだが……
「せめて、ストックが十分に溜まるまでは、上層を探索していてほしいの」
ダンジョンを通して吸収した生命力は、余剰分を溜めておくことができるのだ。
入場者がいない日があったときの、大事な保険である。
開放したばかりの今は、とにかくたくさんの生命力が欲しい。たくさんの人に入ってきてほしい。
「今の段階で、あのひとたちはお呼びじゃないの」
いずれ攻略されるのは仕方がない。一度、攻略されたからといって、探索者がいなくなるわけではない。けれど――それは今ではない。
人を集めるのに最も重要なのは、いわずもがなダンジョンメイキングだ。宿星自身の腕の見せどころとなる。
より魅力のある、潜りたくなるダンジョンに。簡単すぎても難しすぎてもダメ。ルール的なものもあるし、配置する魔物やアイテムの種類、等級と魔力との兼ね合いもある。
ゆえに、宿星はこのダンジョンの難易度を三つに分けた。上層が初級、中層が中級、下層が上級、といった具合だ。
強い魔物や等級の高いアイテムほどコストがかかるし、負担も大きい。もう一度作り直すにも時間がかかる。
上層は低コスト仕様。だからしばらくこのあたりで探索していてほしいのだが、一行にはレベルが低すぎて、まったく意に介していなかった。
「普通の初心者っぽい人たちに、たくさん来てほしいの。少なくともしばらくは、とにかく人数がほしいの」
なので、彼らの妨害をすることにした。
自分のポリシー的にも宿星のルール的にも、あまり褒められたことではないのだが……やむをえまい。
「魔物をけしかけるの。いっぱいの魔物と連戦が続けば、消耗するの。そうなれば、さすがに引き返してくれるはずなの」
完全に魔物を操作することはできないが、ある程度、誘導することはできる。
上層の魔物ならば多少やられても、すぐに作り直すことができるので問題ない。
宿星の瞳に浮かぶ、星型の紋様がキラリと光る。
「――さぁ、魔物たちよ! やつらの行く手を阻むの! あわよくば追い返してしまえ、なの!」
◇◇◇
三層へと下りてきた一行は、相変わらずの天然洞窟然とした通路を、魔物を倒しながら進んで行く――のだが、
「……ちょっと魔物が多すぎやしないかにゃん?」
まさに猫のごときしなやかな体さばき。立て続けに魔物三体を仕留め、ひらりと跳んで隊列へと戻りつつ、アビーは怪訝に眉を寄せる。
「あぁ。ダンジョンにしたって、この会敵の多さは異常というほかない」
一体一体は大したことなくても、数が多ければその分、対処に時間を取られる。
一行の進むスピードは、明らかに落ちていた。
『十中八九、宿星の仕業でしょうね。こちらの目的を把握していて阻止しようとしているのか、他に別の理由があるのかは、定かではありませんが』
事実、〈マップ〉に表示される魔物の反応を見れば一目瞭然だ。
これが異常ではなく平常であるなら、こんなリスクしかないダンジョン、誰も潜ろうとはしないだろう。
「宿星が、配置した魔物を意図的に集めて、ぶつけてきてる?」
『えぇ。そうとしか考えられません』
「ということは……」
乃詠の顔がさっと青ざめる。
そう、フロア中の魔物が一行を目指して集まってきているのだ。
すべての魔物が、おそらくは、例外なく。ならば、当然――……
「っ」
とてつもなく不穏な音が、聞こえる。
一つ二つでは、とてもきかない数の音が。
いくつもいくつも重なって、どんどん増えていく。
ぞぞぞぞぞーっ、と全身の毛が逆立った。
「く、来る、来るわ……奴らがっ!!」
そして通路の奥から現れたのは――ビッグコックローチの大群。
しかも狙ったかのように、前方からだけでなく後方からもやってくるのだ。
床だけでなく、壁や天井をも埋め尽くされ、通路全体が奴らの黒に染まった。
モザイク必須である。
「んにゃにゃあ……!? これはさすがにキモいにゃんっ!?」
アビーがぶわりと尻尾をふくらませ、騎士たちの中からも悲鳴が上がる。
なぜか嫌がらせのようにビッグコックローチしかいないわけだが……ともかく、いくらキモかろうと立ち向かうしかない。
いかに攻撃力が低くとも、あの数に群がられたら、いろんな意味で地獄である。
腹をくくり、ビッグコックローチの大群を迎え撃つ――と、そのときだ。
キンッと澄んだ音が鳴り、突如として出現した虹色の壁に、激突したビッグコックローチたちが弾け飛ぶ。