1章6 万能聖女、デンジャラスな魔物たちの洗礼を受ける1
光の眩さにつむっていた目を開けると、見える景色が変わっていた。
あの潔癖なまでの白い壁はどこにもなく、もちろん歌恋やロレンス皇子、魔導師カルヴィンに神官たち、そして聖騎士たちの姿もない。
「森の中、よね」
ぐるりと四方を見渡してみても、あるのは木々ばかり。しかも、どれもこれも遠近感が狂いそうなくらいに太く大きい。
張り出した根っこや樹皮、でこぼこした地面にごろごろと転がった岩には青緑の苔がびっしりと繁茂し、長く伸びた枝葉が頭上で絡み合って、幾本もの蔦を垂れさせている。
今にもそこかしこから某白き樹木の精霊がひょこりと出てきそうな、とても幻想的で神秘的な雰囲気を持つ森だ。
「まぁ……紫色の霧さえ立ち込めていなければ、だけど」
ただの白い霧だったなら、より神秘さを増していただろう。けれど、薄いヴェールを被せるようにして森を覆うその紫の霧は、景観を台無しにするだけでなく、どこかうすら寒い不気味さを感じさせた。
「とても毒々しい色合いだけれど…………毒霧、とかないわよね?」
たらりと、背筋を汗が伝う。が、すぐに頭を振って嫌な想像を追い出し、乃詠はまず状況を整理することから始めた。
「カルヴィンさんが投げてきた、あの青い水晶――あれが対象を強制転移させるアイテムで、私はあの広間からどこぞの森の中へと転移させられた、ってところかしら」
幸い、そういった方面の知識には明るい。ほとんど謡の影響だが、ネットやVR問わずRPG系のゲームもけっこうやっていたし、その手のラノベも相当な数を読破している。
だからこそ乃詠は、召喚されてすぐに状況をある程度は理解できたし、それなりに冷静でいられたのだ。
「世の中、何が役に立つかわからないものね」
ハイスペ令嬢さまさまである。
今ごろは、無事に廃倉庫から脱して家に帰り着いているだろう親友に、乃詠は心からの感謝を捧げた。
しかしまぁ、そんな創作系の知識が実用的に役立つ日などこないほうが、もちろん望ましかったわけなのだが。
「彼らは悪魔を相当な脅威と見なして、戦って排除することよりも遠ざけることを選んだ。大方、時間稼ぎでしょうね。あの場にあった戦力での対処は難しかった。けれど一度遠ざけてしまえば、仮に悪魔が戻ってきたとしても十分な戦力を整える猶予が生まれる」
そう考えれば、おそらくここは、ファライエ聖皇国からそれなりに距離があるはずだ。
「あのアイテムで、どの程度の距離を飛ばせるのかはわからないけど……少なくとも追手の心配はいらなそうね」
悪魔という存在が得体の知れない脅威と見なされていたことは、乃詠にとって幸いだったといえる。
数人とはいえ、完全武装した騎士を相手に逃げきれる自信はほとんどなかったから。彼らが強制転移を選択してくれたことには、むしろ感謝してもいいくらいだ。
……まぁ、転移先の環境には大いに物申したいけれど。
それ以前の話、誤解を解く機会を与えてくれなかったことに対して、盛大に恨み言をこぼしたくもあるけれど。
「あとのことはひとまず置いといて、今は森から出ることに注力しましょう」
誰にともなく言って乃詠は歩き出す。
――その足取りは、走るまではいかずとも忙しない。まるで、何かに追い立てられているかのようだった。
なかば無意識、あるいは本能か。
ただでさえ異世界の、得体の知れない森だ。たとえ普通の森であっても危険なことに変わりはないので、さっさと出てしまうに越したことはないのだが……
「なんか、ものすごく嫌な感じがするのよね」
ここへ来てからずっと、妙な胸のざわつきが止まない。それが、一度は振り払った不吉な予感を呼び起こさんとするのだ。さらには、頭の奥でしきりと警鐘が鳴り響いている気さえする。――早くこの森から出ろ、と。
胸の内に広がっていく不安や焦燥にはあえて気づかないふりをして、乃詠は黙々と足を動かし続ける。
しかし――
「ぇっ、」
――最悪な想像は、現実のものとなるのだ。
突然、見えていた世界がぐにゃりと歪み、平衡感覚を失った体が傾く。とっさに足に力を入れて踏みしめるも、なぜか思うように力が入らず――くずおれるようにして乃詠は地面に膝をついた。
それでも体勢を維持できず、両腕もついてなんとか体を支えながら――ふいに喉からせり上がってきた熱いものを、せき止める余地もなく地面にぶちまける。
(な、に……)
呆然と見下ろす先にあるのは――真っ赤な血だまりで。
どうにも現実味がなく、他人事のように眺めていたそれが、自分の体内から出てきたものだということをようやく脳が認識したとき、今度はすさまじい頭痛に見舞われた。
頭蓋を直接殴打されているかのような尋常ではない激痛が、容赦の欠片もなく乃詠を襲い続ける。
「ぐっ……ぅあ……っ……!」
悲鳴にもならない呻き声が、噛みしめた歯の隙間からこぼれる。
両手で頭を押さえつけるが、当然それで頭痛が治まることはなく――殴打じみた痛みに加え、脳を圧迫されながら激しくシェイクされているかのようで、嘔吐も止まらない。
口から吐き出されるのは、やはり胃液の交じった血だ。
うずくまっていることすらできず、ついにはその場に倒れ込む。
頭を抱え込み、体を丸めて痛みに耐えながら、口からは何度も吐血を繰り返す。
さらには目の奥が膨張したように激しく痛み、視界が真っ赤に染まって、涙とは別の生温かいものが頬を伝い落ちていく。鼻と耳からも同じ感触があった。
もはや思考さえ覚束ない中で、それでも乃詠は確信する。
(……わ、たし、盛大に、フラグ立ててた……これ、この霧、絶対、毒だっ……)
そうでなければ、ここまで体調が急変するなど考えられない。目口から、耳鼻から血を垂れ流す事態になどなりえない。
森に漂ういかにも毒々しい紫色の霧はまさしく毒であり、そうと知らずこの短時間でも呼吸とともに相当量を体内に入れてしまったから、乃詠は今、壮絶な苦しみを味わわされている。
(嘘、でしょ……この、森……殺意、高すぎ……というか、殺意しかない……っ)
今度は心臓がぎゅっと絞られるような痛みが走り、呼吸が浅くなる。
息が上手く吸えなくて、酸素を取り込もうと必死に口を開閉させるが、やはり上手くいかず、苦しくて、苦しくて、苦しい――。
「っ……ぅあ、ぐぅぅぅ……っ」
口の端を血泡で汚し、呼吸困難の苦しみに喘ぐ中、追い打ちとばかりに全身が熱くなる。体中を巡る血管に、煮えたぎるマグマでも流し込まれたみたいだ。
熱いうえに、痛い。全身を絶えず切り刻まれ、その傷口ひとつひとつに塩か唐辛子でも塗り込まれているかのように。
だというのに氷点下の中にいるような寒気もあって、歯の根が合わずにガチガチと音を立てた。
とにかく熱くて、とにかく寒くて、とにかく痛くて――
耐えかねて己をかき毟りかき抱きたくても、腕はびくびくと震えるばかりでまったく言うことをきかないのだ。
(……い、たいっ……くる、しいっ……あついっ……さむ、いっ……)
視覚は像を結ばず、赤と白と黒で明滅を繰り返し、聴覚はひどい耳鳴りを流すばかりで一切の機能を放棄している。
のたうち回りたくても体の自由は利かず、だというのに痛覚ばかりが忌々しいほどに正常で――まさしく拷問だ。
意識が混濁し、世界がぐちゃぐちゃになる。苦痛によるものとは別に、少しずつ正気が削られていくような感覚があった。
自分という存在が他の何かに塗り替えられていくような――そんな、恐ろしくておぞましい感覚が。
(……こ、れっ、……や、ばっ……)
しかしそれも、永遠に続くものではない。
顔中の穴から血を垂れ流しながら凄絶な苦痛に悶える乃詠の、徐々に冥暗へと近づいていく脳裏に、はっきりと〝死〟の一文字が浮かび上がる。
その瞬間――心が、魂が、確かに『死にたくない』と絶叫した。
それと同じくらいに『死んで楽になりたい』という本音もあった。
相反する二つの望みを抱えたまま――ついには呼吸が完全に止まり、辛うじて保っていた意識が急速に遠のいていく。
自分がなくなる。存在が消える。決して逃れられない〝死〟が、ひたひたと歩み寄ってくるどころか猛ダッシュで距離を詰めてくる。
早く来てくれ――と願う自分がいた。
こっちへ来るな――と拒絶する自分もいる。
しかし、どれだけ拒絶したところで未来が変わらないということも、どうしようもなく理解していて――そして。
(……あ、……)
それは、意識が完全に途絶える寸前のこと。
薄れゆく意識の中に、不思議な光を見た。
か細くも眩く、強くとも暖かな光を……
――スキル〈精神耐性Lv5〉を獲得しました。
――熟練度が一定に達しました。スキル〈精神耐性Lv5〉が〈精神耐性Lv8〉にレベルアップしました。
――スキル〈苦痛耐性Lv5〉を獲得しました。
――熟練度が一定に達しました。スキル〈苦痛耐性Lv5〉が〈苦痛耐性Lv8〉にレベルアップしました。
――スキル〈瘴気耐性Lv5〉を獲得しました。
――熟練度が一定に達しました。スキル〈瘴気耐性Lv5〉が〈瘴気耐性Lv10〉にレベルアップしました。
――スキル〈瘴気耐性Lv10〉が〈瘴気無効〉にランクアップしました。
――スキル〈自動発動〉を獲得しました。
――生命維持機能の低下を確認しました。スキル〈自動発動〉により、スキル〈浄化Lv5〉とスキル〈聖治癒Lv5〉を発動します。
そんな無機質な声が脳内に次々と流れ、途端に苦痛が和らいでいく。
そして最後の文言が響いたあとには――熱さも寒さも痛みも、何もかもが完全に消え去っていた。