4章46 万能聖女、邪毒竜ファフニールに挑む10
「……はぁ……はぁ……」
肩で息をする乃詠の前で、ファフニールがくたりと長い首を伏せている。
先までの激闘が嘘のように、石造りの大広間には各々の呼吸音が響くばかり。
ファフニールはもう動けない。ステータスを見ればMPは完全に尽き、HPも残りわずか――虫の息だ。あと一撃入れれば、確実にゼロになるだろう。
「…………」
身じろぎ一つできないファフニールを、乃詠は両手に剣を提げながら、どこか悩まし気な表情で見つめていた。
その視界へずいっと、大きな巨体が割り込んでくる。
「とどめはオレにやらせてもらうぞ」
ついさっきまで立っているのもやっとといった疲労困憊ぶりを見せていたコウガだが、前に出た彼の足取りはしっかりしたものだ。よほどこの瞬間を待ちわびていたのだろう。
コウガは手元の大刀を一度大きく回したあとで、その熱くも冷たい光を放つ刃をファフニールへと突きつける。
「――待って、コウガ」
いよいよもってダンジョンボスへとどめを刺すべく大刀を振り上げたコウガを、しかし乃詠の、どこか縋るような声が止めた。
「……んだよ。いくらおまえでも、ここは譲れねーぞ」
「違うの。お願い、武器を下ろして」
「は……? なに言ってんだ、おまえ」
わけがわからない、とコウガは眉をしかめる。
ダンジョンボスの討伐こそが乃詠たちの目的だったはずだ。
災魔を討たなければ、ダンジョンは消えない。ダンジョンが消えなければ、そこで生まれた魔物が解放されることもない。だというのに、とどめを刺すなとはいったいどういうことなのか――と。
「ごめんなさい、コウガ。あなたの境遇を、ファフニールを恨む気持ちを知っていて、それでも私は、あなたに〝彼を殺さないで〟とお願いするわ」
「だから、意味がわかんねーんだよ。ちゃんと説明しろ」
「この子は、生きたまま解放する」
「……はぁ?」
混乱を極めた様子のコウガへ、そして他の面々へと向け、乃詠はファフニールを殺したくない理由を説明する。
実のところ――この部屋に入ったその瞬間から、乃詠にはずっと〝声〟が聞こえていたのだ。
――死ネ。死ネ。死ネ。死ネ。人ナンテ、ミンナ死ンデシマエ。
――もう、殺してくれ……誰でもいい、誰か、おれを……殺して。
そんな相反する二つの言葉が、頭の中に直接、小さくもずっと響いていた。
最初は妙な幻聴だと思った。しかし声が止むことはなく、そしてファフニールと戦っているうちに、それが決して幻聴などではなく、対峙しているファフニールから発されているものだと確信できた。
「今も聞こえているわ。弱々しくなってはいるけれど、ここに入ったときよりも鮮明に」
「声、ですか……残念ながら、僕には聞き取れませんね」
「あっしにも聞こえやせんねぃ」
誰も指摘していなかったからそうじゃないかと思っていたが、どうやら声が聞こえているのは乃詠だけらしい。それがなぜかはわからないけれど、理由など今はどうでもいいことだ。
「ファフニールの中には二つの意識がある。詳しいことはわからないけど、もしかしたら、彼が災魔となって封印されたのには何か理由が――原因があるのかもしれない。私には、そう思えてならないの」
殺してくれと懇願する片方の意識のことが、乃詠にはどうしても気になって仕方がないのだ。
おそらく肉体の主導権を持っていたのは、呪詛を繰り返す前者。しかし本当のファフニールは、ひたすら死を願う後者なのではないか。
彼はきっと、人を殺したくて殺したのではない。災魔にならんとしてなったわけではない。ただの憶測にすぎないけれど……そんな気がする。
「だとしても、どうするんですかぃ? 災魔の封印は神が施したもの。常識的に考えて、それを解くなんていくら姐さんでも不可能じゃねぇかと思うんですが」
リオンの言うとおりだ。解放すると言うのは簡単だが、現実には実行不可能。超越存在の施した封印術なんて、ただの人がどうこうできる代物ではない。
しかし乃詠は一つだけ、それを可能とするかもしれない手段を持っていた。
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◇固有スキル〈救済〉
他者の救済にのみ効果を発揮し、使用者の想いの強さに応じて奇跡を起こす。
起こる奇跡に明確な際限はないが、必ずしも奇跡が起きるわけではない。
実現する最低確率は5%。救済への想いの強さによって確率は変動する。
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「なんだよそのスキル。いくらなんでも反則すぎやしねーか?」
「姐さんって、やっぱり聖女様じゃなくて女神様なんじゃないっスか?」
「――ワンちゃん?」
「ご、ごめんなさいっス!」
この固有スキル〈救済〉のミソは、起こる奇跡に際限がないという点。
これならあるいは、神々の施した術にも干渉してのけるかもしれない。
神は超越存在だが、スキルとは別の理にあるとナビィが言っていた。
要するに、スキルを人々に与えているのは神ではないということ。
ただし、例外もある。聖女の固有スキルと、勇者の固有スキルだ。これだけは神が創造したものらしい。
だが、〈救済〉は聖女スキルではない。神が作ったスキルではない。
ならば――ファフニールを封印から解放できる可能性は十分にある。
「このスキルで奇跡を起こして、ファフニールを生かしたまま解放する」
奇跡が起こる確率は、決して高くはない。すべては、彼を救いたいという乃詠の想いの強さに懸かっている。
「だが、仮におまえの推測どおりだったとしても、こいつは今、正気じゃねーんだろ? 封印から解放できたところで、結局は殺すことになるんじゃねーのか」
そう、ファフニールを救うためには、その内に巣食っていると思しきナニカをどうにかしなければならないのだ。封印を解いて終わり、ではない。
「そうね……そこもなんとかしてみせるわ!」
「なんとかって、おまえ……適当すぎんだろ」
はぁと疲れたように息を吐き出し、コウガはがしがしと乱暴に頭をかく。
「あぁもう、好きにしやがれ。確かにこいつのことは憎いが、別に何がなんでも殺してやりてーってほどじゃねーし……どうなってもオレは知らねーからな」
「えぇ、わかってるわ」
だが、と。横目にだが、真剣な双眸が乃詠を見据える。
「もしおまえが危なくなれば、そんときゃ問答無用で殺す」
相変わらずのツンデレっぷりに、ふふっとつい笑みこぼれてしまう。
「言ってることが矛盾してるわよ。知らないって言っておきながら、何かあれば助けてくれるなんて」
「……るせぇ。おまえみたいのでも、死なれちゃ寝覚めが悪ぃんだよ」
素直なのか、素直じゃないのか。本当に天邪鬼だけれど、心配してくれているのは間違いない。それはとてもありがたいことで、嬉しいことだ。
「なんかごめんなさいね。振り回しちゃって」
「自覚があんなら、もっと常識的に行動しろ」
「あなたに常識を説かれるのは釈然としないわね」
「あぁ? どういう意味だよ」
それには答えず、乃詠は目を細めた。
「ありがとう、コウガ。みんなも」
見守ってくれている仮従魔たちとひとりひとり視線を合わせ、感謝を告げたあとで背を向ける。
そうしてあらためてファフニールと向き合い、胸の前で両手を組むと、乃詠は祈るように目を閉じた。
その姿は、まさしく聖女のそれで。
(どうか、彼に救いを。――〈救済〉)
直後、意識がふわりと、現実を離れる感覚があった。
◇◇◇
――彼はただの、毒竜という種の魔物だった。
争いを好まず、山奥でひっそりと暮らしていた母竜が腹を痛めて産み落とし、卵の殻を割って太陽の祝福を受けた、ただの毒竜の子。
『無事に生まれてきてくれてありがとう、わたしの可愛い坊や』
母に生誕を喜ばれ、寄せられた鼻先はひどく温かで。それに自身の鼻先をこすり合わせれば、穏やかな感情が胸に広がっていった。
◆
(……いやだ、いやだよ……おかあさんっ……)
泣いている。ひとりぼっちになってしまった、幼い竜が。
人に殺された母竜の亡骸に縋りつくことさえ許されずに。
小さな穴倉の中で身を丸め、来る日も来る日も泣き続けている。
(……おれを、おいていかないで……おれを、ひとりにしないで……)
彼はまだ生まれて間もない幼竜で、母は愛する我が子を守らんとしてその穴倉に彼を隠した。そうして人と戦い、命を散らす。
彼は幼く、弱かった。だから、守られるだけで、見ているだけで、何もできずに大好きな母を失ってしまった。
けれども彼は、弱い自分を恨んでも、母を殺した人々を恨むことはなかった。
なぜなら、この世界が弱肉強食だということを本能で知っていたから。
力の弱い者は力の強い者に淘汰される。ただそれだけのこと。
母は弱かったから殺された。彼は弱かったから母を守れなかった。ただ、それだけのことなのだ……。
◆
(……もう、やめてくれ! ……もう、いやだっ……!)
ひとりぼっちになって、行くあてもなく森をさまよっていた彼は、ある日、人に捕まってしまった。
やはり彼は弱くて。抵抗らしい抵抗もできずに。
彼が連れていかれた先は、とある研究施設だった。
その施設では、スキルによらない魔物の支配術の模索や、魔物と人の交配、魔物の強化実験などが行われているようだった。
彼はそこで、残酷非道な実験のモルモットにされた。
(……痛い……苦しい……痛い……っ)
口にするにもおぞましい実験の数々。絶え間なく与えられる苦痛に、彼は身も心も削られていく。なまじ知能が高く知性のある魔物だったから、余計に彼の精神は蝕まれていった。
(……なんで、おればっかり、こんな目に……人が、おれを……母さんも、人に殺されて……全部、全部……人のせいだ……おれは、人が……憎い)
そこで彼は、はっと我に返る。
(……おれは、いま、なにを…………人が、憎い……?)
いや、まさか、と彼は首を振る。
人は、確かに母を殺した。人は、こんなにも理不尽な苦痛を自分に与えている。
けれどもそれは、ただ自分が弱かっただけのこと。憎むべきは人ではなく、弱い自分自身だ。……その、はずだ。
『――憎いのか。ならば、人など皆殺しにしてしまえばいい』
ふいに誰かの声が聞こえ――直後、ニヤリと嗤ったナニカが、彼の思考を、精神を、瞬く間に呑み込んでいった。
抗う余地もなく、また抗うすべも彼にはなかった。