4章43 万能聖女、邪毒竜ファフニールに挑む7
乃詠はファフニールを幾度も斬りつける――もちろんファフニールとて無抵抗に斬られているわけではない。爪や尾を振るい、時には魔法を飛ばす。
乃詠の速度にも、ファフニールは徐々に慣れつつあるようだった。攻撃は当たらずとも、瘴気鎧の物質化は少しずつ追いついてきている。瘴気鎧で防がれればダメージ量は減る。
だが、
「――〈魔纏・紅炎〉」
そう、乃詠は一人ではないのだ。
同じく属性付与の魔力による強化スキルを発動させたコウガが、ファフニールの背後から肉薄し、紅炎を噴き上げながら大刀を振り上げる。
「――〈陽焔斬〉」
内部から赤熱し、朱色の輝きを放つ刃が、瘴気鎧のない竜鱗をバターのように溶解させ、肉を、筋を断ち、後ろ肢を半ばまで斬り裂いたのだった。
ファフニールから苦痛の雄叫びが上がる。
にわかにバランスが崩れるが、しかしその傷も即座に再生し始め、膝をつくまでには至らない。
首を巡らせたファフニールが怒りに燃えた視線をコウガへと向けるも、乃詠の武器スキルが発動中なので彼への攻撃はできない――が、防御はできる。
コウガには特に速度の恩恵はない。己よりも劣る速さなら、ファフニールの〈気配感知〉で感知可能。瘴気鎧の物質化も十分に間に合う。
しかし――腕力強化したうえでの神創武器スキル〈陽焔斬〉は、瘴気鎧などものともせず、多少威力は削がれてしまうものの、問題なく鱗も肉も断ち斬れる。
『スキルの効果が切れるわ! コウガ、気をつけて!』
『あぁ!』
忠告を飛ばした直後に重力的な縛りが解け、自由になったファフニールが大きく身を回す。
しなる尾を回避するためにコウガは後方へと跳び、スキルの反動による肉体能力の低下で乃詠もいったん距離を取る。
咆哮――開かれたあぎとから濃密な毒霧が吐き出され、視界が塞がれた。
視界の利かないコウガは警戒して身構え、即座に〈透視〉を発動させた乃詠はファフニールの姿を追いながら〈風魔法〉で毒霧を払う。
『――上よ』
振り仰いだそこには、天井に張りつく巨体があった。
(戦い初めてから、ファフニールはほとんど動いていなかった。これほど大きく動いたのは、これが初めて)
次元のシフト、と表現しても決して過剰ではないだろう。
特定の条件下――大抵はHPゲージが一定を割ると強くなったり、攻撃パターンが変化するゲームのボスのように――ファフニールの纏う空気が一変したのがありありと感じ取れた。
(まぁ、あの程度だなんて最初から思ってはいなかったけど)
ファフニールは乃詠たちを侮っていた。それはおそらく――いや間違いなく、これまでの挑戦者と相対した経験によるものだ。
さしもの物知りナビィさんも、これまでの挑戦者の情報は持ち得なかったが、このダンジョンが創られてから千年近く経っているのだ。
当時は敵う者がいなかったとしても、千年もあればSランク魔物と相対できるだけの強者も生まれるだろう。過酷な試練を乗り越え、ダンジョンボスのもとへたどり着いた猛者がコウガの他にもいたはずだ。
しかし過去の挑戦者のことごとくが手も足も出ず、先と同等の攻防であえなくやられてしまったのなら、今回もまた同じだと思うだろう。
無駄な労力を使う必要はなく、毒ブレスで、闇魔法で、爪撃や尾撃で、相手は無様に踊り、呆気なく倒れる――これまでがそうであったなら、その傲慢さも侮りも当然のものと言える。
だが――違った。今回の挑戦者はこれまでの弱者とは違う。明確な脅威だとファフニールは断じ、侮るのをやめた。本気で、全力で、目の前の矮小な人間と魔物どもを叩き潰す――。
「グルルルル…………」
低く唸り、頭上からこちらを見下ろす赤目からは、先ほどまでは確かにあった余裕や侮りの色が消えていて。
(ここからが本番、ね)
そう――ついにファフニールが本気になったのだ。
◇◇◇
Sランク中位の魔物の本領発揮とばかり――本気になったファフニールは、すさまじいの一言に尽きた。
ファフニールは翼を持たないタイプの竜である。しかし、その代わりとばかりに途轍もない跳躍力を有していた。
そのうえで壁や天井に張りつき、それこそ蜥蜴のように縦横無尽に這って歩くのだ。――いや、這って走る。それも、かなりの速度で。
この空間は縦横およそ三百メートル、天井は五十メートルはある。体長二十メートルという巨体で五十メートルも跳ばれれば、それはもはや飛んでいるのと大して変わらない。
滞空や飛行という点では、代用となる天井がある。地面から天井へと張りつき、天井を這って走り再び地面へ。地面を移動したかと思えば壁に、また天井へ、そして地上へと――まるで跳弾だ。
移動速度もまた銃弾のごとし。巨体に見合わぬ挙動。その機敏かつ予測不能の動きにはついていくだけでも一苦労だった。
乃詠はともかく、コウガの敏捷値はだいぶ不足しているが、ギリギリついていけている。
彼は自他ともに認める戦闘狂だが、一方で強さを求める求道の修羅。その根幹にあるのは――負けず嫌いだ。
〈身体強化〉と〈魔纏・紅炎〉による肉体強化に加え、その負けん気でリミッターを外し、潜在力を解放することでファフニールに食らいついている。
こと戦闘に関しては、畏敬の念を禁じ得ない。
『ガァァッ――――!!』
壁に張りついたファフニールの開かれた口腔から、収束された闇の波動が迸り、首の動きとともに上下左右に空間を薙ぐ。
〈闇魔法〉の『ダークブレス』――吐息というよりレーザーのごとく一直線に突き進んでくるそれを、乃詠とコウガはそれぞれに回避。
禍々しい闇のレーザーは石床を盛大に抉り取っていくが、この空間は特殊な仕様になっているらしく、ほどなくして何事もなかったかのように修復された。
『ダークブレス』の威力が徐々に減退し、やがて終息する。
敵にダメージは一切なく、無駄撃ちに終わったことが不満なのだろう――舌打ちの代わりに短く喉を鳴らしつつも、口を閉じたファフニールは四肢をたわめ、壁から天井へと跳び移り、再び跳弾のような機動で二人を翻弄する。
――現在、ファフニールと戦っているのは、乃詠とコウガのみ。
リオンとアークはすでに戦闘から離脱し、ギウスとベガとともに堅牢仕様の聖結界の中にいる。
リオンとアークには、もとより無理はしないようにと言い含めてあり、〝聖結界スーツ〟が破壊された時点で下がることを約束させていた。
それが彼らの意思と意欲を汲んだうえでの、乃詠が妥協できる最低ライン。彼らとて無茶を言っている自覚があるため、二つ返事でその条件を呑んだ。
そして二人は〝聖結界スーツ〟が破壊されたから離脱したわけだが、彼らがろくに防御もできず攻撃を食らったのは、ファフニールが本気モードへ移行した直後のこと。
幸い二人の〝聖結界スーツ〟の強度は高めにしていたため、即死という大事には至らなかったが、直撃を受けた瞬間はヒヤリとしたものだ。
HPもゲームならばレッド寄りのイエローゾーンで、乃詠が即座に回復、回収して聖結界の中へと運んだ。
仮にそれがなかったとしても、今のファフニールを相手にするのは、二人のステータスでは無謀がすぎるもすぎる。乃詠たちでさえ、苦戦とまでは言わずとも相当に苦労しているのだから。
けれど、彼らはよく戦った。よくやった。上から目線にはなってしまうが、乃詠は彼らを心の底から称賛する。
絶望的なステータス差がありながら、神創武装という絶大な力があったにせよ、彼らは強大な敵へと果敢に立ち向かい、彼らの力だけでその尻尾を切断してみせたのだ。
それだけでも、彼らのダンジョン攻略における貢献は十分以上。胸を張って誇るべき戦功だ。
だからこそ余計に負けるわけにはいかないと、乃詠は戦意を滾らせる。
もとより負けるつもりは毛頭ないが、彼らの頑張りを、彼らにとっての偉業を無駄にはできない。してはならない。
とはいえ、本気モードへと以降したファフニールは本当に厄介だった。
機動力や速さもさることながら、根本的な問題として――五十メートルもある天井に張りつかれてしまえば、いかにこの世界がファンタジーでもジャンプでは届かない。
まぁ、それでも強化すれば二十メートル近くは飛べるのだから、この世界の法則はいろいろとおかしい。
だがそれでも乃詠たちは、苦労はしていてもちゃんと戦えている。
魔法による遠距離攻撃も用いているが、近接でも――だ。
現在進行形で天井に張りつき、絨毯爆撃のごとく『ダークスフィア』を乱射してくるファフニール。
同じ〈闇魔法〉でも『ダークスフィア』を頻繁に使ってくるのは、コスト的にも使い勝手がいいからだろう。
殺到する闇球を、コウガは空中にてひらりひらりと最低限の動きで躱し、さらに一歩、二歩と上方へ踏み込んで大刀を振るう。
空中機動のすべを持たない彼が、なぜ空中で動けているのか――それは適時、宙空に展開される小さな虹色の板を足場としているからだ。
その虹色の板の正体は――〈聖結界〉である。