3章34 万能聖女、ダンジョン攻略に乗り出す9
二つ目の『試練の間』は、古代遺跡風の建物だった一つ目と異なり、周囲を円状に五メートルほどの岩壁に囲まれた窪地だった。
森の中にあって、木々どころか草の一本すら生えていない荒地で、随所に盛り上がった地面――小さな火山のような噴出孔からは、瘴気と似て非なる赤紫色のガスが一定間隔で噴き出している。
そして多方、ボコボコと気泡を弾けさせる、毒々しい色合いと粘り気を持つ水溜まり――否、毒溜まり。
「……これ、ヤバくない? どう見ても、瘴気とは別の毒ガスよね。私いやよ、もう。あんな苦しみを味わうのは」
当時の記憶はいまだ鮮明で、目の前の光景を見れば嫌でも思い起こされる。
無効スキルによって瘴気は問題ないが、他の毒は別。それは魔物である仲間たちも同様だ。
全員〈毒耐性〉スキルを持ってはいるが、無効でない以上、安心など微塵もできない。
『大丈夫ですよ。毒ガスも毒溜まりも、さほど強力なものではありません。皆様の耐性レベルで十分に防げます』
「本当に、本当?」
『えぇ。本当です』
「信じてるわよ、ナビィ」
しつこく確認を取ってなお、乃詠の不安が完全に消えることはない。
相棒への信頼は本物だが……それはそれ、これはこれなのだ。
「うへぇ……ほんと毒だらけっスねぇ。こんなところにいるんだから、試練ボスは間違いなく毒属性の魔物っスよね」
「だなぁ。じゃなきゃ、こんな場所にずっと居らんねぇだろぃ」
「B+ランク以上の毒属性魔物ですか……それだけで厄介ですね」
アーク、リオン、ギウスが一様に顔をしかめながら所感を口にする。
意外だったのがコウガだ。同格か自分以上の強者と戦えるのだから、てっきり好戦的に笑っているのだろうと思ったが――しかし実際には、その真逆。
彼もまた、ひどく苦々しい表情をしていた。
「コウガ、どうしたの?」
「……思い当たる魔物がいる」
「それって?」
三度の飯より闘争が好きだろうバトルジャンキーたる彼にそんな顔をさせるくらいなのだ。現時点で予想される毒属性という以上に厄介な手合いか、相当に相性の悪い手合いか、はたまたその両方か――
「ヴェノムスライムだ」
果たして、コウガの予想は見事に的中する。
ミニ毒池やミニ毒ガス火山を避けながら窪地へと踏み込んだ一行を待ち受けていたのは――いかにも猛毒ですとばかりの濃紫色をした、超巨大スライムだった。
即座に鑑定――種族ランクはA、レベルは62。
ナビィいわく、能力値はAランクとして順当な高さだという。
すなわち、称号効果に成長補正があるコウガには劣る。
けれどもこの際、細かいステータスなどあまり関係がない。
なにせ、存在そのものが厄介きわまりない手合いなのだ。
『スライム種は、総じて『物理攻撃無効』の特性を持っています。加え、ヴェノムスライムの肉体は猛毒そのもの。ノエ様の耐性レベルをもってしても、防ぐことはできません。スライム種の弱点は火属性ですが、ヴェノムスライムの場合、生半可な火属性攻撃だと、むしろ逆効果となります』
なんでもヴェノムスライムは、火による攻撃を察知すると可燃性の毒ガスを放出するらしい。
大爆発して大惨事だ。それで被害を被るのはこちらだけで、当人は被害皆無というオマケ付きである。
コウガの苦い顔にも納得だ。こんなもの、相性以前の問題である。
それこそ、有効打を与えられるのは、膨大なMPと高レベルの〈火魔法〉スキルを持つ魔導士くらいのものだろう。
この中で唯一〈火魔法〉を所持している乃詠も、残念ながら〝生半可な〟火力の魔法しか使えない。
そうこうしているうちに、こちらの存在を認識したヴェノムスライムが攻撃を仕掛けてくる。
粘液状の肉体を幾本もの触手と化し、鞭のように打ちつけるという至極単純な攻撃だが――それが触れた石が『ジュゥッ』と溶解するさまを見れば、掠らせることさえ致命となりかねない凶悪な攻撃だ。
とはいえ、
「聖結界を張っていれば、避ける必要もないわけだけど」
野営にて大活躍の〝どこでも安全地帯〟はここでも有効だ。
バシバシとヴェノムスライムの触手がドーム状の壁をしきりに叩くが、いずれも弾かれている。
だが……思ったよりもMPがもっていかれていることに、乃詠は眉をしかめた。それだけ触手の与えるダメージが大きいということだ。
MPとて有限。回復手段は、自然回復と数本の『魔復薬』のみ。
称号効果のある乃詠のMP回復速度は通常より速いが、それでもわずかに消費量のほうが多いようだった。
それに何より――攻撃を防げるだけでは意味がない。
ヴェノムスライムは人の言語を解さない、ある意味で真っ当な魔物だ。コウガのときのように仲間へ引き込むという手段も使えない。
(味方になってくれたら、ものすごく頼もしいのだけどね)
惜しさも一入だが、言っても仕方がない。
「スライムといったら、やっぱ核の破壊っスか?」
「通常のスライムならそれが妥当なんですけどね……」
そう言葉尻を濁すギウスが、あえて明言せずとも自明だ。
天辺の丸い山のような形状をしたヴェノムスライムは、十メートル離れた距離からでも見上げるほどの巨体で、おまけに色も色。体内のどこに核があるのか把握することすら困難であり、さらには核の位置は自由に動かせるらしい。
そして仮に核を捉えることができても、外からの攻撃は粘度の高い肉体に阻まれてしまう。それこそ、体内へと飛び込み、核のもとまで粘液の中を泳いで、直接攻撃を加えるしかないだろう。飛び込んだ瞬間、骨になりそうだ。
「……んとに悪趣味なクソ蜥蜴だぜ」
「悪趣味にもほどがあるわよ。こんなの、試練にしてもすぎるわ。倒しようがないじゃないの」
コウガが邪毒竜によって試練ボスにされたということは、このヴェノムスライムを試練ボスに配置したのも邪毒竜ということになるが――人選、もとい魔物選が間違っているとしか思えない。
乃詠が〈聖結界〉スキルを持っているからこそ対峙自体はできているが、そうでなければ近づくことすら不可能なのだ。
もはや、ダンジョンを攻略するための中間試練としての域を超えている。奴こそがラスボスだろう。
(幸い、MPさえ注ぎ足せば結界が破られることはないし、当分は枯渇することもない。でも、動けないのが難点なのよね。まぁ、仮に動けたとしても、攻撃の手段がない以上は――……)
そこで、天啓が下りた。
「……こんな単純なことに、なんで今まで気づかなかったのかしら」
「姐さん? どうしやした? まさか、MPがもう……?」
自分の馬鹿さ加減に呆れ、思わずと項垂れてしまった乃詠を見て、呟きのほうは聞こえなかったらしいリオンがMPの枯渇を危惧する。
はっとして顔を上げた乃詠は、リオンだけでなく不安げな様子でこちらをうかがってくる全員に「魔力はまだ大丈夫よ」と告げたあとで、にっといたずらっぽく笑んでみせた。
「私、ちょっといいことを思いついちゃったの。みんなはここにいて。結界の中にいれば絶対に安全だから。それじゃあ行ってきます!」
言葉を差し挟む余地もなく、威勢よく言って結界から飛び出していく乃詠。
ヴェノムスライムに向かって真正面から突っ込んでいく少女の背を、なびく銀色の髪を、誰もが呆気に取られて見送り――数瞬、遅れて動き出す。
「え、なっ――姐さんんんっ!?」
「おいちょっと待て!! なに考えてやがんだ!?」
「嘘っスよね!? いくら姐さんでも死んじゃうっスよ!!」
「お姉さま! ダメです! お姉さまぁぁっ!!」
自殺しにいくとしか思えない無謀な特攻。頭がおかしくなったのかと思われても仕方のない暴挙。当然、仲間たちは仰天し、口々に制止の声を上げる。
だが乃詠は止まらない。走りながら迫りくる触手をかいくぐり――そして、いよいよ本体はすぐ目前。
するとヴェノムスライムは触手による攻撃を止め、巨大な粘体をぐにょりと大きく広げて、まるで津波のようなそれが――呆気なく乃詠を飲み込んだ。