3章29 万能聖女、ダンジョン攻略に乗り出す4
――と、後ろがそんな風になっているなど露知らない乃詠は、借り受けた刀を鞘から抜き、正眼に構える。
言うまでもなく、元の世界では武器を持ち歩けない。ゆえに実用という観点から乃詠は格闘をメインでやっていたが、実のところ剣術――剣道も、謡に付き合うかたちで嗜み程度には修めている。
とはいえ、所詮は基礎に毛が生えたレベル。そんなお粗末な剣術など、達人級の手合いには子供の児戯だろう。
それならむしろ、剣など持たず、格闘術でどうにかするほうが、よほど勝算があるというものだ。
けれど、それでも乃詠が、刀を貸してくれたリオンに愛を叫ぶほど感極まってしまったのは――【万能聖女】への信頼があったから。
――スキル〈剣術Lv5〉を獲得しました。
(そうくると思っていたわ! 称号さんも愛してるわよ!)
そう言った瞬間、ほのかに胸のあたりが暖かくなった気がした。
さすがにスキルの習得まで見越したわけではなかろうが――こちらの準備が整うのを待っていましたとばかり、乃詠が刀を構えてから一拍置いて、アシュラオーガが床を蹴る。
巨体に見合わぬ、静かで滑らかな突貫。体の軸にぶれがなく、肉体運動の一切にも無駄がないがゆえだろう。
それに合わせ、乃詠も前に出た。
今度は刃と刃がぶつかり合う、甲高い剣戟音が空間に響き渡る。
常人なら目で追うのも難しいだろう速度で振るわれ、幾度も交わる刃。
打ち合わされるたびに細かな火花が弾け散り、両者の位置が目まぐるしく入れ変わる。
「ハハッ! いいな! 予想以上だ! オラオラッ、もっといけんだろ!? もっともっとオレを楽しませろよ!!」
「楽しそうでなにより、ねっ!」
多少は乃詠も攻勢に出られるようにはなった。が、それでも押されているのは乃詠のほうで、アシュラオーガにはまだまだ余裕が見られる。
――明らかに手加減されている。己が楽しむために。
当然だろう。武術系のスキルはレベル5で一端の使い手とされ、スキルによるアシストもあって剣の扱いに関しては申し分ないが、やはり技量差という壁は、容易く越えられないほどに――高い。
そもそも、スキルとは相応の修練や経験の果てに獲得するものであり、乃詠の場合、〈剣術〉に関してはもともとの技量をレベル換算しても、せいぜいが2といったところ。
それを、称号の力で強引に引き上げているのだ。
基礎はできているから戸惑いはないが、インストールされた知識に対して体が完全に追いついてはいない。本来のレベル5の技量には及ばない。
武術同士のぶつかり合いで、かつ相手の技量が高いからこそ、そのあたりの齟齬が如実に表れる。――【万能聖女】の、万能すぎるがゆえの弊害が。
対するアシュラオーガの〈大刀術〉は、レベルに即した達人級。非常に洗練された大刀さばきは、敵ながら惚れ惚れしてしまう。放たれる気迫の荒々しさとは裏腹に、とても繊細な動きをする。
乃詠にとっては忌々しくも、実に楽しげな哄笑を響かせるアシュラオーガの攻撃速度がいっそう増し、さらに一撃の重みも増す。
抑えていた力を一段、解放したのだろう。徹底的に無駄を排除した一挙一動による連撃に、乃詠は再び防戦一方となった。
(やっぱり、そこまで甘い相手じゃないわよね)
刀という無手よりはリーチの長い武器を得て、状況への打破に光明が差したことは間違いないが、しかし――いかに称号によるスキル獲得があったとて、にわか剣術でアシュラオーガを倒せるなんて、あまりにも希望的観測にすぎた。
(だったら――)
閃き、乃詠は攻撃の矛先を変えた。攻撃を繰り出してくる本体ではなく、その本体が振り回してくる得物――狙うは、武器破壊。
全神経を注ぎ、ひたすら相手の刃の一点にのみ攻撃を叩きこんでいく。
武器破壊とて相応の力量が必要だが、繰り出される刃をかいくぐって懐に入るよりかは、乃詠にとっては段違いに容易い。
幸いにもアシュラオーガが乃詠の狙いに気づいた様子はなく、自棄になって闇雲に攻撃していると思ったようだ。
そうして相手の瞳に失望がにじみ始めたとき、一点集中攻撃を受け続け、限界を迎えた大刀の刃が、ついに――バキンッと音を立てて折れた。
(――よしっ!)
思わずと内心で喝采を上げる。本当はガッツポーズの一つでもしたいところではあるが、いまだ戦闘は継続中。勝利したわけではなく、ただ厄介な敵の得物を奪ったにすぎないのだ。
現にアシュラオーガは、さすがに驚きはしたようで軽く目を見張っていたが、しかしそれだけ。
動揺などは微塵もなく、どころかいっそう口角が吊り上がっている――それはもう、面白くて仕方がないとばかりに。
半ばから刀身を失った得物を、まったく未練も感じさせずに放り捨てると、アシュラオーガは拳を構えた。
剥き出しの筋肉がさらに隆起し、血管の浮かび上がった太い腕が、重厚な風鳴り音を引きながら繰り出される。
それを乃詠は、左手で支えた刀の背で受け止めた。
アシュラオーガの保有する武術スキルは〈大刀術Lv8〉と〈格闘術Lv7〉――すなわち、得物があろうがなかろうが同じくらいに戦える。
ゆえにこの流れは必然であり、続いて始まるのは徒手空拳による乱舞。
立場は逆転し、乃詠のほうがリーチの優位を獲得したが、それで優勢になるほど相手の技量は低くはなかった。
(これなら私も格闘で応じたほうが――)
そう思うも、興が乗ったらしいアシュラオーガのラッシュがすさまじく、武器を手放す暇もない。
そして脳裏をよぎる一つの懸念。
その懸念は、やはり現実のものとなった。
相手の殴打と蹴撃を愚直にも受けるしかなかった刀身が、先ほど自分が相手にした焼き直しとばかり、パキンッと折れてしまったのだ。
「あぁ!? ひどい! 借り物なのに!」
思わず口を突いて出た恨み言に、アシュラオーガが眦を吊り上げる。
「どの口が言いやがんだ、あぁ!? 先にひとの得物ぶっ壊したのはてめぇのほうだろうが!!」
ごもっともである。
「ごめんなさいリオン! 折れちゃったわ!」
「……いえ、しょうがねぇでさぁ……貸し出した以上は覚悟してやしたし、気にしねぇでくだせぇ……」
敵の攻撃に対応するのでいっぱいいっぱいな乃詠には見えていないが、リオンのハイライトが消えた瞳から、ホロリと透明な滴が流れ落ちていた。
けれども、その弱々しい声音はしかと届いていて。
(もしかしたら、自分の得物としての愛着以上に思い入れがあったのかもしれないわね……武器自体はこのあと手に入るとはいえ、本当に悪いことしちゃったわ)
罪悪感は半端ないが、しかし今は戦闘中。意識を切り替え、戦闘スタイルも格闘へと切り替える。
スキルレベルは双方同じ。だがやはり、技量はアシュラオーガが上だ。その技量が示すところは――圧倒的な実戦経験の差。
アシュラオーガのレベルは54。称号効果により成長率は高く、しかしその分必要経験値量が多くなるということは、通常そのレベルへと達する以上の敵と戦ってきたということ。
そして彼が、アシュラオーガとして生まれたのか下位種族から進化したのかは不明だが、もし後者であるなら、それ以上の戦闘を経験してきたことになる。
同じ土俵に立っているからこそ、技量の差は明白に浮き上がる。
乃詠にとっては今のほうがずっと苦しい。苦しくて――悔しい。
そこで、はっとする。
敗北はイコール死、という意味でこの戦いに負けられないのは確かだが、それとは別の負けん気が自分の中にあることに、乃詠は驚いた。
物事に対して淡泊とまでは言わずとも、何事においても他者に競争心を抱いたことなど、今まで一度もなかったからだ。
無理もないだろう。何事もやれば人並み以上にできてしまう乃詠よりも、さらに上をいくハイスペックな親友が常に傍にいたのだから。
唯一競える相手があまりにも完璧で。敵うはずがないのだから張り合っても無駄だと、自覚なく無意識に競争を避けてしまうのは当然とも言える。
誰だって、進んで苦しんだり傷ついたりしたくはないのだ。
そんな乃詠だから、いま覚えている感情に戸惑っている。
けれどもこの異世界の地で、それも死闘の中で初めて芽生えたこの悔しさは、決して悪いものでも嫌なものでもない。
ただただ、そう、これは――高揚だ。
気持ちが昂り、胸は熱く躍り、かつてないほどにわくわくしている。
負けたくない。勝ちたい。だが、相手は自分のはるか上をいく。ならば、その相手の技術を盗み、取り込んで、さらに自分の中で昇華して――はるか上の、その上にいきたい。