1章15 万能聖女、デンジャラスな魔物たちの洗礼を受ける10
「っ!」
傾ぐ視界の中、乃詠の目に映るのは――木々が途切れ、わずかな雑草の生えた地面。
そしてその先は、無情にも大地の切れ目――渓谷だ。
向こう岸までは、さして距離はないように見える。
『この木の長さで足りるかしら!?』
『ギリギリ、といったところでしょう』
『もう賭けるしかないわね!』
とはいえ、賭ける以前の話だ。このままこちら側へ飛び降りたとて、そこは群れるクレイジーエイプ集団の只中。そもそも選択肢などない。
上手いこと向こう岸にかかれば、一気に距離を取れる。
橋ができるわけなので、それをどうにかしない限りクレイジーエイプたちは追ってくるだろう。しかし橋は一本の丸太で、頑張って二体が並べるくらいの幅しかない。少なくとも、後続の足を鈍らせることは可能だ。
あわよくば、ここでも足を引っ張り合って、何体か自滅してくれれば儲けものなのだが。
そして願わくは、木の長さが足りなかった場合でも、渓谷の深さが怪我で済むくらいであってほしい。
かくして――乃詠は賭けに勝った。
ナビィの予測どおりギリギリだったが、渓谷の向こう岸へと木上にて着地した乃詠は、落下の衝撃さえも味方に跳躍にて距離を稼ぎ、背後を振り返ることなく地面を蹴る。
置き去りにしたクレイジーエイプたちの奇声はやや遠い。上手く時間かせぎができていることの証左だ。
スキルの恩恵も全力で活用し、乃詠はひたすら、それこそ死にもの狂いで走る、走る、走る、走る、走る――――……
「……これは、あんまりだわ」
幸運と不運は、やはり交互に訪れるものらしい。
足を止めざるをえない状況へと追い込まれた乃詠は、愕然と立ち尽くし、眼前にたたずむ絶壁を、絶望的な思いで見上げる。
頂上が見えないほどに高く、左右を見渡しても、瘴気のせいで見通しが悪いにせよ絶壁の切れ目は見えない。
だがそうこうしている間にも、クレイジーエイプたちのクレイジーな奇声は徐々に近づいてくる。立ち止まっている暇などない。
他に道もなく、乃詠は絶壁に沿って駆ける。
どこかに活路はないかと視線を忙しなくあちこちにやりながら、ひたすら足を動かしていると――見つけた。
絶壁の上方、どうにか目視できる位置にぽっかりと横穴が空いている。
もはや、逃げ場はそこにしかない。
(さすがにこの断崖なら殴り壊せないわよね!)
今度こそ悪手などではないはずだ。太い木は殴り倒せても、どう見たって相当な厚みと密度のある崖を殴り壊すなど、現実的じゃないにもほどがある。
先の愚行を踏まえて確信し、乃詠は断崖の出っ張りに手をかけ登り始めた。
涼風家の所有する施設内でボルダリングはよくしていたが、まさかリアルにロッククライミングをする羽目になるとは思いもよらない。
――スキル〈登攀Lv5〉を獲得しました。
やはりスキルの恩恵はすさまじい。必死さにプラスしてさくさくと登り、横穴へと身を潜り込ませる。
今度は安堵する間もなく穴の縁から下を覗くと、少し遅れて到達したクレイジーエイプ集団の、ギラギラした幾対もの血眼と目が合った。
そのホラーじみた迫力に、乃詠は思わず首を引っ込めてしまう。
けれども、やはりクレイジーエイプらが絶壁を登ってくることはなく。すぐに発狂しながら岩壁を殴り始めるも、ただただ穴が空くだけ。
広範囲にたくさん穴が空けば重みで崩れるかもしれないが、さすがに三十分やそこらでは不可能だろう。
(ほんと、執念が生物の形をとったような種族だわ……ともかく、今度こそ大丈夫そうね。スキルの効果が切れるまで、あと二十分強といったところでしょうし)
――なんてわずかに気を弛めた、そのときだ。
「「キュァァッ!!」」
「「キョキョッ!!」」
「「キョェェッ!!」」
「んんっ!?」
新手の登場である。
悪辣なる魔物の巣窟は、一休みさえも許してはくれないらしい。
金切り声を上げながら、上空より飛来するその魔物――一見して上半身は女人のものだが、しかし肌は汚い土色で、顔面は醜悪な鬼婆のよう。
両肩から先は鳥のような翼になっており、下半身も鳥のそれだ。肢の先には鋭い鉤爪を備えている。
『どうやら、ここは『デスハーピー』の巣のようですね。よくよく見れば、同じような横穴が他にもたくさんあります』
『そんなことある!?』
あらためて目を凝らしてみれば、確かに肉眼でも三つほど確認できた。
今までは眠ってでもいたのだろう。クレイジーエイプらの狙いは乃詠だが、結果的にデスハーピーの巣を殴打していたということになり、すなわちデスハーピー側にとってみればれっきとした襲撃である。
あれだけの大音声と殴打音を響かせれば、たとえ深い眠りにあったとて起きるというものだ。襲撃されたとあれば、迎撃するのも当然。
(でも――)
幸いデスハーピーたちが乃詠に気づいている様子はなく、崖下に群れるクレイジーエイプらの頭上へと殺到していた。
さしもの狂猿たちも、攻撃を受ければそちらを優先せざるをえない。
そうして突発的に始まった魔物同士の血みどろの争いを、身を伏せた乃詠は息を殺しながら見守った。
もちろん、その間に鑑定もしている。
デスハーピーの種族ランクはC、クレイジーエイプと同じ。けれども、ステータスはデスハーピーたちがやや勝っているようだ。
ただし、それは素の能力値の話で、クレイジーエイプらには〈狂気乱武〉による上昇分があるため、数字の上では狂猿集団が優勢。
しかし、デスハーピーは優位な高空からの攻撃が可能であり、クレイジーエイプのステータス上昇には制限時間がある。ナビィの予測では、その時間も残すところあと十数分。
やがて狂ったように暴れ回っていたクレイジーエイプが一体、ばたりと不自然に倒れた。言うまでもなく、スキル効果が切れたのだ。
そこへ目ざとく群がるデスハーピーたち。動けないがためになすすべなく、ステータスも半減したうえでリンチにされたクレイジーエイプは息絶え、ほどなくして黒い靄となって消えていく。
また一体、そしてまた一体と次々に倒れていくクレイジーエイプを、甲高い鳴き声を上げながら複数でリンチしていくデスハーピー。
(よくやったわ、と言いたいところだけど……さすがに惨いわね)
しつこくさんざん追い回してくれた憎きクレイジーエイプ集団を、デスハーピーたちが代わりに一掃してくれたわけだが、その光景から受ける乃詠の心象は複雑なものだ。
けれども、そんな感想を抱いている場合では、まったくなかった。
――依然として、乃詠のピンチは大絶賛、継続中だったのだ。
「ギュェェ……」
「!!」
横穴は意外と深く、光の届かない奥のほうは闇に沈んでいる。ゆえに今の今まで気づかなかったのだが――乃詠が避難した横穴、もとい巣穴にも、家主たるデスハーピーがいたのである。
当然といえば当然のことだった。岩壁に空いた穴がデスハーピーの巣であることが判明した時点で、気づいてしかるべきだったのだ。
(幸運さん仕事して!?)
『現時点での数値で仕事をして、これなのかと』
ナビィの言うとおり。確かに、この時点までは幸運だった。
眼前のデスハーピーに限っては、間違いなく眠っていた。それも、かなり深く寝入っていたのは明白だ。
なぜなら、あれほどの奇声と殴打音を聞かされ、そのうえ振動もあって、その後は迎撃に出たデスハーピーとクレイジーエイプらの戦闘音がありながらも、今の今まで出てこなかったのだ。
それに、こちらを忌々しげに睨みつける双眸には、寝起きの不機嫌さと、外からの干渉で無理やり起こされたことへの苛立ちがありありと見て取れる。
このデスハーピーが仲間と同じタイミングで起きていれば、もっと最悪なことになっていたに違いない。だから、一応は幸運だったのだ。
「っ!」
チリ、とうなじあたりに嫌な感覚――考える前に、横へと跳んで転がる。直後にその脇を、何かが勢いよく通り過ぎていった。
巻き込まれた髪が数本切れ、散った髪がじゅっと溶けて消える。
それは、瘴気の刃――デスハーピーの固有スキル〈死刃〉だ。
――スキル〈危機感知Lv5〉を獲得しました。
嫌な予感なんて曖昧なものではなく、明確に感じ取った〝危機〟を避ける。
追撃はそれにとどまらず、連続して放たれる瘴気の刃を、乃詠はスキルを頼りに辛くも回避する。
「キョアァァァッ!」
「くっ……!」
死の刃が飛んでこなくなったと思えば、今度はいかにも毒がありそうな鉤爪の生えた肢を突き出しながら、猛然と飛びかかってくる。狭い穴倉の中でこれはさすがに回避できず――両肩を掴まれてしまった。
高い耐久値が爪先の食い込みを防いでくれたものの、その後の展開など考えるまでもない。
そのまま横穴の外へと躍り出た半人半鳥は、悪辣なことにさらに上昇したうえで乃詠を解放した。
地上までは、軽く三十メートルはある。いかに高いステータスといえど、死は免れても重傷は免れまい。
――スキル〈空踏Lv5〉を獲得しました。
(ナイスよ【万能聖女】!)
これは〝空を踏む〟ことで落下時の速度を殺すことができるスキル。
明確な足場を作るわけではないため、そこからさらに上昇したり、横などに軌道を変えたりすることはできない。あくまで垂直落下の着地用だ。
乃詠は即座にスキルを発動。本来であれば踏めないはずの空中に足裏を置き、それを繰り返すことで落下の速度を減衰させ、無事に地面へと降り立った。
(状況は完全にヘルモードだけど、【万能聖女】はイージーモードだわ)
感謝はしつつも乾いた笑みを浮かべながら、着地と同時に走り出す。
クレイジーエイプのような執念深さはデスハーピーにはなく、しばらく追われはしたものの、やがて転身し自らの巣穴へと帰っていった。
お読みいただきありがとうございます。
これで1部1章は終わり、次話より2章『万能聖女、協力要請を受ける』の開始です。
少しでも面白い、続きが気になると思ってもらえましたら、ブクマや評価をいただけると執筆の励みになります。
すでにいただいている方は、ありがとうございます。いいねも嬉しいです。
引き続き、拙作をよろしくお願いします。