1章14 万能聖女、デンジャラスな魔物たちの洗礼を受ける9
「「「「「キィェェエェァアァァァァァァァァッ!!」」」」」
「いやぁぁぁぁぁぁぁ――――っ!?」
リアルに悲鳴なんて上げたのは、生まれて初めてのことだった。そして、恐怖らしい恐怖を覚えたのも。
不快指数が天元突破しそうな狂声の唱和もそうだし、チラと見た光景は――あまりにも恐ろしすぎた。
何体もの大猿が血色の双眸をぎらんぎらん輝かせ、猟奇的な弧を描く口からでろんと垂れた真っ赤な舌と頭頂に伸びるたてがみを振り乱し、生臭そうな涎をまき散らして、甲高い叫喚を上げながら一心不乱に追いかけてくるのだ。
一言で言うなら――狂気。まさにクレイジーそのもの。
そんな悪夢のような光景から逃れるべく、乃詠もまた一心不乱に手を振り、足を動かす。
『先ほどの叫喚は、固有スキル〈狂感〉のようですね』
『なんかいろいろ掛かってるわね!?』
『クレイジーエイプは非常に好戦的な魔物です。基本的に広くテリトリーを持ち、その中でちょうどいい獲物を見つけると、〈狂感〉にて同族を呼び集め、全員で獲物を奪い合います』
『なんでわざわざ仲間を呼んで奪い合うのよ!? クレイジーすぎる!』
少しずつ距離が縮まっているのが、物理的にも感覚的にもわかる。
(しかも仲間内で妨害し合いながらなのにっ! ほんとクレイジーだわ!)
『あくまで同族であって、仲間意識はないと思いますよ』
『どっちでもいいわよ!』
鑑定は最初の一体以外できていない。だが少なくとも――これまでの戦いでレベル6となった乃詠の敏捷値は176。〈身体強化〉によるプラスが100の計276で、その個体のおおよそ二倍。
すべての個体が同じわけではないだろうが、カオスゴブリンを見るに、同種での個体差はそこまでないはず。現に背後の気配は一つも減ってはおらず、また突出した個体もいないので――つまりはそういうことだ。
乃詠が森の中での行動に慣れていないというのも、確かにあるだろう。こればかりは高いステータスでもカバーしきれない。
当然ながら不整地の地面は凹凸ばかりで、アップダウンも激しければ、岩や木々など障害物だらけ。転倒は即詰みで、それを避けようと思えばどうしたって全力は出せない。
対するクレイジーエイプは、身体構造は獣のそれ。そもそもが自然の中での生活に適応しているし、何より彼らにとって、この森は庭そのものだ。前提条件が違いすぎる。
だが――しかし。それにしたって、この状況は不可解だった。
『なんでどんどん距離が縮まっていくの!? いろいろ不利な要素があるにしたって、向こうは足の引っ張り合いをしながらなうえに、敏捷値は私のほうが倍も高いのにっ!』
『固有スキル〈狂気乱武〉を使っているのでしょう』
『あのいかにもヤバそうなやつね!?』
『このスキルは、使用すると一定時間、HPとMP以外のステータスがおおよそ2倍となり、またスタミナも著しく向上します。その代わり、スキルの効果が切れればしばらく行動不能となって、一定時間、全ステータスが半減します』
となると、敏捷値の差異は――8程度。
一桁の優位などまったく優位たりえない。
『というかナビィ、めちゃくちゃ詳しいわね!? あなたがいれば〈解析〉スキルなんていらないんじゃない!?』
『いえ。ノエ様がお忙しそうなので、代わりにスキルを行使いたしました。できる相棒なのです、ワタクシ』
『スキルがスキルを使うって意味がわからないのだけど!? でもありがとう、すごく助かるわ! それで、強化の一定時間というのは具体的に!?』
『レベル5で五十分ほどです』
『五十分!? 長すぎる!』
ただでさえ距離は縮まるばかりなのだ。
効果切れまでなんて、とても保たない。
――スキル〈悪路走破Lv5〉を獲得しました。
そこで称号さんがまたも素晴らしいフォローくれた。
これまでより断然、走りやすくなり、速度も出せる――しかし、彼我の距離が縮まることこそなくなったものの、引き離すまでには至らない。
二十メートルほどの距離を保ったまま付かず離れず、乃詠とクレイジーエイプ集団の追いかけっこは続く。
『もう! しつこいわね!』
『クレイジーエイプは執念深いですからね。よほどのことがなければ、一度狙いを定めた獲物を逃すことはありません』
『ヒグマかしら!? よほどのことって例えば!?』
『高い場所に上られたり、とかですかね。クレイジーエイプは高所へは上がれませんから』
『猿なのに!?』
『猿なのに、です』
おかしな猿もいたものだとついつっこんでしまったが――朗報だ。
乃詠はさっと視線を巡らすと、手ごろな木に狙いを定めて取りついた。
『あ――ノエ様、それは』
頭の中に若干焦ったようなナビィの声が響くが、クレイジーな大猿から逃れるべく必死の乃詠にそれを聞いている余裕はない。
表面のわずかな凹凸に指をかけて体を持ち上げ、高いステータスに任せてひたすら上へと登っていく。
――スキル〈木登りLv5〉を獲得しました。
スキルの恩恵によってより軽快に、それこそ猿のようにするするとひたすら登っていき――念には念をと地上からだいぶ離れた、かなり上部に位置する適当な枝を選んで座り込んだ乃詠は、そこでようやくと詰めていた息を吐き出した。
(……クレイジーエイプがおかしな生態で助かったわ)
追いついたクレイジーエイプたちは、ナビィの言ったとおり、木を取り囲むだけで登ろうとはしない。
ようやく余裕ができたので、ざっとすべての個体を鑑定してみる。
どの個体も、最初に会敵した個体のステータスと似たり寄ったりだが――自分の数値と見比べ、さらに現状と比較すれば、全員がもれなく〈狂気乱武〉を使用しているのがわかる。
(スキルの効果が切れれば、奴らは残らず自滅してくれる。私はただ、ここでそのときをじっと待っていればいい)
しかし――それがとんでもない悪手であったことを、乃詠は直後に思い知る。
「「「「「キィェェエェァアァァァァッ!!」」」」」
「っ!?」
不協和音を奏でる狂声が鼓膜を刺すと同時――凄まじい振動に見舞われ、危うく枝から降り落とされそうになった。
振動はその後も途絶えることなく、身を寄せた枝に両手両足でしがみつきながら下を見れば、クレイジーエイプたちが一心不乱に幹を殴りつけている。
隙間なく取り囲むかたちで四方八方、叩き込まれる拳により抉られていく幹が、クレイジーエイプたちの上げる狂的な奇声に交じり、バキバキと不吉な音を立てていた。
「誰か、嘘だと言って……」
嫌でも、辿る未来が見えた。――見えてしまった。
元の世界では樹齢何百年の神木と崇められそうな巨木でも、これほどの殴打を受け続け、全方位から穴を穿たれれば、さすがに折れる。
『だから言いましたのに。それは悪手だと』
「え、言った? ねぇナビィ、本当に言った? 私の記憶力が悪いだけ?」
『……まぁ、最後までは、言っていないかもしれませんね。言う前にノエ様が登り始めてしまったので』
「言ってないじゃないのよぉっ!!」
思わずの肉声による絶叫のごときツッコミは――ついに限界を迎えた幹の悲鳴にかき消された。
景色がゆっくりと傾いていく。
緩慢でも、確実に地面は迫っていた。
下には、わらわらと群れるクレイジーエイプの集団がいて――双眸はいっそうギラつき、笑みは悪魔のような三日月だ。
獲物たる乃詠が落ちてくるのを、怪物たちは今か今かと待ちわびていた。
その恐ろしくおぞましい光景を目にし、一周まわって逆に冷静になってしまった乃詠は、ふっと遠い目になる。
「これ、本格的に詰んだのでは?」
しかしどうやら、その不運をステータスの幸運値が上回ったらしい。
倒れる先にあった木に上手いこと引っかかり、双方の枝葉が絡まり合って、そのまま固定されたのだ。
……まぁ、その衝撃によって樹皮と痛みを伴う激しい接吻をしてしまったが、クレイジーな死海にダイブすることは避けられた。
『大丈夫ですか、ノエ様?』
『……えぇ、平気よ。ステータスってすごいわね』
顔面に多少の痛みはあったものの、程度はささやかだ。レベルの上昇とその数値が肉体強度に直結するこの世界のシステムに、心の底から感嘆すると同時に、心の底から感謝した。
それはそれとして、この幸運を逃すわけにはいかない――即座に乃詠は、枝を伝って引っかかった先の木へと移動する。
しかし、異常な執念を燃やすクレイジーエイプたちは、やはりこぞって追ってくるのだ。
追ってきて、再びその木を取り囲んでの殴打による伐採。またも幸運値がはたらいて別の木に引っかかり、やはり枝を伝って移動――という流れを、奇跡的に何度も繰り返した。
けれども狂気を体現する大猿たちは、どこまでも執拗に乃詠を追ってくる。
『堂々巡りですね。キリがありません』
『執念深いにもほどがあるわ』
乃詠の幸運とクレイジーエイプらの執念。拮抗していたそれは、やがて――後者へと傾いたのだった。