side:涼風謡
乃詠が異世界アルズ・ヴェルへと召喚されてから一か月半ほど経った現在――だがしかし、元の世界では、まだ召喚直後の時間軸にあった。
これは召喚時、一時的に次元を越える副作用みたいなものだ。
世界をつなぐ際に、双方の時間軸にズレが生じてしまったせいである。
とまぁ、そのあたりの細かい理屈や原理うんぬんはともかくとして……
乃詠と歌恋が謎の光に包まれ、その場から忽然と姿を消したあとの廃倉庫にて。
(異世界召喚ってほんとにあるんだねー。驚いたー)
ひとり取り残された涼風謡は、その明晰な頭脳と独特な思考回路でもって、この摩訶不思議な現状を即座にそう断定した。
(ま、なんにせよ――)
奪還対象であった歌恋もいなくなった今、もうこんなところに用はない。
チンピラたちがいまだ気絶、あるいは悶絶、あるいは復活したはいいが目の当たりにした神隠し現象に呆然としている隙に気配を消した謡は、乃詠が目に浮かべたとおり、人差し指と中指をピンと立てた気障な仕草付きで「アデュー☆」と言いながら颯爽と倉庫を脱出。
その足で乃詠の自宅へと向かうのだった。
◇◇◇
一色家にたどり着くと、格式のある立派な和風門が出迎えてくれる。
敷地も広く、伝統的な日本家屋としては十分に豪邸といっていいだろう。
呼び鈴を鳴らせばすぐに応答があり、玄関から組員が出てくる。
「よぉ、謡ちゃん。なんか久しぶりだな」
「やっほー、竜さん。久しぶりー」
どちらかと言えば甘い顔立ちをした彼は、組一番の古株、若頭の佐伯竜。
背丈は平均ほどで一見すると細身だが、服の下にしなやかな筋肉が隠されていることを謡は知っている。
たまに手合わせをしてもらっているからだ。
ここ最近はご無沙汰だが。
「ひとりか? お嬢はどうした?」
「いやー、その件でちょっと吟仁おじ様に話があって。吟仁おじ様、いる?」
「親父なら部屋にいるが……お嬢に何かあったのか?」
途端に剣呑な空気を放ち始める竜に対し、謡は曖昧に笑う。
「んー、話すなら吟仁おじ様が先かな」
「……わかった。ついて来い」
竜の背を追って屋敷へと上がる。
長い廊下を歩くあいだ、彼からは終始、ヒリついた空気がかもし出されていた。
彼ら組員は、組長の娘だという以上に乃詠のことを慕っているのだ。何かあったとなれば、それも当然だろう。
「――親父。謡ちゃんが、話があるそうです」
「ご無沙汰してます、吟仁おじ様」
「……あぁ」
畳敷きの室内にひとり、何をするでもなく、腕を組んで座すその人物こそ、乃詠と歌恋の父親にして一色組の組長、一色吟仁、その人だ。
整った顔立ちで、もう四十近いはずだが、いまだ二十代でも通る若々しさ。歳を重ねた乃詠の性別を反転させれば、こうなるだろうほどに似ている。
ただ、非常に顔に出やすい娘たちとは真逆で、彼は常時、不機嫌そうに眉が寄っていて、笑ったところはあまり見たことがない。
静かな威圧感のようなものがあるのだが、しかし今も別に怒っているわけではなく、これが彼のデフォルトなのだ。
ちなみに、謡は面識がないが、亡き母は恋乃と言って、とても可愛らしい人だったらしい。それこそ、今の歌恋をもう少し大人にした感じの。
(本当に、きれいに遺伝子分かれたんだねー)
なんて思いながら吟仁を見ていると、謡がひとりでいることで察したらしい彼の表情が余計に険しくなった。ものすごく迫力がある。
「……座れ」
「失礼します」
吟仁の対面に竜が座布団を敷いてくれたので、礼を告げて座る。
そして謡は、何の前置きもなく単刀直入に伝えた。
「吟仁おじ様、乃詠ちゃんと歌恋ちゃんが、連れ去られました」
直後、吟仁はすっと無言で立ち上がる。
「吟仁おじ様?」
「どこのどいつか知らねぇが……俺の可愛い娘たちに手ぇ出したこと、地獄の底で後悔させてやる」
静かな殺気を放ちながらゴキリと首を鳴らす吟仁に、やっぱそうなるよねー、と思いつつ謡は補足する。
「後悔させるのはいいですけど、ちょっと難しいかもしれません。異世界に連れていかれてしまったみたいなので」
実に突飛で、非現実な話だ。しかし吟仁は、それに対して何をバカなとか、頭大丈夫かとか、不審や疑いを口に出すこともなく――謡を案内してきて以降、部屋の隅で控えていた竜へと鋭い視線を送る。
「おい、竜」
「はい」
「準備しろ」
「ただちに」
主語のない指示だが、すべてを察した次期組長は、疑問の言葉を差し挟むこともなく即応し、きびきびと動き出した。
さすが、組一番の古株。長い付き合いともなれば、細かい説明などなくとも相手の意思をくみ取れるものだ。
「吟仁おじ様、一応聞きますけど、なんの準備ですか?」
「決まってる。娘たちを取り返しに行くための準備だ」
「異世界ですけど、どうやって行くつもりです?」
「どうにかする。何が何でも行く。そして連れ去った奴に落とし前をつけさせる」
「吟仁おじ様、顔が般若になってますよ」
やっぱり親子である。歌恋をチンピラに連れ去れたときの乃詠も、同じ表情をしていた。
だがしかし――今回は相手が悪い。
(というか、相手はたぶん神様のような気がするんだよなー。後悔させるのはちょっと難しいんじゃないかなー)
ハイスペ令嬢の第六感というべき勘は、真実を的確に言い当てるのだ。
現地の人間による召喚、というパターンもあるのだが、謡の直感は首謀者が神だと告げている。
「吟仁おじ様。少しだけ待っていてもらえませんか? 私が、向こうからどうにかして乃詠ちゃんと歌恋ちゃんを連れ帰りますから」
「行く方法を知ってんなら、教えろ。でなけりゃ、俺も連れていけ」
「いえ、行く方法はわかりません。でも――」
にこりと吟仁に笑いかけた謡は、
「近々、私も召喚されるような気がしてるんですよねー」
そう、ほとんど確信しているような調子で言うのだった。