第032話 日本人が初めて聞く日本古代史
第032話 日本人が初めて聞く日本古代史
今日は渋谷の大学に行って日本史の加茂教授の特別な講演会を聞くことになった。
タイトルは日本の古代史ってシンプルなテーマだ。
なかなかの大盛況で、大きめのホールが満員になっている。
事前の予約制だったけど、加茂教授のご招待があったので特別に良い座席が案内された。
加茂教授が登壇して講演会が始まった。
「本日はお忙しい中で、私どもの講演会にご足労いただき、誠にありがとうございました。
この講演会も早いもので、5回目になりますな。
最近は、縄文ブームとか、御朱印巡りで古史古伝に関心を持ったり、陰陽師が流行ったり、歴女なんて言葉も聞きます。
若い方々にも日本の歴史に関心が強い方が増えているのは、とても喜ばしいことです。
そんな中で普通に高校でやるような日本史の教科書の話をしても、つまらんでしょうな。
この講演会がおかげさまで回数を重ねさせてもらっていますのも、あえて教科書に書いてない話ばかりを選んでしているからでしょうかな。
それでは日本人にとって初めて知る未知の日本古代史をエンタメとしてお楽しみください。
きっと新たな気づきがあることでしょう」
加茂教授がいきなりハードルを上げてるわ。
講演会を聞きに来た周囲にいる若い人たちも、スマホいじりをヤメて、かなりワクワクしながら集中している雰囲気だ。
かなり前評判が良くて歴史マニアに人気がある講演会みたいだ。
加茂教授はスクリーンに投影している端末の画面を操作しながら話を続けた。
「日本の歴史の教科書は、旧石器時代、縄文時代、弥生時代の次は、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代へと進みます。
昔の教科書には卑弥呼の邪馬台国や、隣国の古文書に書かれた倭の国の国印の話なんかもあったと思います。
非常にザックリした歴史観で、日本史の先生も詳細は説明しないで飛ばしていく印象を持つ方が多いのではないでしょうか。
日本の縄文時代などは、世界の四大文明には入れてもらえませんが、正式に認められた日本の文字が無いなどの理由からのようです。
日本の洞窟の壁画や古い神社などにある神代文字などは正式に認められていません。
こうした古代の文字も政治的な理由から過去に何度も戦争などで破壊され焚書されています。
時代背景として焚書や接収を逃れるために、口伝で代々受け継いだことも影響しています。
それでは、とても文明として存在したという考古学上の証拠としては認められないのです。
本格的に歴史上の人物の話が始まるのは、紀元後の西暦500年代以降の飛鳥時代に入ってからでしょうか。
それ以前の歴史の教科書には人物名が、ほとんど登場しません。
他の国では数千年前の歴史でも、少なくとも皇帝や国王の名前は頻繁に登場します。
日本の古代史は、まさに神懸ったように失われていきました。
この差はなぜでしょうか。
そのカラクリにはいくつか理由があります。
1つ目が古史古伝への一極集中です。
日本では有名な2つの古文書だけが聖書のような扱いを受けています。
逆に他の口伝や古文書は、ほとんどただの伝説や偽書として扱われていますので、歴史書には組み込まれないのです。
古史古伝を編纂した周辺の時代で、神代文字で書かれたような古い歴史書の焚書や接収が行われ、ほとんどが失われました。
この手法は隣国で行われた政策に似ているとは思わないでしょうか。
古史古伝を除く古文書が偽書とされる理由は以下の通りです。
・焚書接収・・・原本が焚書や接収され残存する古文書が希少。
・複写・・・現存する古文書は何度も繰り返し書き写されて私的に密かに所有されていたコピーのコピーに近い状況。
・翻訳・・・原文は神代文字で書かれ解読が難解。後の時代に現代語に翻訳して写本されるが翻訳の精度は不明瞭。
・口伝・・・苛烈な焚書を避けるため口伝で語り継ぐ判断。後の安全な時代になって再文書化されるが、真偽の証明が困難。
・分割所有・・・全文をまとめた公的保管は皆無。一部のみが複数の一族の所有者に分かれて私的に保管し残存。全容も不明。
ヨーロッパや中東地域のように大きな石に原文のまま彫られて残っているものと違って、後の時代に文書化されたものでは、どうしても偽書の扱いを逃れられないのです。
口伝による昔話についても、安全になった時代に編纂して収録したような書物も多い傾向があります。
この状況は、東南アジアの環太平洋地域の歴史などにも近い印象です。
いずれにしても残念ながら今に伝わる口伝やそれを書籍化しただけでは、正式な歴史として従来の定説を覆すには無理があります。
ところで先祖伝来の密かに受け継がれた古文書群が、最近になって急激に書籍化され出版されています。
加えて書籍だけではなく口伝も含めて、SNSなどを通じて爆発的に世間に浸透しました。
その背景には、古代の日本の歴史を知る部族を、日本国民として平等に社会に取り込むために、近代になって法制度が何度も段階的に整備された影響なども考えられます。
こうした政策による影響で、部族の若者が都市部に吸収されていき、口伝なども残された高齢な者だけでの維持が困難となっている状況をを感じます。
また昔のような出版物に対しての厳しい検閲が、現代ではSNSなどの普及により急激に緩和されていきました。
こうした時代の環境変化を受けて、部族の中で秘匿し続けた口伝を開示するタイミングが到来したと判断し、公開に踏み切ったのです。
最近では聞く側の意識レベルの向上と多様化で、受け入れる側の土壌も整ったと言えます。
今日の講演会に来られている方々も、焚書され失われた歴史の謎解きをしたくて来られている方が多いのではないでしょうか。
下手に隠そうとしたことで、逆にエンタメとして好奇心を掻き立てるなんて面白い話ですよね。
2つ目が、古墳が現役の墓として管理されている関係もあります。
滅んだ王朝の遺跡は発掘調査が可能ですが、現役のまま続く墓は、常識で考えて暴くことはあり得ません。
こうした史跡の調査が進み、何かが発見されるのかは、後世に委ねることになるのでしょうか。
3つ目は、神社が市役所と学校教育のインフラとして提供されていた関係もあります。
神社が学校の役割を担って周辺地域の住民を教育していた時代がありました。
その結果、宗教という概念に入った歴史は、当時の宮殿の人々を神として扱ったのです。
そのため神々は歴史上の人物として扱うには難しい存在となってしまいました。
4つ目は、日本の木造建築と災害の多さです。
代表的な災害は、火山の噴火、地震による火災と津波、川の氾濫、海面の上昇などでしょうか。
こうした災害は、日本の木材で造られた建築物や、紙で書かれた書物を失わせました。
戦火でも木造や紙の脆弱性が露呈します。
海外のように石に彫っていれば残ったのかもしれません。
5つ目は、縄文時代に九州の南側の島で起きた巨大な火山の大噴火です。
この大噴火の噴煙で西日本に住めなくなったと言われています。
この地域の日本人は大陸へ渡り、そして後の時代に日本へ帰ってきました。
弥生人は、一般的には大陸からの渡来人が多いかのように扱われていますが、必ずしも全てがそうではないのです。
ここまでが日本古代史の解明を困難にしている主な理由です」
たしかにそう言われてみると目からウロコかも。
世界史と違って、やけに日本史の前半ってザックリしているから、おかしいと思ったのよね。
加茂教授は続けて日本古代史の枠組みについて話をした。
「それでは、そろそろ本題に入りましょうか。
日本の古代史は、大きく分けて次のように分類されます。
・紀元前: ~約10,000年・・・古代文明の南東の大陸の世
・紀元前:約10,000年~6,700年・・・縄文の世、国政の空白期間
・紀元前:約 6,700年~6,200年・・・天の世
・紀元前:約 6,200年~4,400年・・・天の御中の世
・紀元前:約 5,300年頃 ・・・九州の南側の島で巨大な火山の大噴火
・紀元前:約 5,000年頃 ・・・縄文大海進で日本周辺の海峡が海没
・紀元前:約 4,400年~3,900年・・・高天原の世
・紀元前:約 3,900年~3,400年・・・豊葦原の世
・紀元前:約 3,400年~ 660年・・・鵜茅葺の世
・紀元前:約 660年~ ・・・人皇の世、大日本国の建国
・紀元前:約 100年頃 ・・・大陸から水田形式の稲作の伝来
日本の古文書では人類の歴史は約180万年前から始まりますが、神話の世界は割愛させていただきます。
ただし、最近の考古学の研究ではアジアで発見された最も古い人骨が、おおよそ近い時期のようです。
次に日本の周辺の海峡の説明です。
紀元前の約18,000年頃の氷河期の終わりに大陸と地続きでつながっていた海峡が海没します。
そして紀元前の約5,000年頃の縄文大海進で日本の主要な海峡が海没します。
逆を言えば、それまでの時代は冬の時期などに自由に海峡を徒歩などで浅瀬を渡れたのです。
しかし、その後は日本の周囲を海原が囲み、大規模な人数での自由な往来が困難になります。
次に古代文明の南東の大陸の世です。
最初は古代文明の南東の大陸の世です。
この古代文明は今から約12千年前に海に沈みました。
世界中の古代文明は直接的な土地や文明としては大半が失われましたが、日本は直接的に古代文明を引継ぎをした数少ない例外でした。
現代に続く、今の日本としての歴史は、これ以降から始まったとも言えるでしょう。
次に縄文の世です。
しばらくは地海空が荒ぶる暗黒の時代でしたが、徐々に人口も増え、文明を復興し、縄文時代として形が整います。
縄文時代として安定してからは、空前の平和な時代が続きました。
縄文社会は、古代文明の南東の大陸と同様に女性を中心とした社会でした。
縄文人は調和的な社会で上下関係も無く、戦争による死者の骨もほとんど見つかっていません。
言語では神代の文字として、世界でも珍しい文字数の文字が普及していました。
縄文の人々の土器は、大陸から来た弥生の人々よりも、高度な技術で作られた土器でした。
あれだけの装飾の土器が、約1万年近く形も崩れずに保存されているだけでも、いかに高い技術で作られた土器だったか想像がつくでしょう。
北の大地で発見された土器は世界最古クラスで約2万年近い前に作られたと鑑定が出ています。
海外でまともな文明があった地域でも、せいぜい約6千年前ですので、まったくもって驚くべきことです。
古代文明の南東の大陸は、現代のように金属が中心ではなく、石が中心のテクノロジーだったようです。
よく巨石文明とか言われているのではないでしょうか。
現代でも解読不能な石を使った高度なテクノロジーが存在したようです。
縄文人も居住地の近くに多くの巨石を残しました。
縄文人は当時は日本の広域に住んでいました。
しかし、こうした永遠とも思えた永い日本の平和な時代は、大陸からの弥生人の帰国により終焉が到来します」
そうそう古代文明と歴史の教科書の間に空白期間があるのが謎だったのよね。
まあ全部流されちゃったから、リセットされて最初からやり直しなのは仕方がないけど。
そんなに簡単に文明の知識って全部忘れるものかしら。
加茂教授は用意されていた水を飲むと話を続けた。
「次に天の世です。
天の世は、約500年間で7世代ほど続いたと言われています。
当時は寿命が100歳を超えるような長寿が多かった時代です。
長寿の理由は、地球の自転速度や、地球の次元の高さの違いなども影響しています。
ただし体感的には、そこまで人生が長くは感じなかったようです。
大陸を中心とした人口は約10万人ほどだったそうです。
国内の地域は四州に分かれて管理されていました。
四州は北陽、東陽、西陽、南陽と呼ばれていました。
東洋と西洋という言葉は、漢字は違いますが今でも使われていると思います。
中心地は天つ国、または天竺、須弥仙の山、天台山とも呼ばれていました。
まだ当時の弥生人の祖先は大陸に住み、日本国内に中央政府を設置していません。
ただし、あくまで日本から大陸へ移住した人々が中核だという点を忘れてはいけません。
その後の時代にも九州の南側の島で起きた巨大な火山の大噴火の影響で、日本から大陸へ移住する人々は増えました。
生活環境としては、加熱した調理法なども徐々に広がりました」
日本史なんだか世界史なんだか、ちょっとよく分からないわね。
そう言えば地名の名前の後に陽ってたしかに今でもあるわね。
この当時から伝わっているのかしら。
加茂教授は咳払いしてから話を続けた。
「次に天の御中の世です。
天の御中の世は、約1,800年間で15世代ほど続いたと言われています。
大陸にいた人々を含めた人口は約35万人ほどだったそうです。
天の御中の世の大半は、大陸が中心の時代でした。
この時代は中東の地域まで広域で活動していましたが、ある時代を境に中東の地域から徐々に東洋へと活動範囲を引き上げていきます。
中東の歴史書には、姿を突然消した謎の部族の話が、多くの古文書に記述されていますが、日の出づる国へと帰国したためです。
天の御中の世の終盤にあたる第15代目の時代に、弥生人の祖先たちが大陸から日本の蓬莱山を目指して移住を開始します。
大陸からの海路では、多くの龍船が準備されました。
大陸からは、飛騨の山へ登り富士山の位置を確認し、駿河を経由して、富士山に到着しました。
大陸から移住してきた弥生人の祖先たちを中心に、日本国内に中央政府を設置しました。
日本の歴史上では、現代に近い政府組織の原点と言えるでしょう。
この中央政府の設置により、次の高天原の世へと移行していきます。
日本国内の中心地は富士山ですが、当時は二つと無い山として不二山または蓬莱山、日の山と呼ばれていました。
不二山は、その後に福地山を経由して現在の富士山へと改名されます。
この中央政府に所属する小国は徐々に拡大され、大州18州へと広がっていきました。
ただし縄文時代から続く土着の無所属の小国が多数あったため正確な国数ではありません。
日本の中央政府に抵抗して所属しなかった代表例では、東北の日高見国などがあります。
日本の中央政府が編纂した古史古伝では、縄文時代から続く独立維持を主張する部族を、外来の反乱軍や蛮族かの如く書かれていますが、勝者による一方的な歴史の代表事例とでも言えるでしょうか。
生活環境としては、当時は洞窟に住み、石器を使って調理し、火山の焼け火で焚き火をしていました。
陸稲、粟、麦なども栽培されていました。
魚の骨で釣り針を作り、釣りなども行われました。
土器、塩、酒なども加工して生産されています。
草木などから原始的な丸薬なども調薬され始めました」
弥生人って大陸から来たって話は聞いてはいたけど、やっぱり組織的な感じなのよね。
当時の大陸って戦争が続いていたはずだし、勝つのは無理そう。
加茂教授は少し神妙な顔で話を続けた。
「ところで弥生人による縄文人との融合について補足をしておきます。
大陸で侵略者に国を追われ避難民として移民してきた弥生人たちは自分たちの安住の地に渇望していました。
弥生人は、大陸から移民してきた当初の頃は融和的な姿勢でした。
ところが地球環境の変化による気候変動や海の海進海退などで状況が刻々と変化していきます。
食料を調達する環境の変化により、居住地の変更をせざるを得ない状況が生まれました。
弥生人たちは寒さや飢えに苦しむ家族のためにも、決死の覚悟で侵略を進めていきます。
その結果、縄文人は日本の中央部の土地を放棄して地方へ移住するか、弥生人と融合するのか判断を迫られます。
縄文人は平和で調和的な社会でしたが、恐らく武器の扱いも苦手なのではないかと推測されます。
大陸からやってきた弥生人に対して、縄文人が軍事力で対抗するのは困難だったのでしょう。
弥生人が大陸から持ち込んだ鉄製の武器や馬は、縄文人の青銅器や石器に対して戦闘力で圧倒しました。
大陸流の戦争は、捕虜の奴隷化という概念を持ち込みました。
奴隷は奴と呼ばれ、許可なく外出も許されず、使用人としての労働を強いられました。
弥生人の侵略を受けた当初の縄文人の軍隊は、正規の整備された軍隊などからは遠かったようです。
当時の戦争の状況を表す古文書には、先祖伝来の土地を守るため、狩りに用いる弓矢とり、山に用いし斧をとり、海に用いしモリをとり、撃ちてしも、止まらぬ侵略者の敵と書かれていました。
例えると、北中南米の先住民たち数百万人が、ヨーロッパから船でやってきたわずか数百人に土地を明け渡すのに近い印象でしょうか。
当時の銃など弾数や連射性能もたかがしれており、本気で戦えば戦争などと言う次元にはならないぐらい一瞬で殲滅することが可能だったはずです。
それでも戦うという概念すら持つことが難しいぐらいの特別な状況だったと理解すべきでしょう。
この後でお話をする人皇の世の時代には、縄文人をトップとする部族は、一部の地域を除いてほとんど消滅しました。
一般の民衆レベルの人々は、縄文人としての純血は薄まり、弥生人との融合が進みます」
なんだかちょっと怖くなってきたわ。
おなかが締め付けられるような感じがする。
加茂教授は端末の画面を操作しながら話を続けた。
「次に高天原の世です。
高天原の世は、約500年間で7世代ほど続いたと言われています。
この7世代は天神七代とも呼ばれていますが、東アジアにある似たような神話の伝承と引っ掛けた後の時代の表現だと推測されます。
人口は約38万人ほどだったそうです。
この時代ではタカマという言葉は大宇宙と宮中の両方に使用されたようです。
神社に祀られているものの詳細が不明な古代の神々は、おおよそこの時代の世代です。
この時代は、謚と呼ばれる、名前を他人に贈る行為が日常的でした。
生まれた時の名前は途中で使われる頻度が下がります。
重要な役職に着任した時に新しい名前が贈られます。
そして亡くなると新しい名前が贈られます。
おおよそ現代に伝わる古代の神々の御名は、亡くなった時に贈られた名前です。
ところが古文書で書かれた現役時代の話には中間の名前が使用されているため、対比表が無いとパズルのようで追跡が難しいのです。
神社に残る御祭神の名前も、3種類の名前のどれが使用されているかで、同一人物の名前が違ってきます。
また謚は現役時代でも複数回も変える場合があります。
例えば大きな戦果を挙げたので、以降はこの勝利を記念した新しい名前で名乗るが良いといったイメージです。
また当時はカタカナの名前でしたが、後世に現代でも認識されている漢字をベースとした名称に変更されている場合もあります。
高天原の世は、天の御中の世の第15代目と同時期に大陸から移住した、子供たちの五男と七男の2柱が、国づくりの中心を担いました。
兄の五男は先発して上陸し、富士山に到着していましたが、大陸では行方不明という扱いになっていました。
弟の七男は後発して、兄の五男と富士山の周辺地域で合流します。
日本の中央政府は、この兄弟の子孫を中心に天つ神、国つ神として管轄範囲を定めました。
天津は直系の中央政府、国津は地方政府に近い意味と推測されます。
日本の地方政府は大州18州に分割され、現代の都道府県のような扱いとされました。
例えば佐賀見または相模、陸奥、越地前または越前、大湖または近江、丹場または丹波などが代表的でしょうか。
ただし実際には主要な部族が各州ごとに独立した自治権を持つ国家を運営しているような状況であって、日本の中央政府からの指示命令系統があるような強固な関係性ではありませんでした。
日本の中央政府を自負する組織集団は、日本の主要な部族たちを束ねるリーダー的なポジションとして、内外に情報発信をしていたようなイメージに近いのかもしれません。
高天原の世の直系としては次の通りです。
・天の御中の世の第15代目・・・天の御中の世の最後の世代で、大陸から日本への移住を開始
・第1代目・・・先代の子供で七男、第2代目の兄より遅れて大陸から日本へ移住し、日本の国づくりを開始
・第2代目・・・先代の子供で五男、第1代目の弟の後を継承
・第3代目・・・日本の四方の州の国政を司った、国法や子孫の礼儀を定めた、ナメコトと呼ばれる年中行事を体系化、知者として有名
・第4代目・・・明確に夫婦による后の制度が始まる
・第7代目・・・古史古伝の瀬戸内海から日本を創成した神、子供の世代は豊葦原の世の第1代目となる
富士山の麓に広がる高原地帯は、高天原と呼ばれていました。
この高原地帯の土地には穀物や実がなる草木も豊富でした。
湖や川なども多く、水が豊富にありました。
また温泉や火も簡単に入手が出来たため大変便利でした。
ただし現在は何度も富士山が噴火したため、地形や湖の形が段階的に変わり、ただの樹海などになっています。
生活環境としては、衣服は葛葉の蔓に柏、芭蕉などの葉を結び付けた服を着ていました。
また首にかける名札のストラップとして藤の蔓に木の実をつけたものを着用し始めました。
中央政府に所属する役人にはこの首にかける名札のストラップ着用は義務付けられました。
ちなみに木の実の種類で役職の高さが表現されています。
木の実にはクリ、楢、ナツメなどの実が採用されました。
文字は石を平らに削って万物の形状を元にした文字を彫って書かれました。
数学も発展し、小さな木で作られた簡易的な計算用の機器も発明されました」
日本の神さまの名前が、ややこしいのって、謚で名前を変えていたせいだったんだ。
ようやく謎が解けたわ。
加茂教授はハンカチで顔をふくと話を続けた。
「次に豊葦原の世です。
縄文時代の大海進が終わり海水が徐々に無くなると、湿地の平原に葦が豊富に生えてきたようです。
葦は稲の仲間の植物で、枯れた葦は後の時代の水田の肥料となったと推測されます。
豊葦原の世は、約500年間で4世代ほど続いたと言われています。
この4世代は地神五代とも呼ばれています。
数が合わないのは次の時代の1世代も加えているためです。
人口は不明ですが、軍勢を約21万人も動員した記録があるため、人口は約100万人を超えた可能性があります。
神社に祀られている主要な神々は、おおよそこの時代の世代です。
古史古伝に書かれている天孫降臨の神々の時代でもあります。
第1代目の時代は、日本で最も有名な太陽神の日の御子の時代です。
日の御子は、ヲオンカミまたは大御神という役職に着任しました。
また着任のしるしとして、大御神の三品の御宝を定めました。
正月に生まれたとの説もあります。
過去の世代に世継ぎが生まれない問題が発生したため、この世代から一夫多妻制に移行しています。
ただし姫の間での争いが内戦にまで発展する事態が発生しました。
第1代目の世代に紀州への道が整備されました。
日の御子の兄弟は弟は4~5柱います。
一人目の兄弟は日海の御子で、海の御子として大海を管轄しました。
幼い頃は大きな病気を持ち地方で養育を受けたとの話がありますが、後年は大海を治め船に乗る恵比寿として有名になります。
なお、一人目の兄弟の性別は男性の彦と女性の姫の2つの説があり、詳細が不明です。
二人目の兄は日夜の御子で、生まれる前に亡くなられました。
三人目は日の御子本人で、大御神として四方の州を管轄しました。
四人目の弟は月の御子でしたが、山の御子として山林を管轄しました。
五人目の弟は詳細は不明ですが、大陸からやってきた王との関係や、岩戸に隠れる昔話との関係があるとの説もあります。
大陸からやってきた王は日本の中央政府に登用され、西日本の日本海側を中心とした重要な役職を担ったと言われています。
月の御子の子供たち兄弟には、山住の御子が複数名いて、八男までは確認されています。
子供たちの中でも長男の山住の御子が有名ではあるのですが、さらにその子孫が誰なのかは、特定が難しく詳細が不明です。
神社の御祭神に書かれた名前も似たような名前が多いので、学者泣かせで非常に混乱を招きます。
さらに山住の御子たちの子供たちでは、1代目ヒメの水と祓いの姫神さまや、3代目ヒメの富士山に祀られている花の姫神さまが有名です。
水と祓いの姫神さまは桃の節句や祝詞でも有名です。
花の姫神さまは桜でも有名です。
富士山の近隣の神社などでは二柱の姫神を象徴する桃と桜のシンボルを頻繁に見ることが可能です。
生活環境としては、衣服は藤の蔓を鍛えて編んだ衣服が広まりました。
日の御子は穴居を中心とした住居から、木材を使用した家屋へと移住をするように政策の方針を定めます。
日の御子は、里住の一族と呼ばれ、都市部の政治を司り、全国の農業を管轄しました。
里住の一族は、日本の中心的な一族として拡大しながら発展していきます。
山の御子は、山住の一族と呼ばれ、山守である木材の管理者として、全国の山林を管轄し、林業と建設業、金属鉱業を拡大しました。
山住の一族は、後の時代に山に住む部族として、他の里の部族とは別の独自路線で、林業や金属鉱業などにより経済的に大いに繁栄します。
ただし山に住む部族は、江戸時代の終盤からは歴史の表舞台から徐々に姿を隠します。
この部族の聖地の山は、江戸時代には関所を設置せず手形が無くても詣でることが可能なほど優遇されており、江戸からの多くの参拝客で賑わっていたようです。
この部族の中の武闘派などの一部は忍者、山伏、修験道者などと呼ばれる者になった者たちもいるようです。
ただし日本の近代化により法制度が改定されて廃止または禁止されていきます。
戸籍制度や義務教育制度により山で移動しながら住み続けることも困難となりました。
現代の歴史書では、もはや山に住む部族の痕跡を探すのすら困難な状況です。
海の御子は、海住の一族と呼ばれ、海守の総頭として、全国の漁師たちを管轄し、漁業を拡大しました。
また大陸との交易や、交流により、里や山の一族とは違う一面を持つのも特徴的です。
龍宮城の伝説は、海住の王である海神と、王女の人魚姫が登場しますが、太平洋側の九州と四国の各地方、日本海側の山陰の各地方と島々には、有名な遺跡が多数あります。
海住の一族は、海神、少童、安曇、厚見、会見、海人、蛭子、江比住、恵比寿、夷子などと呼ばれることもあります。
ちなみに海の神々は、海上と海底で管轄が違うようです。
龍宮は海底の神々の管轄で、船による航海などよりも、海底の漁業にご利益があります。
里、山、海の一族は、その後の日本の三大勢力として覇権争いを展開し、現代までも引き続き禍根を残します。
生活環境としては、農業が本格的に拡大され、倉庫での保管方法も確立され、臼杵も活用され始めました。
牛は農業に活用されました。
農作物はアワ、ヒエ、芋などが時代ごとに徐々に拡がっていきました。
井戸の採掘も拡大していきます。
土器が作られ、調理方法も煮たり、煎じる方法など発展しました。
鉄や金属を焼いて鍛え、剣や鉾が製造されました。
馬や鹿への騎乗が始まりました。
第2代目の時代は、水と祓いの姫神さまの子供の時代でした。
ただし、このあたりの時代は古史古伝を含めて諸説あります。
時代の経過により隠されていた理由などが徐々に明らかになっていますが、断片的であくまで推測の域を出ません。
世が末法になれば穢されるため、後世に正しい形のまま残すため封印したとの説もあります。
第3代目の時代は、大陸からの本格的な大軍が九州に進軍してきた時代でした。
この戦争では軍勢を約21万人も動員した記録があり多くの戦死者と負傷者が出ました。
戦争の終盤には、数万隻もの敵軍の軍船を、火計、弓、投石で撃破しました。
第3代目は、結婚相手で、富士山に祀られている花の姫神の昔話が有名でしょうか。
ちょっとした不倫に対する勘違いから、新婚夫婦に哀しい悲劇を生み出す昔話です。
第4代目の時代は、龍宮城の伝説の時代です。
3兄弟いた海の長男、農の二男、山の三男の昔話が有名です。
山の三男は、長男の大事にしていた釣り針を海に紛失してしまい、長男からの激しい叱責を受けて、龍宮に身を引きます。
山の三男は、龍宮でしばらく暮らし、龍宮の姫と結婚します。
その後、山の三男は遺言で三品の御宝を相続し、日本の中央政府に復帰します」
なんだか話についていけずに混乱していたけど、やっと頭が整理されてきた感じがする。
意図的に残された昔話って、何かあやしい感じがするわね。
それにしても、そんなに大きな戦争があったなんて驚きだわ。
加茂教授は少し冷静になって話を続けた。
「ここからは少し話が脱線しますが、東北を中心とした地域の歴史について話をしましょう。
東北を中心とした地域は、縄文人の歴史を最後まで受け継ぐ地域です。
縄文時代に大海進していた頃は、北海道や東北も現代のような地続きではなく、飛び地や島々に別れていた時代がありました。
こうした島々を千島と呼びました。
千島とは千の島の意味で、現代のような日本の北東の方面にある島々だけを指す言葉ではありませんでした。
千島の中心部は、日高見国と言われていました。
日高見国とは、天つ日の空に真秀に高くある国という意味です。
また、日が昇る元にある東の最果ての国を日の本の国とも呼ばれていました。
真秀または秀真とは真実や本当という意味です。
日高見国は別名では日の本の国とも呼ばれていたのです。
日高見国の中心地は東北の最北端にあり、東日流と呼ばれていました。
東日流には7つの郡が存在し、縄文人の「ア」または阿祖の名を世襲する一族がいました。
阿祖の一族は、阿祖の山を中心に生活をしていました。
阿祖とは原始の父なる最高の山との意味もありました。
アソビまたはアソベとは山野で狩猟をしながら居住地が定まらないという意味もありました。
縄文文化が色濃かった時代は移動しながら狩猟や漁業で生活を送っていたようです。
寒さをしのぐために洞窟や地下などの穴も有効に活用したようです。
屋根は葦を使い、服装は毛皮を着用し、薬草なども有効に活用していました。
古代文明の南東の大陸の特徴である入れ墨、タトゥーも目立っていたようです。
古代文明の南東の大陸が海に沈んだ後は、陸地は厳しい環境が続きましたが、海の中の食料は健在でした。
また、氷河期などを生き抜くためには必要不可欠な生き方でもあったと言えましょう。
東日流の縄文人は南方より移り来るとだけ記録が残っていますが詳細は不明です。
北方でも西方でもない点が重要なポイントですが、現代では東日本の南方は太平洋です。
言語は独特な神代の文字を使用していました。
この地域では、現代でも日本語として聞き取りが困難な方言がありますが、その理由のルーツとも言えます。
数字は億や兆の桁を表現する文字まで保有していました。
極めて高度な文明レベルを引継ぎした可能性が垣間見えます。
阿祖の一族は、太陽神のイシカまたはインカルの神威として日輪の男性神を信仰していました。
この地域の古い神話では、はるか昔に太陽が2つに増えたため、植物が枯れ果ててしまったという話が残っています。
太陽神は、大きな熊を派遣して片側の太陽の輝きを止めて、月に変えたそうです。
大きな熊は、首の下部に月のシンボルがあるのが特徴で、月輪熊とも呼ばれています。
現存する太陽神の絵は、大きな熊に乗った姿で描かれているのは、この神話にも関係があります。
2つの太陽の1つが月に変わったことで、太陽神は太陽と月の神へと変わります。
別名では丑寅の方角にいる神として、日と月と地の大神と呼ばれ。
短く言葉を要約すると艮の日月地の大神となります。
ちなみに東アジアの古い伝承でも、太陽が複数に増えて大地を焼き尽くしたため、神々が太陽を射落としたという伝承が残っています。
ただし、その結果として、大雨により東アジアの広域が水没したとの話が続きます。
これは古代文明の南東の大陸の最後を示唆するような物語に感じます。
ただし東北の神話には水没の記述が無く、水没を逃れているのではないかと想定されますが、これは歴史上の重要なターニングポイントではないでしょうか。
地球神としてはホノリの神威として、大地と大海原の男性神と女性神を信仰していました。
ホノリは大地や山岳、ツボとは大海原の意味です。
現代のように地球神霊として男性神テロスと女性神ガイアを信仰する思想があったのは驚くべきことです。
さらに太陽神と地球神とは別に、ダミの神威として、輪廻転生の運命を司る神を信仰していたようです。
ダミとは輪廻転生の意味です。
ダミ神は遮光器土偶に似た偶像で表現されています。
これらの艮の方角の神々は、侵略者が信仰する神々に置き換えされて封じ込められてきましたが、現代でも東北の一部の地域で信仰され続けています。
こうした縄文人による調和した平和な時代に変化が起きます。
東アジアの大陸から戦乱を避けた避難民の移民が日高見国に漂着します。
この大陸からの移民は海の一族と呼ばれました。
後の時代では津の名を世襲する一族として、他の地域へも勢力を拡大していきます。
海の一族は、草木の衣服、新しい土器、弓などを持ち込みました。
その後、海の一族は徐々に勢力を拡大し、阿祖の一族と紛争が増加していきます。
阿祖の山が大噴火を起こします。
大噴火では一夜にして森を火の石で埋め、住む人々も生き埋めとなり、森の木々が岩のようになったとの伝承が残ります。
この噴火により阿祖の一族は大半を失ったようです。
阿祖の山は、大噴火後は畏怖の意味も込めて、岩鬼の山とも呼ばれるようになりました。
阿祖の一族が弱体化したタイミングで、海の一族は攻勢を強め、一時は占領されます。
ところが、阿祖の一族に一人の英雄が登場して反旗を翻し、かろうじて独立を維持することには成功しました。
その後は阿祖の一族は山住の一族、海の一族は海住の一族として住み分けされていきます。
この阿祖の一族と海の一族との抗争の時代に、さらなる混乱が起きます。
紀元前の約2,000年頃の時代に新たに大陸から東北の日高見国に漂着した荒吐の神を信仰する移民です。
この大陸からの移民は、東アジアどころではなく、はるか西から南アジアと東アジアを経由して、永い年月をかけて移動してきた一族でした。
この荒吐の一族は、はるか西の国々から複数の地域で定住を試みますが、いずれの国でも侵略者に土地を奪われ、避難民となった一族です。
アラとは蛇または龍神の意味で、ハバキとはサイの木の意味です。
サイの木とは木に藁で作った蛇または龍神を巻き付けた御神木を意味します。
同時期に大陸から東北に渡来した一族は、古代文明の西の大陸の後期に拡大した生贄を捧げる神事を大陸から持ち込みました。
偶像では、南アジアの地域に多い蛇または龍神に由来する形状の偶像が多いのが特徴的です。
神事に使用する土器なども、はるか西の地域や南アジアのような雰囲気の複雑な装飾の模様や形状があります。
その後は北の大地、信州、西日本の日本海側の地域にも類似した神事を拡大していきます。
阿祖の一族と大陸からの移民である海の一族、荒吐の一族による三つ巴の抗争は激しさを増し、徐々に勢力図が塗り替わります。
この後でお話をする人皇の世の時代には、紀元前の約600年代に起きた内戦で敗れた耶馬台の亡命者たちが荒吐の一族に合流しました。
荒吐の一族は、東北の日高見国に強力な軍事力を育成するための基盤を持ち込みました。
耶馬台の亡命者たちは、西日本の奪還に執念を燃やし、最精鋭の軍事力の増強を進めました。
そして日本を二本と呼ばれる二大国家体制に分裂させていきます。
東北の日高見国では国内有数の金の採掘場の開発が進み、後の時代の日本の中央政府の政治闘争に対して大きな影響力を持ちます。
農業では、東北に陸稲の生産手法を持ち込みました。
天然の良港に恵まれ、漁業、貿易、水軍が発展しました。
貿易は日本の中央政府とは内密に行われ、産出した金を効果的に活用しながら巨額の富をもたらしました。
大陸から輸入した軍馬の育成には秀でており、北海道と東北が日本有数の名馬の産地となります。
東北の日高見国で古来から信仰されてきた、太陽神のイシカ神は荒吐の神となり、地球神のホノリ神は海の神へと融合します。
オマケですが水神は勝津波の神となりました。
海や水に対して、津という漢字や、ツボやツバといった言葉が入るのが、この地域では特徴的ですね。
時代が進むにつれて荒吐の一族が優勢となり、阿祖の一族と海の一族の名称は徐々に知名度が下がっていきます。
そして荒吐五王と呼ばれる5つの部族による体制へと変わっていきます。
日本の中央政府に州と認められてから東北の日高見国の名称は奥州とされ、同時に安の氏も与えられ、一族の名称を変えます。
ただし、あくまで日本の中央政府が一部の部族を優遇することで五王を内部分裂させるための政略でした。
ここまでの話で、東日流の地域に独特の方言や、縄文の大規模な遺跡群、大きな石がサークル状に配置されている場所、ピラミッドなどがある理由がご理解いただけましたでしょうか」
なるほど。
ようやく安倍さんの神社の周辺の謎が解けそうだわ。
加茂教授は再び咳払いをしてから話を続けた。
「ここからは他の地域の縄文人の流れを受け継ぐ部族についても少し話をしましょう。
1つ目は北の大地です。
縄文時代に北の大地に住んでいた部族は愛野人などと呼ばれ、野を愛する人々という意味のようです。
東北の日高見国の中でも特に北方に住む部族を日高北見の蝦夷の一族と呼ばれていました。
東の夷の中にあった日高見国の北の一族という意味です。
北の大地の古い文化を研究すると、縄文の文化の一部が垣間見えます。
しかしながら長い時間の間に大陸や北米の文化が流入しており、縄文の文化を見極めるのは難しいかもしれません。
縄文の文化の類似性を例で挙げると例えば村は村長を中心に相互扶助の文化でした。
家屋の構造なども縄文の文化の一部が感じられます。
入れ墨、タトゥー、装飾品などにも類似性があります。
肉体と魂を分離するという概念も普通に存在し、霊性の高さがうかがえます。
温泉を使った「波動」療法なども興味深いでしょう。
2つ目は西日本の日本海側の地域です。
西日本の日本海側では、古くは縄文人が住んでいましたが、その後の時代に蒙古斑を持つ人々のルーツに近い部族が大陸から移民してきました。
この部族は日見の名前を冠する部族です。
日見の部族たちも、大陸から帰国した夜見の部族たちと永きに渡り激しく対立し続けます。
さらに紀元前の約2,000年頃の時代に、はるか西の国々から南アジアと東アジアを経由して渡来した部族も移民してきました。
この一族は東アジアから北海道と東北を経由して日本海に沿って西日本の日本海側の地域へやってきました。
一時期は東北の日高見国にも滞在していたため、一定の交流があったようです。
この一族は南アジアから高度な製鉄の技術を持ち込みました。
後の時代では、この製鉄技術を使って輸出産業としても発展します。
日本海側の各地域には現代でも有名な鍛冶の技術が残っているのではないでしょうか。
また社会基盤としては一夫一婦制だった点も特徴的でした。
当時の時代の世界を見渡しても、一夫一婦制は珍しい制度だったと考えられます。
紀元前の約600年代には西日本の日本海側の地域は一つの王朝として統一が進みます。
当時のこの地域の王朝では役職名として国王をオオナムヂ、副国王をスクナヒコと呼びました。
他の時代や他の地域とは役職名の呼び名が若干違うかもしれません。
特に8代目のオオナムヂである大國の神が、全国的に有名ではないでしょうか。
さらに紀元前の約200年代には、新たな移民が渡来します。
それは東アジアの大国から派遣されてきた勅命の使節団です。
使節団は2回目には約3,000人規模が渡来し、3回目にも約3,000人規模が渡来したと伝わります。
この使節団は、この地域の王朝の中に定住し、有力な勢力として権力を拡大していきます。
東アジアの大国は北方の騎馬民族が、日本の鉄製の武器を使用していた事を憂慮し国交を強化しようとしたようです。
この使節団はハタ織りや土木工事などの新しい技術を日本に持ち込みました。
縄文人には他にも九州の南部に熊の名や、隼の名を世襲する一族が残っていましたが、そちらは地理的に独立を維持するのは困難でした。
他には関西と北陸に三毛の名を世襲する一族も各地にいたようですが、縄文人か弥生人か判別不能です。
九州のさらに南の島には、縄の名を持つ地域が今でも残っていますが、こちらも関係性の詳細は不明です。
土蜘蛛と差別用語で呼ばれる詳細不明な部族もいましたが、穴式住居に住んでいた縄文人を蔑む表現だったようです」
どこもかしこも内乱で大変な時代ね。
加茂教授は水を飲んで気持ちを落ち着せると話を続けた。
「それでは話が長くなりましたが脱線した話を本筋に話を戻しまして、次に鵜茅葺の世です。
鵜の羽で、赤子の産殿のかやぶき屋根を作り終えることが出来ずに、先に赤子が生まれてしまったという経緯が元になって命名されました。
この産殿は、富士山に古代にあった宇宙湖と呼ばれる大きな湖にあった島に建設されました。
鵜茅葺の世は、約2,700年間で51世代ほど続いたと言われています。
人口は詳細が不明ですが数百万人ほどだったようです。
第1代目の時代は、大陸からの大軍が、再び九州に進軍してきた時代です。
国の命運を決める大規模な戦争に対して、九州から富士山の高天原の中央政府まで、早馬の伝令で指示を都度確認するのは限界に達していました。
日本の中央政府は、軍事作戦への迅速な対応をするため、首都機能の主導権の一部を九州へ移管する決意をします。
富士山の高天原から九州へ出発した先発隊だけでも約10万人規模の移動となりました。
首都の場所は、九州の日に向かう高い千の火の峯を表す地と定めます。
この地名は富士山を表現した言葉を元に命名されました。
首都には山住の御子たちに命じて、新たな宮殿を建設します。
霧の中の島のような山は、富士山に代わる新たな神山とされました。
この戦争では多くの幹部将校を失います。
新たな神山では、戦死者たちの霊魂を祀り、慰霊がされました。
また中央政府では軍功により昇降格がなされるようになり、中央政府内部の派閥勢力も軍部の影響が大きくなります。
首都移転から約4年間が経過し、大陸の大軍を撃退し、平和な時代が訪れました。
農業では、九州に陸稲による稲作が持ち込まれ、九州における食料の生産量が飛躍的に増加し、国力を増強させました。
この陸稲は太古に一掴みの稲穂を持って九州に至る日向の一族によってもたらされました。
日向の一族は、時代と共に九州の南東側のエリアを中心に勢力を拡大し、鵜茅葺の勢力との融合が進みます。
そして日向の一族は、同じく九州の北西側のエリアを拠点にしていた猿の一族との融合も進みます。
第3代目の時代は、日本の中央政府の首都機能の主導権の一部を再び富士山の高天原へ取り戻そうとして内戦が起きた時代でした。
高天原の世から続く地方政府の大州18州は継続されていましたが、当時とは地域の分け方が少し変更されています。
大州18州には守護国司が任命されていました。
さらに追加で小国48か国を定め、国守司を任命して管理が強化されていました。
こうした地方政府の体制強化が、内戦の原因になったのではないかと考えられます。
第4代目の時代は、海賊の増加と鎮圧へ向けた戦いの時代でした。
第11代目の時代は、盗賊の増加と鎮圧へ向けた戦いの時代でした。
盗賊の対策として、小国48か国の国守司の配下に令長を任命し、盗賊の取り締まり強化がされました。
第24代目の時代は、大陸からの大軍が、再び九州に進軍してきた時代です。
ただし戦争へは拡大せずに、神風の大暴風により事態は収束します。
こうした神風は、現代でも良く知られている元寇の時代にも二度も起きていますが、過去の時代でも類似した事象が何度も起きています。
はたしてこれは偶然なのでしょうか。
第36代目の時代は、大陸からの大軍が、再び九州に進軍してきた時代です。
戦争は約3年間も続きました。
第44代目の時代は、全国に道路網を整備した時代でした。
第49代目の時代は、反乱による約17年間もの長期内戦と、大規模な地震が発生した時代でした。
第50代目の時代は、天候不良による不作で大飢饉が発生した時代でした。
この時代の周辺では約60年の周期で大飢饉が発生していました。
この事態を収束させるために、九州の南部を中心に神社が再編成されて整備されました。
また宮殿内での朝と夕方の祈願も毎日実施される慣例が始まりました。
第51代目の時代は、最後の天の神代の時代となりました。
小国48か国のさらにこまかい単位として郡、村が整備されました。
徴兵制度により軍役が義務付けられました。
軍隊では元帥をトップとし、大師、中師、小師、五長師、十長師、五長など階級を定めました。
この時代には大地震が発生し、大飢饉も起き、動乱の時代へと進みます。
こうした時代背景を受けて、主要な勢力である12部族を中心とした大州18州の州同士で大規模な地域紛争が発生しました。
この12部族は5畿7道を巻き込む群雄割拠の時代となります。
こうした戦乱の世は、ある伝説上の国津の行政官の高官であった人物により終結されます。
この紛争の終結には、大陸の国家にも協力を要請し、大規模な援軍が増援派遣されます。
大陸の国家への協力要請が後の時代で売国行為として批判を呼ぶことになります。
ただし当時の時代背景として、大陸の国家と日本の有力な部族とは、現代では考えられないぐらいに人的な交流が活発で血縁関係も多かったようですので、必ずしも売国行為とは言い切れないかもしれません。
例えば当時の大陸の国家にあった地名と、現代の日本に類似した地名がまだ多く存在しているのも、当時の名残ではないでしょうか。
こうして日本としての初めての統一的な共同体の体制が構築されました。
この新しい日本の統一的な共同体の体制を総称して耶馬台の国と称されました。
ただし、現代のような国家体制ではなく、あくまでゆるやかな共同体の域を出ません。
なお、より大きな概念としてのヤマトの概念は、もっと古い時代から使われていますが、統一的な国家体制では無かったという点が歴史上のポイントとなります。
しかしながら新しい耶馬台の国家体制に対して、九州を中心とした勢力は抵抗を続けました。
九州を中心とした勢力は戦争への対応の強化をするため、九州から紀伊半島へ一時的に主力を移転しました。
しかし九州を中心とした勢力は、分散させて配備してしまった軍が各個撃破され、九州を除く地域は、壊滅直前まで追い込まれます。
こうして鵜茅葺の世は終焉を迎えます」
九州ってたしかに天孫降臨で有名だけど、なんだろうって思っていた。
まさかそんな激しい大陸との戦争とか、内戦があったなんて知らなかった。
周囲の受講生たちも、興奮してきた様子で、なんだか熱量がスゴイ雰囲気だ。
加茂教授は興奮した口調で話を続けた。
「次に人皇の世です。
人皇の世が始まるのは紀元前の約600年代の頃の話です。
これ以降の世代は今日のテーマではありませんので省略しながら進めさせてもらいます。
第1代目の時代は、鵜茅葺の世の最後に起きた耶馬台の国の制圧と、新しい国づくりがテーマでした。
第1代目は、九州からの東征によって耶馬台の連合軍を徐々に制圧しながら進軍します。
八咫烏に何度も導かれた昔話が有名でしょうか。
九州を中心とした勢力は、まずは九州エリアを制圧し、山陽エリアに進出しますが制圧完了まで約8年もの時間を要します。
近畿エリアの制圧完了にも約3年もかかりました。
海戦では連合軍軍船の数は、連合軍の約50隻と、大陸からの援軍の約500隻で、海を埋め尽くし、まるで陸のように見えたそうです。
ここで再び神風の大暴風により事態は収束します。
連合軍の軍船は海に沈み、重要なターニングポイントでの戦闘を勝利で飾りました。
連合軍は最後に降伏し、主な首脳陣は自決し、連合軍の時代は終わりました。
ただし耶馬台の中心となった勢力は東日流の地を目指し亡命します。
九州を中心とした勢力の死傷者は約25千人、連合軍の死傷者は約68千人、大陸援軍の死傷者は約15千人~約50千人に達したと言われます。
当時の人口から考えれば相当な被害と言えます。
九州を中心とした勢力は一時的に主力を移転していた紀伊半島にあった神社を拡大して造営し、戦死者たちの霊魂を祀り、慰霊がされました。
内戦の戦後処理が終わると、新たな日本の中央政府は、内政の強化をするため、富士山の高天原や九州に分散していた首都機能を近畿へ集約する決意をします。
近畿は日本の中央部にあり、中央政府からの指示伝達の速さや、地方政府の掌握のしやすさがポイントでした。
近畿への首都機能の移転は、飛鳥時代よりも遥かに前の時代の話です。
そして国名を大日本国と定めます。
倭国、和国、大和国、山間処国、耶馬台国といった国名は、このタイミングで終わることになります。
中央政府の御領地と地方政府の管轄も見直しがされました。
大州18州は、新たに大州37州に再編されました。
将軍、県令、村長など馴染のある役職も設置されました。
右大臣と軍のトップを兼ねた役職は大物主と呼ばれました。
その副官の官僚は事代主と呼ばれました。
右大臣は別名で剣臣、左大臣は別名で鏡臣とも呼ばれ、三品の御宝の中の、剣と鏡で象徴されました。
武士、農民、商人などの職業の区分や納税制度も整備されました。
法令と刑罰も明確となりました。
年間の祝日と公的な祭祀を定めました。
現代でもこの祝日は継続されている日付が多くあります。
社会福祉制度が整備されました。
長男と血縁による相続制度を定めました。
農業では陸稲による稲作も全国に拡大していき、水稲による水田への移行する時代を待つことになります。
第7代目の時代に、蓬莱山の不老長寿の薬を求めて東アジアの大国から富士山の高天原に使節団がやってきます。
紀元前の約200年代の話です。
この使節団は、さきほどもお話しましたが、西日本の日本海側の王朝に滞在していた勅命を持つ使節団のことです。
使節団は、おおよそ約600人の従者を従えて富士山の高天原にもやってきした。
使節団の従者には大工、養蚕、製糸、織物、鋳造、酒造、醤油製造などの技術者が多く所属していため、日本の国内に大陸からの新しい技術が拡がります。
また使節団は、富士山の高天原の長老たちに伝わる口伝の聞き取り調査などを通じて、多くの古文書を残し、神代文字やカタカナに代わる新たな文字も伝えました。
この古文書は歴史書として東アジアの大国の手法が踏襲されているため、最も時系列が体系的に整理されている貴重な文献となりました。
なお、富士山の高天原の都は、その後の富士山の噴火による火災と溶岩で遺跡すらも残さずに姿を消します。
ちなみに溶岩で形成された土地を樹海と言います。
現在でも、この幻の都については議論が決着していません」
日本って最初から1つの国だけだと思っていたけど、日本を統一するのって思ったより大変だったのね。
加茂教授は少し冷静になって話を続けた。
「この後の時代は、大陸から日本へ、さらに多くの移民が移住してきた時代でもありました。
理由は東アジアの大陸で長期に渡って続いた王朝の崩壊により、三国が鼎立してから統一されるまで、戦国の時代に突入したためです。
このかつてない戦乱による動乱の時代を避けるため、日本への移民が活発になりました。
大陸からの移民の規模は地域単位での逃避行となり、数千人規模だったと言われています。
そのため関西エリアの大阪、奈良、京都の地域は、様々な勢力が頻繁に軍事衝突を繰り返していました。
敗残した一族に対しては女子供を含む処刑など凄惨を極めました。
処刑では八方から引っ張り引き裂く八つ裂きの刑や、釜茹での刑など地獄の様相を呈しました。
当時は、とても恐ろしくて関西エリアを徒歩で移動など出来なかったとの話もあります。
大陸から日本へ移動するルートは、対馬から九州北部を通り、瀬戸内海を経由して関西エリアに到達しますが、関西エリアでの上陸は極めて危険なため、迂回して和歌山から上陸するルートが採用されました。
大陸からの移民は、馬も日本の馬に比べて大きく、武器も強力な武器を持っていたため、武力で日本の諸国を圧倒しました。
また、大陸からの移住者は、大陸流のやり方を踏襲し、政治闘争も陰惨でした。
水銀などを使用した毒殺なども横行し、権力者といえど安心して寝ていられない状況でした。
大陸からの移住者は、日本の土着の文化と、大陸から持ち込んだ文化の融合に腐心することになります。
その結果として焚書や、歴史書の改ざん、神社の御祭神の書き換えなどが横行したのです。
禁書とされた歴史書を隠し持っていた者は処刑となる旨で全国に厳命されました。
歴史書の改ざんでは血生臭い抗争の歴史を、南アジアの伝承のような神話に書き換える手法が採用されました。
豊葦原の世の神々などは男女の性別すら分からなくなりました。
また役職名、名前、謚の乱用も混乱を極めます。
また、この時代に古い縄文の神々の役職の名前を流用した権力者も多くいました。
渡来人を祖先とする一族が、渡来人としての苦しい立場から、地位の正統性を主張するために子孫かのように見せかけて権威を借りたと推測されます。
そのため現代に伝わる神々は、この時代の人物と原初の人物との混乱が起きることになります。
神社の元宮と呼ばれる移転の流れも、同じように混乱しているため、どちらの時代か見極める必要があるのです。
歴史書の改ざんでは他国に内部分裂している事情が気付かれないように統一国家の体裁が採用されました。
そのため日本の中央政府を除く地方の王朝は、歴史書からほとんど抹消されました。
他国に内部分裂していることに気付かれると、政略的に他方の勢力に加担されるなど厄介な問題が発生するためです。
ただし改ざんした歴史書の作者たちは、完全には納得しておらず、ひそかに改ざんしたヒントや矛盾を多く残しました。
その影響か定かではありませんが改ざんした歴史書の作者たちは、投獄され流罪にされることになります。
なお、第二次大戦後の日本の歴史の学会では渡来人を祖先とする一族に対しての調査が進み、今では神話と歴史が分離されて整理されています。
ところで紀元後の約500年代~約600年代に改ざんされる前の古い歴史書を持って全国に一斉に逃げた有志たちがいました。
現在の大本営発表以外の偽書扱いをされている全国の古文書群は、おおよそこの時代に持ち出された古文書のコピー品です。
古文書の原本は、相続者が相続する際に、さらにコピーして自分の所有とし、原本は元の場所に残されます。
したがって仮に新しいコピー品が、時の権力者に没収されて失われても、原本は残っているのです。
ただし、原本のありかは、相続者に知らせると、拷問などで自供した際にコピー品と一緒に失うリスクが高いため、相続者にも秘匿されます。
なお、理論上は、この仕組みでは相続者の人数だけコピー品が存在することになります。
日本人が初めて聞く日本古代史とは、後世に生まれた我々のために、どれだけ多くの人々が命懸けで守ってきた書物なのかと、その想いに深く感謝しなければならないのはないかと強く感じます。
その後、大陸からの移住者は、太陽信仰などの神々や鳥に関連した祭祀も持ち込み、日本の古来から続く土着のフォーマットとの融合を進めます。
大陸から持ち込んだ服装や装飾品などにより、日本のファッショントレンドも大きく変化していきます。
大陸から稲作も大陸流の水稲の手法を持ち込み水田が始まりました。
大陸から猪などの肉食、乳製品、豆類などを持ち込み、食文化も変化が始まりました」
たしかに東アジアの大陸って東の半島を含めて戦争が続いていて、安全な日本に逃げたくなるのも分かるわ。
古文書のことも、そんなに軽々しく言えないわね。
加茂教授は少し冷静になって話を続けた。
「日本の中央政府と、東北の日高見国や、九州の南部の熊や隼の名を持つ一族との内戦も長く続きました。
征夷大将軍とは蝦夷を征する遠征軍を率いる大将軍のことを指します。
日高見国は、産出した金を元にした莫大な富を活用し、一時期は逆に日本の中央政府の内部に一大勢力を築きます。
日本の中央政府の政治闘争で敗れた一族の亡命先としても、日高見国が多く選ばれました。
公家と武家の争いも、ある意味では代理戦争のような状況を生み出しました。
日本の中央政府による征夷大将軍を中心とした東征の継続は、日本を統一して後背の憂いを絶つための積年の悲願でした。
大陸からの脅威に対抗するためにも強い統一国家の樹立は不可欠との政治思想もありました。
逆に日高見国にとっては、先祖伝来の耶馬台の失地回復を目指す、末代までの悲願でもありました。
古い時代の征夷大将軍は日高見国に敬意を表し、日本の中央と書いた碑文を東日流の地に石碑として残しました。
征隼人大将軍とは隼人を征する遠征軍を率いる大将軍のことを指します。
九州の南部の熊や隼の名を持つ一族は、海外との貿易で密かに栄えました。
一方で日本の中央政府に対して必ずしも服従しきっていない状況は、日本の中央政府にとっては頭を悩ます課題となっていたことでしょう。
九州を舞台とした日向の一族、猿の一族、鵜茅葺の勢力との禍根は、簡単には解決しない因果と言えるでしょう。
こうした一族の名残が、近代の日本国家を建国する動乱の時代にまで大きな影響を与え続け、数千年の時を経ても日本全体を揺るがし続けます」
なんだか少し話の雲行きがおかしきなってきたわ。
加茂教授は講演会のホール内を見渡して訴えるように話を続けた。
「日本の歴史の教科書にも一部が頭出しとして書かれていますが、ここで日本の朝廷が南北に分離した時代について補足しておきます。
日本の朝廷は、関西の中の南側と北側に分離した時代から、互いに正当性を強く主張するようになっていきます。
有力な公家や武家なども日本の覇権を握るために、内戦を仕掛ける口実として、南北のどちらか反対側を支持するような政治的手法が常態化したとも言えます。
日本の時代の名称が切り替わるタイミングでは、おおよそ類似した政治闘争が発生しているのです。
ここで歴史上で重要な要素が、政治闘争に敗れた片側の勢力が、日本の中央政府の影響力が弱い東北や九州などの地域へと亡命を求めたことでしょうか。
そのため亡命者の側を支持した場合には、その後の大きな内戦には巻き込まれることになるのです。
そして勝った側によって敗れた側の歴史書は全て塗り替えられ、新しい歴史書による教育プログラムが開始されます。
その執着心には驚嘆すべきものがあり、全国に散在する神社や墳墓の沿革すらも塗り替え、時には破壊され暴かれ続けるのです。
こうした日本の内紛の歴史は、名前に反した動乱の平安時代が過ぎ去り、鎌倉時代や江戸時代でも終わらず、現代まで多くの禍根を残します。
近代の日本国家を建国するために、東北の北端と九州の南端が最後まで内戦を続ける必要があった意味を、縄文時代からの因果まで遡って改めて再考する時期が来ているのかもしれません。
この内戦では、海外の武器を大至急で大量に輸入するために、日本の莫大な黄金が無秩序に流出することにもなりました。
近代の日本国家の建国後においても、有力な権力者や政治家を失うような事件は、後を絶ちません。
そもそも何のために江戸時代に鎖国をしたのでしょうか、そして一体誰が最後に一番得をしているのでしょうか、その隠された歴史の真の姿を知るべき時代は近いのかもしれません。
日本または二本の歴史とは、縄文人と弥生人または渡来人による、まさに二本の柱により、交互に盛者必衰が往来する歴史とも言えるのではないでしょうか。
昨今の日本全体が抱える社会構造の課題を俯瞰していると、こうした深い歴史のカルマを歪みの無い正しい歴史認識で再認識し、そして大調和して乗り越えることで、真の新しい日本の時代がやってくるのではないかと思えてなりません。
さてさて、ここから先は、学校の授業で受講してください。
以上で本日の講演会は終わりとさせていただきます。
ご静聴ありがとうございました」
講演の終了と同時に、拍手喝采となった。
会場の興奮が、ため息のような雰囲気を作っている。
いやいや新らしい発見の連続の授業だった。
信じるかどうかは自分次第って、お決まりのセリフだけど、その通りかも。
しばらくは今までの常識との論争が続きそうだ。
私は古い常識の方がシックリきていたかと聞かれれば疑問だけどね。
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※この作品はフィクションの空想小説です。登場する人物、団体、名称、自然現象などは架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
※この作品に記載の内容は全て空想小説の創作物です。危険ですので現実では絶対にマネしないでください。
※この作品を映画、アニメーション、漫画、楽曲、動画化などに二次創作していただける方を歓迎いたします。




