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余命100年の嫁 後編  作者: 赤井 翼
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門真市駅東商店街奮闘記

『余命100年の嫁』


「波乱の結婚式」

 秋晴れの日曜日。朝六時に三郎は、自然と目を覚ました。隣では稀世がまだ眠っている。昨日遅くまで、ニコニコプロレスの仲間と電話をしていたので、もう少し寝かせておいてあげることにした。三朗は、仏壇に線香を立て、両親の遺影に手を合わせた。(親父、おかん、ついに、稀世さんとの結婚式の日が来たで。あっという間の一週間やったわ。まわりのみんなの支え無しには、この日を迎えることはでけへんかったと思う。稀世さん、あと半年の命かもしれへんけど、これから、親父とおかんみたいに笑顔が絶えへん家庭を作っていこうと思ってるんで、見守っててな。)

 

 人前結婚式と披露宴は、午後一時から四時の予定で、稀世は、メイクや着替えの準備があるので十二時に公民館に入る予定になっている。三朗は、母の形見の指輪を確認し、参列者への謝辞の原稿を三度読み直し、四つ折りにして、一緒に置いておいた。髭を剃り、髪を整えた。鏡の中の自分の顔がだらしなく緩みきった笑い顔であることが妙にうれしい。

「何、ひとりで笑てんの?いやらしいなぁ。」

三朗の後ろで稀世が鏡の中の三朗の顔を見て笑っていた。(わぁ、恥ずかしいとこ見られてしもたなぁ。)と振り返ると、そこには、同じくだらしなく緩みきった笑顔の稀世がいた。

「あっ、おはよう。でも、稀世さんも同じような顔してはりますよ。」

「えー、そんないけず言わんとってよ。そんな意地悪言う口は、お仕置きや。」

と言って、おはようのチュウで口を封じられた。もう見ていられないほど、朝からでれでれな状態だ。


 「おい、三朗、稀世ちゃん起きとるか?」

直が飛び込んできた。手には、花を持っている。三朗と稀世は我に返った。

「な、なんですか?直さん。まだ六時過ぎですよ。迎えに来るのお昼前やって言うてはったやないですか。」

「あほっ、挨拶行くとこがあるやろが。早よ出かける準備せい。」

「出かけるって、どこにですか?」

「墓や。親父さんとおふくろさんに挨拶しとかなあかんやろが。さっさと動け。稀世ちゃんもな。」

 直と三朗と稀世は、三朗の両親の墓前で手を合わせた。(直さん、ひろ子さんに報告したかったんやろなぁ。)稀世は、直のそんな気持ちがうれしかった。十分ほどのお参りを済ませ、直と別れて、ゆっくりと腕を組んで歩きながら、今日の式への期待を話しながら向日葵寿司に戻ってきた。朝の空気がすがすがしい。

「ところで、余興とスピーチなんですけど、稀世さんの方はどういう予定なんですか?」

「うん、最初の乾杯の挨拶は、社長。スピーチはまりあさん、余興の歌とコントは、なっちゃんと陽菜ちゃんがやってくれるみたい。」

「コントって何ですか?聞いてないですけど。」

「なっちゃんとひなちゃんが、再来月のタッグのデビュー戦で、「2代目YASUKIYO」襲名したいって、まりあさんに直訴したみたいで、「飴ちゃん配り」と「眼鏡眼鏡」と「目玉目玉」を引き継いでくれるみたいやねん。嬉しいような、恥ずかしいような。歌の方は、何歌ってくれんのかは聞いてないけど。」

「そうですね、稀世さんの入場、すごく盛り上がりますもんね。僕もあのパフォーマンスが残ってくれるのはうれしいですね。僕の方は、挨拶は、酒屋の武藤さん。余興は、広君とがんちゃんが考えてくれてるみたいです。」

「いい式にしたいなぁ。」

「はい。」


 昼前に、直と笹井写真館の雅子が稀世を迎えに来た。

「じゃあ、サブちゃん、先に行ってるね。絶対、遅刻せんように、来てよ。」

と稀世は、笑顔で手を振って出かけて行った。稀世を店の前までで見送った後、店内で「パリン、パリン」と音がした。カウンターの後ろの食器棚に積んであった皿が二枚、床に落ちて割れていた。普通に考えて、落ちるはずのない皿が落ちたことに(めでたい日にゲンが悪いなぁ。堪忍してくれよ。)と思いながら片づけをした。

 十二時三十分、着替えを済ませて出かける準備が済んだ。(披露宴、一時からやから挨拶やなんやですぐには食事になれへんから、ちょっとなんかお腹に入れとこか。)と、式の後に参列者に配るクッキーの残りをひとつ摘まもうとキッチンのテーブルの上の袋から取り出すと、真ん中から真っ二つに割れていた。(こりゃゲンが悪いから、別のにするか。)ともう一つ取り出すとそれも割れていた。(あぁ、もうクッキーはええわ。ちょっと早いけど、公民館行くか。)と靴を履くと、革靴のひもが切れた。別の靴に履き替え、外に出ると店の前に見かけない車が停まっていた。ナンバーが「4989」だった。四回、黒猫が右から左へ横切った。公民館に着くまでに、赤い車にはねられかけた。ナンバーは「4949」だった。挙句の果てに、乗ったエレベーターが突然止まり閉じ込められた。(ちょっと、縁起悪すぎるやろ。)三朗は、得体の知れない悪寒に襲われた。

 何とか、エレベーターは五分ほどで復旧し、十二時五十分に控室に着くことができた。

「もお、サブちゃん、遅いわ。遅刻すんのちゃうか思て、ドキドキしたがな。」

「おい、あほボン、こんな日くらい余裕をもって動かんか。この馬鹿ちんが。」

とメイクを済ませ純白のウエディングドレスで化粧席の前に座っている稀世と直に怒られた。

「ごめんなさい、いろいろあって。ご心配おかけして、すんませんでした。直さん、雅子さん、メイクと着付けありがとうございました。(ふたりに頭を下げた。鏡に写る稀世を見て)稀世さん、最高にきれいです。金曜日の写真撮りの時以上です。世界一、いや宇宙一です。再々度、惚れ直してしまいました。」


 午後一時を迎え、三朗と稀世は、司会役の檜生花店の檜興平の開式宣言を会場の扉の外で聞いた。

「それでは皆様、お待たせいたしました。本日の主役、新郎新婦の入場です。」

の発声と同時に扉が開かれ、盛大な拍手と結婚行進曲の中、入場し一番奥の直とまりあが両サイドに座る高砂の席の前まで腕を組み皆の祝福を浴びながら進んでいった。席の前まで進み、客席側に振り返り一礼した。笹井が「はい、こっち向いて―」、「手を振ってー」、「はい右向いてー、左向いて―」とハイテンションで声を掛けながらカメラのシャッターと切る。

「これより、ニコニコ商店街、および大阪ニコニコプロレスの皆様を証人として、新郎「長井三朗」君と新婦「安稀世」さんの人前結婚式を行います。」

大きな拍手とヒューヒューと冷やかしの歓声が飛んだ。三朗と稀世は客席に正対して直立した。

「新郎、長井三郎君は、安稀世さんを生涯の伴侶とし、良き夫として大切にすることを誓いますか?」

「はい誓います。」

「新婦、安稀世は、長井三郎君を生涯の伴侶とし、良き妻として大切にすることを誓いますか?」

「・・・・。」

「?新婦、安稀世は、長井三郎君を生涯の伴侶とし、良き妻として大切にすることを誓いますか?」

檜が戸惑いながら、稀世への質問を繰り返した。

「・・・・。」

檜が小声で言った。

「稀世ちゃん、誓ってもらわないと式がすすめられへんで。「はい」って返事してよ。」

「ごめんなさい。サブちゃん、皆さん、ごめんなさい。」

稀世が叫んだ。会場は一気に騒ついた。稀世の横で、三朗はおろおろした。(えっ、この状況で、破談!?昼からの不幸の予兆が当たった?)

「ど、どうしたの。稀世ちゃん、いったいどうしちゃったの?」

檜も困り果てている。まりあは高砂の席を飛び出し、稀世の横に来て

「稀世、あんた何言ってんの。どうしたんよ。この期に及んで何なの!」

「みなさん、本当にごめんなさい。私、良き妻じゃないです。だから…。」

「稀世、あんたまじめすぎるのよ。じゃあ、質問を変えるわね。ちょっと、檜さん、マイク貸してもらえますか。」

まりあが、いまだざわめきの残る会場でマイクを引き継いだ。

「稀世、きちんと聞いてね。新婦、安稀世は、長井三郎君を生涯の伴侶とし、良き妻を目指して大切にすることを誓いますか?」

「はい、誓います」

会場に安堵のため息が流れた。(そこにツボがあったんか。稀世さんらしいと言えばらしいけど、ここでフラれるって思て、心臓停まるかと思たわ。)三朗もほっとした。マイクが、檜に戻され、まりあも席に戻った。檜がハンカチで額の汗をふき取り、マイクを握りなおした。

「では、仕切り直しまして、これより、新郎新婦による誓いの言葉を皆様に宣言していただきます。では、三朗君、稀世さん、お願いします。

「本日私たちは、ご列席いただきました皆様を証人として、夫婦の約束を交わします。私、長井三郎は、稀世さんを生涯の妻として、一生愛し敬い続けることを誓います。私、安稀世は、三朗さんを生涯の夫として、一生愛し敬い続けることを誓います。これからはどんな時もふたりで話し合い、協力し合い、お互い助け合っていくことを誓います。2021年9月〇日、新郎長井三朗、新婦稀世」

ふたりで会場の参列者に宣言した。

「では、続きまして、指輪の交換を」

檜が三朗の母の形見の指輪と、昨日、稀世がまりあと梅田に買いに行った三朗への指輪をお盆の上に載せてふたりに渡した。先に三郎が稀世の左手の薬指にそっとはめた。稀世の目が潤む。続いて、稀世が「さっきは、慌てさせちゃってごめんね。これからもよろしくね。サブちゃん。」とマイクに入らない小さな声で囁いて、三朗の薬指に指輪を入れた。大きな拍手が起こった。

「では、皆さまの拍手による結婚の承認の後、婚姻届けに署名いただきます。それでは、皆さま、本日のこの式を持ちまして、三朗君と稀世さんの結婚を承認いたしますか。」

とのコールが終わるか終わらないかの瞬間に、奥の扉が「バターン」と乱暴に開かれた。

「こんな結婚認めまへん。絶対に認めへんで―、こらあ!」

怒声が会場をつら抜いた。(おいおい、今度はいったいなんや!)会場の全員の視線が入り口に向かう。青いジャージを着た女が身体を大の字にして立っていた。


 ざわつく会場の中、檜が三朗の耳元で「サブちゃん、これ何かの演出?聞いてないよー。」と聞いた。「いや、僕も何も聞いてないです。ちょっと待ってください。」稀世の方に振り返って「稀世さん、何か聞いてますか?」、「・・・す、粋華・・・。」

「こら、あほボン三朗!お前、二股かけとったんか。この罰当たりが!」

飛び出してきた直に三郎は頭を張り倒された。

「いや、ぼ、僕知らないですよ。うん、僕の知らない人です。」

三朗は直に対し、必死でかぶりを振った。青いジャージの女は、がやがやと騒がしくなった会場にずかずかと入ってきて、檜のマイクを奪った。中央の稀世と三朗に右手の人差し指を指し叫んだ。

「おいコラ、稀世!お前、何、勝手に引退しとんねん!私との来月のマッチ、勝手にキャンセルしやがって。おまけに大阪ニコニコプロレスに問い合わせたら、結婚するやと!寿引退って舐めてんのか!永遠のライバル「Hカップの悪の華、パイ・ヒール粋華すいか」様がそんなもん絶対認めへんぞ。」

会場の騒めきが大きくなる。夏子と陽菜が飛び出してきて、恵子に掴みかかる。

「稀世姉さんの大事な結婚式に何邪魔しに来とんじゃ、このボケが。」

「姉さんにかわって、私がお前なんか排除したらぁ。」

勢いは良かったが、夏子は頭頂部へのエルボー、陽菜はみぞおちへの正面蹴り一発でふたりともその場で瞬殺された。会場に悲鳴が上がった。

「稀世さん、あの人なんなんですか?」

「難波女子プロレスの「パイ・ヒール粋華」。私の同期レスラー。交流戦での対戦成績は、私の13勝0敗。難波女子プロレスで、私と同時期にデビューやねん。

 百均グッズを配りながらの入場。漫才師「ハイヒールリンゴ・モモコ」をモチーフにリングパフォーマンスをすんねん。私がやってる「やすしきよし師匠」に対して、申し訳ないけど「ハイヒール」さん、タレントとしてはめちゃくちゃええねんけど、漫才の笑いでの「眼鏡眼鏡」のような必殺技が無いのよ。粋華の芸の稚拙さもあって、ほぼ滑りまくり。

 それを逆恨みして、私に「お前、私の真似すんなや。」って勝手にライバル宣言してきた、おっぱいがスイカ並みにでかいだけのあほレスラーなんや。」

「そんな人がなんでここに?」

「さっき、粋華が言ってたように、来月の交流戦で14回目の対決の予定やってん。一応、ニコニコプロレス的には、私の病気の事隠して、寿引退ってことになってるから、それで逆上してんねやと思う。」

「そんな…。」


 「おいコラ、あほ稀世!なにごちゃごちゃ言うてんねん。私は、こんな結婚絶対認めへんからな。三朗いうたな、お前。ちょっとこっち来い。」

と三朗の襟をつかみ、三朗を引き寄せた。

「サブちゃんに何すんねん。」

粋華に飛びかかろうとする稀世をまりあが背後から羽交い絞めにして止めた。

「稀世、あんたドレス来てんねんで。あほな真似しなや!」

「でも、サブちゃんが!」

粋華は、三朗を右手でネックブリーカーの体勢で固める。三朗はバタバタと暴れるが、恵子は微動だにしない。

「今から、お前の旦那、お前と結婚でけへんようにしたるさかいな。稀世、よお見とけよ。」

と青いジャージを脱ぎ去った。ジャージの下は、粋華がいつも試合で使用している、胸を強調した色気満々のシャネルをパクったデザインのユニフォームだった。三朗を粋華に向き合うように180度回転させ、いきなり三郎の唇を奪った。

「ほれ、お前の旦那の浮気証拠の第一弾の出来上がりや!」

間髪空けず、三朗の顔を粋華の胸に埋め、三朗の股間をまさぐる。

「さぁ、三朗、稀世のGカップに対し、私はHカップ。あんな女の乳より私の乳の方がええやろ。ほら、私の乳で勃てたとこ、稀世に見せたれや!」

「僕は、稀世さんのおっぱいまだ触ったこと無いから、比べる事なんかでけへん。それに、僕の童貞は稀世さんに捧げるんや、お前なんかで勃つもんか!」

「なに?お前、童貞なんか。じゃあ、稀世より先に私がいかしたるわ!」

と三朗のスラックスのベルトを緩め、左手を三朗のパンツの中に差し込んだ。

「サブちゃん!」

稀世の悲鳴が会場に響いたとき、直が粋華の前に立ちはだかった。

「粋華とやら、おイタはそこまでじゃ。あほボン三朗も稀世ちゃんもわしの大事な孫みたいなもんじゃ。これ以上の狼藉はわしが許さん。」

三朗の首に回した右腕の肘関節を親指と人差し指で軽くつまんだように見えた。

「ぐあっ!痛っ!」

粋華は、突然苦悶の表情を見せ、右手をだらりと下げた。三朗は必死に逃げ出した。スラックスが膝まで下がり、足を取られ、稀世の足元に転がった。赤い勝負パンツが丸見えだ。

「サブちゃん、大丈夫やった?勃ってへん?」

「大丈夫、勃ってません。僕のおちんちんは稀世さんだけのものですから。」

その声をマイクが拾い、会場に苦笑が漏れた。


「このばばあ、何しやがった!」

正気を失った粋華が直に掴みかかる。その瞬間、くるりと粋華の身体がきれいな円弧を描き、背中から床にたたきつけられた。「ちきしょう!」怒りの形相で、粋華は起き上がり、直に挑むが、何度も円を描き床にたたきつけられるだけだった。会場の皆が直の「合気術」に見惚れた。「ぐあっ」、「ぎゃあ」、「へげぇ」と十数回、直に投げ飛ばされ、粋華は大の字に仰向けになり動かなくなった。

「どうじゃ、おイタはもう終わりかえ?お前さん、力の使い方がなってないのう。地力はあるから鍛えりゃそこそこのもんにはなりそうじゃがのう。」

と踵を返した。その瞬間、粋華がブリッジの反動を使って、さっと振り返り直の背後に立った。「危ない!」みんなが思うと同時に、粋華は直の後ろで土下座した。

「まっこと、失礼しました。師匠、どうか、不肖「パイ・ヒール粋華」を弟子にしてください。お願いいたします。」

と頭を床にこすりつけた。

「まあ、今日のこの席をこれ以上邪魔せんと約束するなら、面倒見てやろう。末席で、三朗と稀世ちゃんの結婚を祝福してやってくれるか?」

「はい、ありがとうございます。お師匠様。」

粋華は、さっと立ち上がり、稀世と三朗に一礼し、

「会場の皆さまお騒がせして誠に申し訳ございませんでした。難波女子プロレス「パイ・ヒール粋華」のお祝いの座興を終わらせていただきます。」

と言い、会場入り口側のテーブルに補助いすを持って座り込んだ。会場はあっけにとられた。


 檜が正気を取り戻し、マイクを握った。

「鬼気迫る、パフォーマンスありがとうございました。では、永らく中断いたしましたが、会場の皆さんによります三朗君と稀世さんの結婚承認に進みたいと思います。若いふたりの結婚をご承認いただける方は、大きな拍手で持ってご承認ください。」

その日一番の、大きな拍手で会場が揺らいだ。一番奥の席で粋華も拍手をしていた。

「では、おふたりによる、婚姻届け署名の儀に移ります。三朗君、稀世さん、お願いします。」

ふたりは一度見つめあい、頷いた。三朗が先に署名し、稀世が続いた。檜が婚姻届けを皆に見せると再び大きな拍手が沸いた。

「では、人前式最後の儀、誓いの口づけを行います。カメラをお持ちの皆様はどうぞ、前の方までどうぞ。」

大阪ニコニコプロレスと商店街の女性陣がどっと三郎と稀世の前に押し寄せた。

「さて、誓いの口づけをどうぞ!」

三朗は稀世のあご下に指を添え、そっと唇を重ねた。稀世の頬に涙がつたった。フラッシュの嵐は、しばらくの間収まることは無かった。高砂の席では、直とまりあがハンカチで目じりを押さえていた


「バイク泥棒とエアコンつぶし」

 結婚式の翌日、ひどい頭痛で三朗は目が覚めた。急な吐き気と腹痛が同時にやってきた。人前式で大変なトラブルがあった後の披露宴は大いに盛り上がり、三朗は飲まされまくった。特に悪乗りした夏子と陽菜からは、パイ・ヒール粋華をまねて、「私たちのこの酒が飲めなきゃ、稀世姉さんとの結婚は認めへん!」とやかられ、一升以上の酒を一気飲みさせられた。

 それ以外でも、商店街の仲間からも「飲め飲め攻撃」を受け、披露宴の最初のニコニコプロレスの社長の乾杯のあいさつと酒屋の武藤、まりあのあいさつまではしっかりと覚えているのだが、その後の広義の歌や夏子と陽菜のコントぐらいから記憶が怪しい。稀世のお色直しは完全に記憶が飛んでしまっている。「全く覚えていない。」とは稀世には言えないので、稀世が起きてくるまでに一階のトイレでこっそりと徹三が取ってくれたビデオを早送りで見て復習した。ベロベロになりながらも、締めでお礼のあいさつをして、それなりに参列者を感動させている自分の姿を見て、少し安心した。しかし、その記憶は、ほとんどが深い闇の中だ。とりあえず、胃酸ブロック系の胃腸薬を通常量の二倍飲んだ。

 今日一日は、店は「休業」の案内を張り出しているので、稀世と大正区役所で稀世の転出届と、門真市役所への婚姻届けを提出した後は、ふたりでゆっくりしようと考えている。

 (ところで、昨晩のいわゆる「初夜」はどうだったんやろか?)恐ろしくて稀世に聞く勇気がないが、こればかりは確認のしようがない。きちんと寝巻のスウェットに着替えていたことと、稀世と寝室でふたりで布団を並べて寝ていたことを考えるとやるべきことをやった可能性はあると考えた。(念のため、寝室のくずかごは確認しとくか。)しかし、それらしいゴミは見つからなかった。

 横向きにふとんの中で寝ている稀世の顔を見てると、ようやく正式に夫婦になる喜びの気持ちがが沸いてきた。稀世の枕元には、昨日、みんなの前で書いた婚姻届けが額に入れられ、置いてある。(稀世さん、起きてくるまでに、お味噌汁の準備でもしておこう。)


 午前七時。三朗がテレビをつけて、ニュースをかけると稀世が寝室から出てきた。

「おはよう、サブちゃん。あー、よう寝たわ。ところでサブちゃん…。」

「稀世さん、おはようございます。なんですか?あらたまって。」

「い、いや、別にええねん。なんもない。先にシャワーさせてもらうわな。」

稀世は、一階へ降りて行った。(稀世さん、何言いたかったんやろか?やっぱり、昨日のことで、なんかあんねやろか。機会をうかがって、早めに謝っておこう。)三朗は、気を取り直し、大きなおにぎりを握った。

 ふたりでおにぎりを頬張りながら、三朗が切り出した。

「稀世さん、あの・・・。」

「なに、サブちゃん?」

「あ、あの、昨日・・・。き、昨日は楽しかったですね。(あっ、僕、何言うてんねん。きちんと謝らなあかんのに。)人前式の時に、あのおっぱいの人が乱入してきた時は、どないなるかと思いましたけど。(あー、無意識に逃げてしもた。)」

「粋華はあほやからね。でも、直さんとまりあさんのおかげで助かったなぁ。直さんが、あのあほ止めてくれてなくて、サブちゃんがあのまま変なことされとったら、私、ドレスで取っ組み合いしてるとこやったわ。まあ、その前にまりあさんに止められてたけど。「粋華のおっぱいでサブちゃんが反応したらどうしよう。」って変なとこ、心配してしもてたわ。」

「いや、そこは大丈夫ですよ。稀世さんにしてもろた「夢の七つの技体験」と比べたら、「月とスッポン」、「釣鐘と提灯」、「特上握りとコンビニおにぎり」ですよ。」

「最後の例え、初めて聞いたわ。サブちゃんのオリジナル?変なの。」

正式な夫婦初日の朝の食卓は、三朗が本題を避けたため、おだやかにスタートした。

「ところで、大正の区役所、九時でええんですよね。」

「うん、京橋からメトロでドーム前行って、そこからバスやから。七時五十分になったら出よか。転出届だしたら、こっち戻って門真市役所やね。なんか緊張するわ。」

「僕もです。書類だしたら、正式に稀世さん、「長井稀世」になってくれはるんですもんね。なんか、照れくさいです。先週の日曜日の門真大会から、あっという間の八日間でしたよね。その集大成ですから。」

「うん、改めて、これからずっといっしょにいてね、サブちゃん。」

「モチのロンです。これからずっと一緒ですよ。おっぱいの人に捕まっても何もできなかった、頼りにならない夫ですが、よろしくお願いします。」

「こちらこそ、有効期限半年のポンコツの妻ですが、よろしくお願いします。」

自虐的なネタだが、ふたりして自然に笑えた。(それでええねや。三朗、がんばれよ。)三朗は、父と母の声が聞こえたような気がした。


 京阪電車で門真市駅から京橋へ。大阪メトロに乗り換え、ドーム前千代崎で降りた。地上に出て、稀世がふと立ち止まった。視線の先に大阪ドームが見える。今年は、プロ野球でオリックスバファローズが破竹の快進撃を見せ、たくさんの応援ののぼりや横断幕が飾られ盛り上がりが感じられる。

「あー、いっぺんここでやってみたかったなぁ。」

「野球ですか?」

「あほ、なんでやねん。もちろん、プロレスよ。男の人は、総合格闘技でドーム決戦ってあんねんけど、女子はせいぜい後楽園ホール。昔、まりあさんと「女子プロレスでドームがいっぱいになる時代がきたらええのにな。」って話したことがあってん。まあ、夢のまた夢の話やけどね。まりあさんとタイトルマッチして、ドームのオーロラビジョンに大写しになるのを想像して、楽しんでてん。」

「そりゃ、ビッグな夢ですね。あっ、稀世さん、もうバスが来る時間ですよ。」

「ほんまや、サブちゃん、走るで。」

稀世は三郎の手を取り、バス停に走り出した。

 朝一の区役所は、人出も少なく、スムーズに転出の手続きは済んだ。門真市役所には10時半に戻ってきた。ふたりで戸籍課に婚姻届けを出し、手をつないで市役所を出た。

「サブちゃん、お昼どうする?」

「ちょっと早いけど、がんちゃんとこでお好み焼き食べよか。」

「ええね、それ。私、お好み焼き大好きやねん。ミックスモダンの大でも食べよかな。」


 十時五十分、「お好み焼きがんちゃん」は、まだ暖簾が出ていなかったが、入り口が開いてたので、勝手に入っていった。

「がんちゃん、さとみさん、おはようございまーす。ふたりで食べによらせてもらいました。」

さとみがエプロン姿で出てきた。

「昨日はお疲れさまでした。ふたりとも大丈夫やった?めちゃくちゃ飲まされてたもんなぁ。女子プロレスってバリバリの体育会やねんなぁ。まあ、うちの商店街のおっちゃんらも大概やけどな。」

「いろいろ面倒おかけしました。あと、がんちゃん撮ってくれたビデオよお映ってました。ありがとうございました。」

「もお、見たん?早いなぁ。稀世ちゃんも一緒に見はったん?」

「いえ、サブちゃん、ビデオいつ見たん。もう、声かけてよ。一緒に見たかったのに。」

「ご、ごめんなさい。け、今朝、早よ起きてしもたから。き、稀世さん、よお寝てたから。」

「何どもってんのよ。なんか、やましいことあるん?」

「い、いや、べ、別に。い、稀世さんのドレス姿、ゆっくり見たかったから」

(あー、やばいとこやった。昨日の事、覚えてへんから、復習やとは言われへんもんなぁ。)

「サブちゃん、ビデオの最後で武藤さん倒れたん見た?私とてっちゃんは、サブちゃんと稀世ちゃん送って行ったから、武藤さんの方のお世話は、かずみさんと広君に任せたんやけど。」

「えっ、倒れたって。なんで?ごめんなさい。そこ、覚えてないんですけど。大丈夫やったんですか?」

「うん、披露宴の最後に、みんなでサブちゃん胴上げしてるときに、腰をグキッっとやっちゃったみたいで。広君がおんぶしてタクシーで送って行ったんやけど、武藤さんひとり暮らしやから大変やろうって、さっき、てっちゃんもお昼ご飯の差し入れの出前に行ってんねん。」

 そこに、徹三が帰ってきた。さとみが心配そうに聞いた。

「武藤さん、どうやった。大丈夫そう?」

「うん、典型的なぎっくり腰やな。何回かやってるから癖になってんねやろな。武藤さんも昨日へべれけで胴上げ参加して中央で、はしゃいでたもんなぁ。昼、食べたら、接骨院行くって言うてはったわ。

 ちなみに昨晩はあの後、サブちゃん、稀世ちゃんは大丈夫やったか?ふたりとも、最後ぐでぐでやったもんなぁ。サブちゃん家戻るなり、ゲロゲロで大変やってんで。稀世ちゃんは、サブちゃん二階につれて上がったら、もうガーガー寝てたし、ほんま、お疲れやったなぁ。まあ、酔い覚ましに、今日はオリバーやなくて超辛口のカープソースで焼いたるわな。」

(じゃぁ、やっぱりやってなかったんや。あー、稀世さんに直接聞かんでよかった。がんちゃん、ナイス情報!そんで、昨日はいろいろとありがとう。)

 ふたりで辛口のお好み焼きを楽しんで、武藤酒店にお見舞いに行った。整骨院に行っているのか、店は閉まっていた。配達用のスーパーカブがカギが付いたまま、店の前に無造作に置かれていた。

「まあ、後で電話でお見舞いしよか。」

仕方なく武藤は後回しにして、直と檜と笹井に昨日までの礼と婚姻届けを提出した報告をした。檜と笹井はふたりとも酷い二日酔いだった。雅子が、金曜日に取った写真のアルバムをくれた。どの写真も稀世をかわいく、そしてきれいに撮ってくれていた。スタジオの写真もよかったが、グリーンバックで撮った写真が世界の観光スポットとの合成写真にしていてくれたのが、新婚旅行の予定が無いふたりにはうれしかった。アルバムを見るだけで、世界を回った気になれた。笹井夫婦に「いろいろとありがとうございました。今度、うちに来てください。ごちそうしますんで。」と三朗と稀世は、深々とお礼をして店に戻った。


 午後一時過ぎ、稀世が武藤に電話した。ちょうど、整骨院から帰ってきたところということだった。「ふたりの結婚式に、ケチをつけてしまって申し訳ない。」と言われ、恐縮した。店の中で電話を取っているようで、店の前を走る車の排気音や道行く人たちの会話が電話越しに聞こえる。お見舞いの言葉をかけて電話を切ろうとしたとき、電話越しに「ドルルルル」とバイクのエンジンがかかる音が耳に入った。

「あっ、バイク泥棒!痛っ!(「ドガっ」という転倒音)こら、待てーっ。(遠ざかる排気音)稀世ちゃん、そっちにうちのカブ盗んだ奴が走っていった。捕まえてくれーっ!」

「は、はい。」

稀世と三朗が店を飛び出て武藤酒店の方を向くと正面から黒いフルフェイスヘルメットにブルーの作業用ブルゾンの男が武藤のスーパーカブで突っ込んでくる。稀世が両手を広げ大の字で道を通せんぼする。バイク泥棒の男が叫んだ。

「わー、ごめんなさい、どいてくださーい。」

稀世は、逃げることなくバイクに向かって駆け出した。

「ほんと、避けてくださーい。」

半泣きの男の声が通りに響いた瞬間、稀世は、助走のスピードを上げ、元バスケット選手だった跳躍力を活かし、1.5メートル飛び上がってのハイアングルのドロップキックをバイク泥棒の胸に叩き込んだ。男は、バイクの後ろに蹴り落され、乗り手を失ったカブは10メートル先で転倒した。稀世は、男の胸倉を掴んで、ヘルメットをはぎ取った。三朗が後ろから「稀世さーん、大丈夫ですかー?」と走ってくる。

 ヘルメットを取った男はほっぺに大きな大きな絆創膏を張り、頭は包帯でぐるぐる巻きだ。破れたブルゾンの下にも包帯が見える。三朗が、包帯だらけのバイク泥棒を見て

「稀世さん、もうここまでぼこぼこにしちゃったんですか?」

と稀世を覗き込んだ。バイク泥棒の男は、思いのほか幼い顔をしていていた。自分のケガよりも稀世の身体を心配して言った。

「すいません、すいません。あなたはケガはないですか。」

(ただのバイク泥棒とちゃうな。)稀世は、何か不思議な感覚に包まれた。

「なんか、訳アリやね。私と一緒においで。」


 向日葵寿司の四人掛けの席にバイク泥棒の男を座らせた。武藤のカブは三郎が起こして、店の前に持ってきた。ミラーが折れたのとウインカーが割れたくらいで大きい損傷はない。稀世は、冷たい緑茶を男の前に置いた。男は、黙ってうつむいている。そこに、武藤が、杖をつきつつやってきた。

「この野郎、人様の商売道具に手つけやがって。警察に突き出したるからな!」

武藤が怒気を込めて、男を責める。

「武藤さん、警察は、ちょっと待って。」

「なんでや、稀世ちゃん、こんな奴、庇うこと無いで。人様のもの盗むのは悪いことやって十分わかる年やろ。」

「この子、バイクで私に突っ込んでくるとき、「ごめんなさい、どいてください」、「避けてください」ってね。普通、「どきやがれ、ばか野郎」やんなぁ。私がドロップキックかまして、この子、転んだ後も「あなたはケガはないですか」ってね。なんか、普通に悪いやつやないんとちゃうかなって思って。それに、この絆創膏に包帯。武藤さん勘違いされたらいややから、言っとくけど、私が蹴り入れる前からのもんやからね。」

「まあ、稀世ちゃんがそういうなら、警察は後でもええけどな。」

「あんた、いくつや?高校生くらいか?それに、そのケガなんや?お姉さんに話してみ。まあ、まずはお茶飲んで、心を落ち着けてな。」

男は、涙を流しながら、お茶をすすり、ゆっくりと語り始めた。

「僕、杉田庄一って言います。十九歳です。隣町の新聞配達員です。中学三年の妹と小学六年の弟がいます。お母さんは、今入院中です。お父さんはいません。今朝、新聞配達の帰りに、車に当て逃げされて、新聞屋のカブ、廃車になってしまいました。社長から、「明日の配達までにバイク弁償せえ。でけへんねやったら、パクってでも段取りせえ。明日の新聞配られへんかったら、お前はクビや。欠配の損害賠償もしたるからな。」って言われました。お母さん入院中で仕事休んでるから、僕が、家を支えなあかんのです。泥棒は、悪いことやってわかってるんですけど・・・。すいませんでした。でも、お姉さんにケガさせなくてよかった。」

そこから先は泣き崩れて会話にならなかった。

「おい、三朗おるか?」

直がやってきた。

「なんや、この子?」


 稀世は、直に事の経緯を説明した。杉田は、まだ泣き続けている。

「よっしゃ、分かった。そこらへん詳しい司法書士事務所の変なおっさん知ってるから、今から呼び出したろ。」

と言って、どこかに電話を掛けた。

 十分ほどで、揃いの赤黒の半そでブルゾンを着た男ふたりが、スクーターにふたり乗りでやってきた。出された名刺には「金城司法書士事務所、司法書士、森隆」、「金城司法書士事務所、コンサルタント・相談員、副島勝」とあった。直とは旧知の仲のようで、副島が

「あぁ、そうですか。まずは、そのめちゃくちゃいう新聞屋の親父を折檻ですわな。配ってる新聞も「日付以外は、デマか政府への文句だけ」ちゅうあほ新聞やけど、それを扱う親父もおんなじくらいあほいうことですわな。労基署に言うてやりますわ。それで、杉田君のケガは、労災扱いにして給与の保証して、当て逃げは、ひき逃げ扱いにして、本来、相手からとる慰謝料も「政府による補償事業」いう自賠責と同等の見舞金請求したりますわ。」

と専門用語を交えて機関銃のような早口で説明した。

「難しいことは、分からんけど、なんとかしたってや。頼むで副島はん。森先生もよろしゅう頼むわな。」

直が言うと、杉田が止めに入った。

「やめてください。そんなんしたら、クビになってしまいます。家族の生活あるんで、それは困るんです。」


 それまで、黙っていた武藤が口を開いた。

「杉田君、今、給料なんぼや?」

「十二万ほどですが。」

「よっしゃ、分かった。そんなあほな新聞屋やめて、うちにこい。新聞配れんねやったら、酒の配達もできるやろ。今すぐ、そんな新聞屋やめて、今日から、うちで働け。うちのカブの修理代もあるから、弟さんが高校出るまでの六年間、修理代は毎月百円の分割払いにしたるから、月給十五万でうちで酒の配達せえ。そんで、杉田君がうちの仕事気に入ったら、ずっと働いてくれたらええ。俺一代で終わるつもりやったけど、店が残るんやったらそれもありかなってな。わかったか。」

「えっ?」

「え?やない。そこは「はい、ありがとうございます。」やろ。」

「は、はい、ありがとうございます。」

「じゃあ、金城事務所の先生方、杉田君の手続きの程、よろしくお願いします。」

武藤が頭を下げた。稀世と三朗と直も納得の表情だった。

「ぎっくり腰がきっかけで、なんか、跡取りゲットしちゃいましたね。杉田君、ようこそニコニコ商店街へ。歓迎するで。さっきは、思いっきり蹴り入れてごめんな。これからよろしくやで。」

稀世が杉田の手を握り、笑った。


 武藤の事件のすぐあと、ニコニコ商店街内で、よく似た事件が起こった。まだ寝苦しい夜が続く9月末、エアコン修理のチラシが商店街を中心にポスティングが数回にわたりあった。チラシが入るとその翌日に、大手家電の某メーカーのエアコンが故障するといった事案が続いていることが商店街でも噂になっていた。

「サブちゃん、うちのエアコンってどこのメーカーなん?」

「例の、故障が多発してるっていう、最大手のメーカーやねん。ちょっと心配やな。」

店じまいの後の片づけをしながら話していると突然、エアコンがきかなくなった。何やら、外でごそごそと人の気配があり、稀世が飛び出し、裏口に回ると、黒いつなぎを着た男が、向日葵寿司の店舗用エアコンの室外機をいじっている。

「あんた、何してんねや!」

 稀世が声をかけると、男は慌てて逃げようとした。稀世は、速攻で、男を捕まえた。しかし男があまりに騒ぐので、夜半であることを考慮し、周辺の家に不安を与えてはいけないと思い、男をチョークスリーパーで締め落とした。失神した男を店の中に連れて入ると、例のごとく、予告無しに、直が酒を持って遊びに来た。

「なんやこいつ?客なんか?」

「いや、なんかうちのエアコンの室外機ごそごそいじってたやつ。うちのエアコン突然きけへんようなって見に行ったらこいつが居って、逃げようとするから、締め落としたってん。」

 男が意識を戻すと、直の尋問が始まった。簡略にまとめると、男は日高義巳という四十五歳の門真市内の某大手メーカー系列の販売店の従業員で、店主の命令で、エアコン修理のチラシをポスティングして、その二日以内の夜間に室外機から冷媒ガスを抜き、修理依頼をぼったくり価格で請求していたとの事だった。

 日高は、施設に入所している介護が必要な母親を抱え、店主から、「やるか」、「店を辞めるか」を迫られ、やむを得ず犯罪に手を染めていたとの事だった。前例通り、直は夜半にもかかわらず、金城司法書士事務所を呼び出した。呼び出された森と副島は、日高は、店主に強要されていた事実をもとに、自首することで、不起訴扱いを狙い、悪質業者の店主だけが詐欺と器物破損、教唆の刑を受ける筋を組んだ。直は、日高の過去の経歴を鑑み、日高は菅野電気店で引き取ることにした。男泣きする、日高に直は、

「これからは、罪滅ぼしに、ニコニコ商店街で仲間と地元のお客さんみんなの力になったってや。」

と優しく声をかけた。日高の今のアパートの家賃ももったいないと、空き部屋がたくさんある直の家に、住み込みで働くことになった。また、ニコニコ商店街に、新しい仲間ができた。

「直さん、日高さんに夜這い掛けたりしたらあきませんよ。」

と三朗が茶化すと、直が右手をくるりと回した。三朗の身体が中空で一回転し、床にたたきつけられた。稀世は、夜半にもかかわらず、三軒先まで聞こえるような声で大笑いした。


「万引き兄妹とこども食堂」

 稀世が初めて迎える門真での秋、十月一日を迎えた。先月の「バイク泥棒阻止事件」と「エアコン修理詐欺事件」は商店街の中で噂となり、稀世は一躍ニコニコ商店街の人気者になった。元々、大柄な身体に愛嬌のある顔立ちは、レスラー時代からファンからの人気は非常に高いものがあったが、今は、老若男女から、街を歩けば、「稀世ちゃん、一休みしていかない?」、「稀世ちゃん、飴ちゃんあげよ。」、「稀世ちゃん、今日も元気やね。」とみんなが声をかけてくれるのが、心地よかった。

 

 「万引きや、捕まえて!」と小さいスーパーマーケットを営んでいる宮崎勇が、小学生低学年くらいの男の子を追いかけてる。稀世が気づき、男の子をひょいと捕まえた。男の子は足をバタバタと稀世に蹴りを入れるが、蚊に刺されたほども感じない。男の子は、派手に暴れまくるが、両手に抱えたふたつのお弁当と右手にぎゅっと掴んだものは離さない。宮崎が息を切らせて、追いついた。

「また、お前か。何回目やねん、いったい。ええ加減にせえよ。」

と大きい声を上げる。すると、幼稚園前くらいの小さな女の子がひょこッと現れ、

「お兄ちゃん、何して遊んでんの?この大きいお姉ちゃん誰?」

と男の子に話しかける。稀世は、この場で騒動を起こすのは良くないと思い、少し先にある「お好み焼きがんちゃん」に宮崎と子供ふたりを連れて入った。

「ごめん、さとみさん、がんちゃん、訳有りでちょっと店貸してね。」

と暖簾をくぐった。

 男の子は、奥村武雄、小学三年生で八歳。女の子は凛、三歳との事で、近くの市営住宅の子で、過去にも何度か宮崎の店で万引きをしているという。盗んだものはハンバーグ弁当ふたつにプリキュアのラムネ菓子ひとつだった。凛がプリキュアのラムネをじっと見つめ続けるので、稀世は、宮崎にラムネ代を払い、弁当は返した。「店の事があるので」と宮崎は、弁当ふたつを持って中座した。凛のお腹が「ぐーっ」っと鳴った。続いて武雄のお腹も鳴った。

「お腹すいてんの?」

稀世がふたりに優しく聞いた。凛はすかさず首を縦に振ったが、武雄は黙っている。

「さとみさん、焼きそば二人前、焼いてもらえるかな。」

稀世が言った。カウンターの調理台から、ソースの焼けるいい香りが漂ってきた。まもなく、二皿の焼きそばが出てきた。

「どうぞ、召し上がれ。暖かいうちに食べや。」

稀世は、ふたりに割り箸を渡した。うまく割り箸を割れない、凛の箸を取り、武雄が割ってやって、凜に渡した。凛は、「いただきます。お姉ちゃんありがとう。」と言うと、握り箸で焼きそばをかき込むように食べた。武雄は箸を前に置きじっと黙ってる。

「武雄君も食べてええねんで。これはお姉ちゃんからのおごりやから、遠慮せんとって。」

というと、武雄は涙をぽろぽろこぼしながら、

「おねえちゃん、ありがとうございます。いただきます。」

と両手を合わせて食べ始めた。

「稀世ちゃん、この子らなんなん?」

さとみが不思議そうな顔をして聞いた。


 焼きそばを食べ終わった武雄が稀世に話し始めた。凛は、さとみがカウンター席に連れて行き、ジュースを飲ませている。

「お姉ちゃん、ごちそうさまでした。ありがとうございました。それと、ラムネありがとうございました。今日、凜の誕生日やったから、凜の好きなプリキュア買ってやりたかったんですけど、お金なかったんで。ごめんなさい。」

 丁寧な言葉づかいで、やぐされた感じは無い。事情を聴くと、元々は、駅近の市営住宅で家族四人で暮らしていたが、春に母親が家を出ていき、父は荒れ、会社にも行かず、家で酒を飲んでいるか、パチンコに行っているという。武雄と凜は昨日から何も食べていなかったとの事だった。市役所の福祉相談員が何度か家に来たのだが、父親が酒瓶を投げつけ追い返してしまってからは来なくなったという。

「おう、徹三、食べに来ったぞ。イカ玉焼いてくれ、あとビールの小瓶な。」

と直が入ってきた。

「あれ、稀世ちゃんやないか。何やこの子は?」


 「うーん、いわゆる育児放棄、ネグレストゆうやつやなぁ。わしが親に文句言いに行ったってもええねんけど、嫁に逃げられてしまって、酒とパチンコに溺れてるやつに何言うてもなぁ。稀世ちゃんも、深入りしなや。」

「おばちゃん、あんまりお父ちゃんの事、悪く言わんとったって下さい。ほんまは、ええお父ちゃんなんです。」

「ほんま、武雄君は優しいねんな。でも、万引きは、この先、絶対にやめような。お店の人かて、困ってしまうからな。今度、お腹すいたら、お姉ちゃん、この先の向日葵寿司っていうとこに居るから、凜ちゃんと一緒においで。」

「向日葵寿司、知ってます。まだ、お母ちゃんおったときは、僕の誕生日はいつも向日葵寿司でしたから。僕の三歳の誕生日の時は、お父さんが、向日葵寿司で美味しいお寿司買って来てくれて、プレゼントにポケモンのゲーム買ってくれたりしたんです。けど、凜はお寿司もプレゼントも無しやったから、余りに可哀そうやからつい…。」

「えっ、武雄君、誕生日っていつ?」

「9月×日です。先月で八歳になったとこです。」

(えっ、私と一緒や。三歳の誕生日ってことは五年前。お父ちゃんがパチンコ好き。さらに、ポケモンのゲーム?お寿司の持ち帰り?それって。)稀世の頭の中に、門真大会の日、初めて三朗の家で一晩過ごした時の会話が頭の中をよぎった。(こりゃ、ほっとけへんわ。何とかしたらな。)


 武雄と凛を見送り、店へ戻った。直もついてきた。稀世は、三朗に今日あったことを話した。

「あー、奥村さんか。最近、来えへん思てたら、家、そないなってたんですか。そりゃ、寿司どころやないですね。親の育児放棄でろくにご飯食べられてない子供が結構おって社会問題になってるって、この間テレビでやってましたねぇ。」

「私も見たわ。こども食堂とか、ボランティアが百円とか無料で、家で食事とられへん子供らに食事出したりしてるけど、市や府から援助があるわけやないから、どことも大変やって言うてたな。」

「そうやろな、まともなもん出してあげよと思たら、最低二百円は、原価が掛かりますからねぇ。それが、十人、二十人となって、週に何日もってなったら、ボランティアではきついですね。」

 三人で頭を突き合わせて、悩んでいると、引き戸が開いた。

「こんにちわー。稀世姉さん、三朗さん、ちょっとのお久でーす。近く来たんで遊びに来ました。」

夏子と陽菜だった。

「ん?三人で何難しい顔してはるんですか?」

稀世が事の経緯を夏子と陽菜に説明した。

「なんや、そんなことですか。お金出してくれる人見つけたら、ええんでしょ。楽勝やないですか。」

夏子と陽菜はあたかも簡単な事のように言った。三人は、(そんなうまい話あるんかいな?夏子と陽菜の言うことやからなぁ。大丈夫か?)と正直思った。


 それから、一週間。ニコニコ商店街の飲食店で持ち回り制の「こども食堂」が始まった。子供の食事の経済負担は全くのゼロ。食事の原材料の費用は、全額寄付で賄う仕組みができ、飲食店の経済的負担もゼロである。

 事の顛末は、夏子が知り合いのテレビ番組制作会社に、「変わったこども食堂の企画があるんで、朝のワイドショー系の番組や夕方の大阪ローカルの番組で取り上げてみてくれへんか。」と投げたことがスタートだった。商店街の五つの飲食店が、日替わりで月曜日から金曜日までの午後五時から六時半まで、諸事情で食事がとれない十五歳までの子供たちに食事を無料で提供する。子供たちは、街の掃除や、単身独居の高齢者等にお弁当を届けたりといったようなお手伝いをする。それは、三歳児でも十五歳でも、必ず何か手伝いをすることをルールとして決めている。

 商店街内のスーパーが、消費期限が近付いた商品を安価で提供し、フードロス対策にもなり、貧困世帯の子供による万引き被害も減少して一石二鳥だと、スーパーオーナーの宮崎がインタビューに答えていた。稀世も、「元女子レスラーの寿司屋の若女将」ということで取り上げられ、クラウドファンディングの協力を呼び掛けた。楽しんで食事をとる子供たちのシーンや喜ぶ子供たちのインタビューがいくつかの番組で流された。

 それを、夏子や陽菜たちが、SNSで拡散した。やや、仕込み的なところもあったが、子供政策を打ち出す、市会議員や府会議員のSNSでリンクさせたところ、さらに広まり、番組放送から三日間で、一ケ月の運営費の目標金額を超えた。農協も地元食材のPRになると、食材提供に協力してくれることになり、ロータリークラブやライオンズクラブも協賛してくれることになった。

 予算的に余裕ができたので、こども食堂に加え、「市民サロン」として、高齢者世帯や単身独居の老人にもそのサービスは広がった。子供たちが、高齢者を訪問しての見守りと配食サービスを行った。中学生は、車いすでサロンまでの送迎などを行い、引きこもりがちな老人たちのコミュニケーションの場を広め、地域コミュニティの活性化にも効果があると、国営放送や、有名タレントが司会を務める報道番組でも取り上げられ、ますます、寄付とボランティアの輪が広がった。

 ある日、武雄と凛が配達に行った単身独居の老人宅で、サービスの利用者が家の中で倒れているのを凜が見つけ、武雄が大急ぎで稀世を呼びに来て、九死に一生を得た話があった。一番最初にこども食堂を取り上げてくれた夕方の関西ローカル番組が再び取材に来て、放送となった。

 エリア周辺の大手スーパーや業務用のスーパーも商品の提供に協力し、食品メーカーは自社HPの広告記事用に、新商品を提供し、喜ぶ利用者の顔を掲載した。議員も選挙対策用なのか、わいろ扱いにならない範囲で、若干の寄付をしてくれた。

   

 商店街の役員、メンバーたちが予想していた、十倍、いや百倍の効果を上げ、ニコニコ商店街のこども食堂と高齢者向けの市民サロン、配食サービスは、十二分に機能する体制が出来上がった。

 商店街の会合で、夏子と陽菜が呼ばれ、サービス利用者も含めた感謝会が開かれた。夏子と陽菜は鼻高々だった。今回ばかりは、直も稀世も三郎もふたりを純粋に褒めた。直が言った。

「今回は、大人の都合で、不自由のあおりを食らってた子供たちが、大人の事情で助けられたちゅう事かのう。議員や業者の好意は一部気に入らんものもあるが、まあ「偽善も善のうち」じゃな。結果オーライやのう。」

 稀世と三朗は同意し、頷いた。

 

 日曜日の昼、奥村が武雄と凛を連れて、向日葵寿司を訪れた。武雄から、事情は聴いているようであった。

「武雄と凜がお世話になりました。酒とパチンコは控え、普通に客として来させてもらいました。」

と稀世に頭を下げた。稀世は、笑顔で答えた。

「いえいえ、お酒はともかく、無理にパチンコやめんでええですよ。お父さんのパチンコで幸せになった人もいるんですから。今回の事は、恩返しのひとつやから、気にせんとってくださいね。」

武雄と凜の父親は不思議な顔をしていた。今日も、ニコニコ商店街には、子供から老人まで、みんなの笑顔が溢れていた。


「ニコニコ商店街再活性化」

 昼間の暑さもやや和らいだ「昔の体育の日」だった10月10日。午前十時、開店を前に稀世が店の前に打ち水をしていると夏子と陽菜が真っ赤な顔をして泣きながら駆け込んできた。

「稀世姉さん!ニコニコプロレス無くなってしもた。どうしよう?」

「えっ?いったい何があったの?ここじゃなんやから、まずは、店に入って、落ち着いて。」

 ふたりの話をまとめるとこうだ。夏子と陽菜の11月のデビュー戦を前に、社長が急逝し資金繰りが行きづまり興業ができなくなっただけでなく、今のジムも月末で引き払わないといけないことになった。

 まりあが必死にスポンサー探しに走ってはいるが、それまでの社長ほどの援助をしてくれる人は見つからない。そこに運悪く、ジムの賃貸契約の更新月が重なり、うんともすんとも行かなくなった。11月興業の会場費、チケット・ポスター等の印刷費等の支払いもままならない。夏子の発案でクラウドファンドも募集したが、今の時点では目標額には全く届かない。みんな引退か、解散して他の団体に移籍するしかない状況にあるという。

 夏子が、半泣きで一気に稀世と三朗に説明した。(えー、そんなことになってしもてんの?でも、私にはどうしようもない。大阪ニコニコプロレス無くなんのは嫌やなぁ。)稀世と三朗は、「ごめんな、私らじゃ何の力にもなられへん。」、「まあ、ショックやろうけど、お昼、お寿司でも食べて元気出して。」というのが精いっぱいだった。


 その日の晩、夜九時半。商店街の月例会議が向日葵寿司で開かれた。こども食堂と市民サロンの状況と新しい援助者、後援者が報告された。会合がお開きとなり、執行部、青年部、女性部会のメンバーが居残った。直が熱燗を飲みながら、稀世に聞いた。

「稀世ちゃん、昼、夏子と陽菜がとぼとぼと駅の方に歩いて行っとんの見たんやけど何かあったんか?あんなしょぼくれとんの、あの子ららしゅうないな思て、声も掛けへんかったんやけどな。」

「うん、ニコニコプロレスの社長が亡くなってしもて、資金ショートで解散かもって。」

「そないな話か。まりあちゃんも困ってんねやろな。」

「今月末でジムの建物も出なあかんみたいで、走り回ってるって。電話しても繋がらへんのです。」

直は、腕を組んで黙り込んだ。笹井がぽそっと言った。

「なっちゃんと陽菜ちゃん、うちも、うちの商店街の為にも、いろいろ動いてくれたし、なんとか応援してやりたいけどなぁ。ん!広義、お前んとこの倉庫空いたままとちゃうんか?」

西沢米穀には、昔から毎年10月に新米を全国から購入し保管していた米蔵があった。今は、業販用の米は農家や農協から直送方式になっている。店頭販売用のものも、都度、精米してもらい店に送ってもらうので、米蔵はただの物置になっている。

「うん、今は使こて無いけど、それが?」

「ジム追い出されたら、リングやトレーニング用具も置き場無くなってしまうんやろうし、広義んとこ格安で貸したったらどないや、あかんかな?」

「いや、うちはかまわへんけど。とりあえずの物置やったら、家賃も要らんよ。どうせ空いてるし。」

直が、きゅっとお猪口を開けると立ち上がって言った。

「いや、広義、少しでも家賃取れ。その方が向こうも遠慮が要らんやろ。ニコニコプロレス、ここに呼ぶんや。そう、移転さすねん。「ニコニコ商店街」に「ニコニコプロレス」でええやないか。ここをベースに活動してもろたら、ここの活性化にも繋がるやろ。広義とこの米蔵、広さなんぼや?」

「間口八間の奥行十二間の九十六坪ほどやけど。」

「ざっくり14メートル半かけ22メートル弱の300平方くらいやな。うん、十分や。稀世ちゃん、まりあちゃんに電話してんか。」


 翌日、まりあと稀世と直が西沢米穀の米蔵にやってきた。

「まりあちゃん、どないや?今は、換気扇しかないから、エアコンは入れなあかんやろうけど、九十六坪で月三万で。まあ、24時間365日使うわけやないやろうから、あんたらの練習無い時間は、市民サロンにして活用しよ思ってんねんけどな。もしよかったら、ボクササイズやダイエット教室みたいな運動指導してもらえたら、商店街としてもうれしいねんけどなぁ。」

「はい、十分です。十分すぎますよ。今のジム、三十坪やし、ここならパイプ椅子入れたら、ミニ興業もできるわ。直さん、ほんまにええんですか?」

「あぁ、広義の了解は取ってるから安心しぃ。ただし、片付けは、ニコニコプロレスのみんなでやるんやで。じゃあ、建前上、契約書とわしのTシャツにサインしてもらおか。「デンジャラスまりあ」ってな。」


 10月半ば、大阪ニコニコプロレスの十四人が2トントラックのレンタカーと団体のハイエースでリングとトレーニング機材を搬入してきた。直がどこからか、三層200ボルトの業務用エアコンと音響設備を引っ張ってきて、日高が設置した。商店街からの提案で、リングを中央奥に設置し、プロレスで使わないときは、ロープは外し、多目的ステージとしてカラオケやライブで使わせてもらい、設備什器使用料としてニコニコプロレスに月二万円支払うこととした。ニコニコプロレスの実質負担は月一万円になった。更衣室とトイレは商店街で設置した。今使われていない商店街の飲食店から古いカラオケ機器とテーブルと丸椅子が搬入された。激安業務用什器店からパイプ椅子を買い足して、80席確保した。立ち見も入れると120人は入りそうだ。家主を尊重し、「西沢米穀特設リング会場」と名称が決まった。

 

 11月3日文化の日。「西沢米穀特設リング会場」のこけら落としとして、中止になった大阪ニコニコプロレスの11月興行の代わりに、「大阪ニコニコプロレス門真移転記念興行」が開催されることになった。移転をきっかけに、自称「稀世の永遠のライバル」パイ・ヒール粋華もニコニコプロレスに移籍してきた。それをきっかけに、直の家に居候することになったと日高は少し困り顔だった。

 夏子と陽菜のSNS告知と商店街のいたるところに貼られた、「手作りポスター」で、会場は満席になった。稀世は裏方で走りまわっていた。徹三とさとみは夏祭り用の屋台を出し、焼きそばを忙しく焼き、来場者に振舞っている。こども食堂と市民サロンの利用者も多数集まってきている。地元CATVも取材で来た。

 午前十一時、直と広義とまりあのあいさつで開会した。夏子、陽菜のデビュー戦の「ニューYASUKIYO」としての入場で、大きな笑いでスタートした。(これは、いけるで。)稀世は確信した。試合合間のイベントの「パイ・ヒール粋華対ちびっこ10人プロレス対決」や直のニコニコプロレスの女子レスラー相手に行った「合気術試技」、そして事前に募集した「ミニカラオケ大会」で大いに盛り上がった。元バンドマンの広義も主催者特権で、ギターを持ち出し、久しぶりの人前の歌唱でご満悦だった。

 メインイベントの試合が終わり、まりあが興行成功のお礼と関西の社会人プロレス、学生プロレスの共同興行や練習場所の提供と市民健康増進活動のひとつとしてスポーツジムとしての無料開放日の設定予定がある旨を発表した。夏子と陽菜のSNS発信で、即、参加希望のレスが来た。


 午後六時、すべての興行が終了し、会場の椅子が片づけられ、懇親会が始まった。その中で、夏子と陽菜が笹井と一緒にコスプレ写真撮影企画を立てることが正式に決まった。夏子と陽菜の9月の笹井写真館での撮影風景の動画をアップし「#ハイテンションカメラマン」、「#夢空間」等のキーワードでバズったことがきっかけで、笹井写真館が大ブレイクしていた。そこに便乗し、笹井写真館の隣の空き店舗に夏子と陽菜は引っ越してきて、夏子が引っ張ってきた大量のコスプレ衣装のレンタルをして、笹井のところで写真を撮るという企画だ。今では、グリーンバックを使った合成写真企画は、毎週のように予約が入り、笹井写真館の売り上げの柱になりつつあった。

 また、ジムの門真移転に合わせて、アルバイト先を大阪市内から変えようとしていたメンバーが、商店街内にある現在空き店舗の、もともと喫茶店の住居付き店舗でルームシェアし、一階店舗でコスプレカフェを開く話も進んだ。夏子は、メイド服やゴスロリ衣装やアニメキャラのレプリカ衣装レンタルで、「先輩たちから一儲け」を目論んでいたが、直から「衣装レンタル費は、月千円」と勝手に決められ、思惑は外れた。また、「三朗が稀世にプロレス技かけられて喜んでいた話」から、「リングコスチュームでの現役レスラーによる技かけサービス」の話も出た。商店街のおやじたちから、「絶対行くで!」、「わし、四の字固めして欲しい。」、「俺は、ベアハッグ!」と三朗以外にも変態趣味の男が多数隠れていることが発覚した。

 女性部会から、ジムの機器を使ったトレーニングやダイエットプログラムの希望も多数出たのでまりあがプランを立てることになった。粋華の提案した、「ストレス解消、サンドバック蹴り放題五分百円」は、早速試したかずみが「これ、絶対ええわ。旦那にストレス抱えてる女の人多いから、絶対受けるで!」と太鼓判を押した。広義は、(かずみ、露骨に俺に対して言いよったな。)と背筋に冷たいものを感じた。

 

 次々と、「西沢米穀特設リング会場」を使った企画がスタートしていった。週二回のニコニコプロレスの「有料公開ファイト企画」に加え、「ストリートミュージシャンの合同ライブ」、「地元劇団による公演」、「新人お笑いタレント等によるお笑いライブ」が始まった。カメラマンやアナウンサーを目指す専門学校の学生や、アマチュアも多く集まった。イベントは、次々とネット配信され、ニコニコ商店街の名前が拡散された。

 地元民の為に将棋やマージャンやカラオケといった「会場サロン開放での趣味の場も提供」や理容師、ネイリストの卵たちがボランティアや低価格でサービスを提供し、地元の人たちとの交流が盛んになった。西沢米穀特設リング会場の運営は、夏子と陽菜が共同代表で設立した、「株式会社ニコニコ興業」が行い、来年3月までの予定は7割がた埋まった。なかなかの商才を発揮し、テレビ局のビジネス情報コーナーで取り上げられた。

「これをきっかけに、美人レスラー起業家としてタレントになろうかな。」

と夏子と陽菜は調子に乗り、まりあと直に怒られた。

 地元の人だけでなく、若者を中心に京阪エリアから多数の人が来ることになり、商店街は活気づいた。永らくの空室で、安めの賃料設定になっていたことも追い風となり、今まで、空き店舗だった店に他エリアからの若者が移り住む事例がいくつか出てきた。若者向けのマニア商品を扱う店や新しい飲食店もでき商店街全体が活性化してきた。

 まりあも「秘蔵の二十世紀のプロレスコレクション」のVHSビデオを引っ張り出し、「プロレスファンBARまりあ」を粋華と一緒にオープンした。日替わり企画で「60,70年代デイ」は年寄り。「80、90年代デイ」はおっさんたち。「女子プロファンデイ」は他の団体レスラーがバイトで店に入り、そのファンたち。「プロレスゲームデイ」は、WWEのオンラインゲームを世界中のプロレスゲームファンとの対戦を求めて若手ゲーマーが店を賑わせた。ゲーマーや海外の対戦相手が、「ニコニコプロレスは、日本の地域密着型の「ローカルプロレス」の最高峰」と紹介してくれて、海外からの観戦者も来るようになった。

 もちろん、Hカップの「パイ・ヒール粋華」目当ての男性客もたくさんいたことは言うまでもない。特に、独身の武藤は、「酒の卸しのついで」と言いながら、日参し、酒の売り上げ以上の金を店に落とし、店の看板まで長居することも珍しくない。迎えに来る杉田は、困り顔だ。

 今まで閑散としていた商店街は、人出が増え、飲食店も賑わい、商店街相互の出前も増えた。向日葵寿司や徹三のお好み焼き屋も稀世の後輩レスラーが夜は出前に走り回っている。

 

 ある日曜日の夜、最後の客が勘定を済ませ、出ていった向日葵寿司で、稀世が言った。

「サブちゃん、たった3ヶ月で街がこんなに変わるんやね。私、この街、大好きやわ。」

「うん、稀世さんが持ってきてくれた「運」かな。稀世さんは、ニコニコ商店街の「女神」ですね。」

「えー、そんなん言われたら、照れてまうわ。やめてやー。」

「もちろん、僕にとっても「女神様」ですよ。さぁ、今日も、よお働いたし、暖簾下げましょか。」


「稀世の生前葬」

 2022年3月最初の日曜日。小春日和の西沢米穀特設リング会場のリング上に大きな祭壇が設置されていた。3月にもかかわらず祭壇には数えきれないくらいの向日葵が飾られていた。檜と由紀恵が切りばさみを片手に手際よく、次々と花をセッティングしていく。季節外れの向日葵は、檜が2月頭に知り合いのハウス栽培を行っている生花業者に無理を言って、九十九本の向日葵を頼んでいたのだった。祭壇の上には、達者な筆文字で、「長井稀世生前葬」と書かれた横断幕が飾られている。

 リング下には、いくつかのテーブルが一定間隔で置かれ、商店街女性部会のメンバーと大阪ニコニコプロレスのメンバーがバタバタとオードブルのセットを並べ、グラスや取り皿や割り箸を並べて行っている。テレビ局のリポーターとカメラマンがテストを何度も繰り返している。広義と徹三が男性陣に、かずみとさとみが女性陣に指示を次々と出す。

「さあ、あと一時間でスタートやで。きばって行こ―。」

腕時計で午前九時を確認した広義がみんなにはっぱをかける。

「おっ、だいぶ進んどんな。広義、ええ式になりそうか?ビアサーバー、四台は各々の隅にセットでええかな。酒と焼酎は、頼んでたテーブルに並べて、ジュースとチューハイは氷水張れる折り畳みバケツで、順次追加で行くからな。足らんようになったらなんぼでも持ってくるから。」

武藤が広義に声をかけ、杉田を連れて台車で道具を運び込む。

 九時過ぎに笹井写真館の雅子が稀世と直を連れて来て、リング奥の控室に入っていった。九時半前に三朗もやってきた。

「皆さん、早い時間からご苦労様です。今日は、どうもすみませんねぇ。よろしくお願いします。」

と言い、控室に入っていった。

 会場の準備が進むにつれて、来場者が集まりだし、表の道路に人が溢れた。商店街の人、大阪ニコニコプロレスのファンの人、こども食堂や市民サロンの利用者の人。多数の人たちが口々に稀世の話をしている。

 はーい、あと30分で開場やでー。やり残し無いか、各セクションのリーダーさんはチェックしてや―。」

徹三がみんなに声をかけた。


 2021年12月20日午後六時、ニコニコ商店街の忘年会が、「お好み焼きがんちゃん」で開かれた。多くのメンバーが出席する中、稀世は、朝から39度の熱が出て、インフルエンザと診断されたため、向日葵寿司からは、三朗だけの出席だった。会長の直のあいさつの後、この9月からの新メンバーの、武藤酒店の杉田、菅野電気店の日高、笹井の写真館の横にコスプレ衣裳レンタル店を出した、夏子と陽菜、コスプレ喫茶のニコニコプロレスのメンバーの自己紹介が行われた。十人もの新メンバーが入ったのは、商店街立ち上げの時以来である。新たに発足した、女性部会を代表してかずみも直から無理やり前に出され、挨拶させられていた。こども食堂や市民サロンへの皆の協力に感謝を伝えた。

 自己紹介がひとり終わるたび、大きな拍手と「〇〇さんにかんぱーい。」と武藤がはっちゃけていた。自己紹介が終わるころには、執行部の男性陣はすっかりスイッチが入っていた。ニコニコプロレスの女の子たちは、商店街のおやじたちに大人気だ。一番人気は、この三ケ月の商店街活性化のきっかけとなった稀世になるのだが、今日は、稀世がインフルエンザでお休みのため、その分、三朗が飲まされた。

 午後九時、青年部の部長として、三朗が中締めを行い、忘年会はお開きとなった。女性部会の主婦たちは家へと向かい、ニコニコプロレスの女の子たちは、京橋に二次会の場所を移した。


 いつもの執行部と青年部の男たちは、そのまま、場所を変えず、徹三の店で飲み続けることとした。三朗は、稀世が心配なので帰りたかったのだが、檜、武藤、笹井、広義、徹三に捕まってしまった。さとみがおじやを作ってくれた。直とかずみとさとみの三人で、見舞がてら稀世の様子を見て、おじやを届けてきてくれることになった。

 檜と武藤と笹井のおやじ組も広義と徹三の青年部も、ご機嫌で、ビールのグラスを空けては、

「ほんま、稀世ちゃん来てから、商店街、一気に変わったよなぁ。」

「そうそう、三十年前のバブルの頃の活気やな。来年できるモールがなんぼのもんじゃい。」

「広義とこの、米蔵を一般開放してから、外部の人もよう来てくれるようになったな。」

「テレビの取材なんて、ここ二十年全く無かったもんなぁ。」

「ニコニコプロレスの子たちもみんなええ子や。街が明るくなったよなぁ。」

「今日も、稀世ちゃん来てくれてたら、もっと盛り上がったのになぁ。」

「4月の花見は、稀世ちゃん「風邪ひいたらあかんで」って、しっかり言うとってや。サブちゃん。」

みんなが、三朗に視線を向けた。

「・・・・。」

三朗は、テーブルに突っ伏して、もごもごと答えた。武藤が、三朗の肩をゆすって聞いた。

「サブちゃん、なんて?聞こえへんで。4月の花見は、稀世ちゃんに風邪ひかんように言うとってや。ちゅう話やねんけど。」

「き、稀世さんは、は、花見は来られへんのです。」

「なんでや?花粉症きついんか?」

「・・・・」

「なんや、夫婦喧嘩でもして、離婚言われとんか?」

「・・・・」

「サブちゃん、どないやねん。聞こえへんから、もうちょっと大きい声で言うてくれ。なんや、泣いてんのか?」

三朗は、突っ伏したまま、肩を震わせてみんなに言った。

「き、稀世さんは、桜の季節にはもう居れへんのです。き、稀世さん、元気に見えますけど、9月に、よ、「余命半年持たへん重病」やって言われて…。」

三朗は泣き崩れた。泣き続ける三朗を見守る事しか五人にはできなかった。そこに、直とかずみとさとみが帰ってきた。

「おい、三朗。稀世ちゃん、薬効いて熱下がっとったで。かずみはん作ってくれたおじやも全部食べたから安心せえ。」

直が三朗に声をかけたが、三朗は酔いつぶれて寝てしまっていた。

「それにしても、お前らなんやその顔は?お通夜か葬式みたいな顔しやがって。忘年会やねんから、もっと明るい顔して飲まんと、酒の神さんにしばかれんぞ。徹三、ビール出してくれや。」


 徹三が生ビールのジョッキを持って、直に手渡した。かずみはカウンターの中に入り、さとみの後かたづけを手伝っている。

「サブちゃんが、稀世ちゃん、春の花見にはもう居れへんって。9月に余命半年の重病って言われたって言うて、寝てしもてんけど、直さん、なんか聞いてんの?」

「あほボン、みんなに言うてしもたんか…。お前ら以外には、絶対に他言無用やぞ。わかったな。」

さとみとかずみも、片付けを中断して、客席に出て来た。全員が直の話に耳を疑った。

「うそ!そんな、稀世ちゃんもサブちゃんも可哀そ過ぎるやんか。」

さとみとかずみが泣き出した。

「俺らにできる事、なんかあれへんかいな。」

広義がぼそりと言った。

 それから、毎週八人で集まり話し合った。良い案が出ることなく、カレンダーは進んでいった。


 大晦日の夜十時、いつもながら突然、直が向日葵寿司にやってきた。

「サブちゃん、今、仕事引けてお風呂ですけど。」

稀世が熱い緑茶を入れながら、直に言った。

「そうか、まあ、都合ええわ。稀世ちゃん、直球で聞くけど、三朗とはやったんか?」

「えっ?何をですか?」

「あほ。稀世ちゃんもあほボン三朗のあほがうつったか?夫婦になって、もう三ケ月以上経つやないか。そりゃ、わしが、「赤ちゃんは諦めろ」言うたけど、やったらあかんとは言うてないやろ。その話や。」

稀世は、真っ赤になって答えた。

「ま、まだ、キスだけです…。」

「お前ら、中学生か!夫婦やろが、この馬鹿ちん。稀世ちゃん、女の幸せ知らんまま逝くつもりか?あほボンもあほボンや、こんなかわいい子を前にして何のんびりしとんねん。今度思いっきり、しばいたらなあかんな。」

「直さん、しばくのは、堪忍したって下さい。サブちゃん、すごく優しくしてくれてますから。」

「まあ、こんなことやろうとは思っとったからな。これ、わしからのお年玉や。今日、必ず使えよ。三朗にもしっかり言うたろ。」

直は、稀世に小さな巾着を渡した。中を見て、稀世の顔は、さらに赤くなった。

「なんか声する思たら、直さん来てはったんですか。本年は、大変お世話になりました。来年もよろしゅうお願いしますね。」

頭をタオルでわしわししながら、三朗が頭を下げた。

「あほボン、ちょっとこっち来い。」

三朗が「何ですか?」と近づくと、思いっきりデコピンして、

「今晩、稀世ちゃんと決めろよ。」

と言い残して、出て行った。

「「決めろ」って、いったいなんなんやろね。ところで、稀世さん、顔めちゃくちゃ赤いですやん。また、風邪ひいてしもたんとちゃうでしょうね?」

「さ、サブちゃん。こ、コレ…。直さんから。」


 三郎は、寝室で稀世が風呂からあがってくるのを布団の上で正座して待っていた。二十五歳の時に稀世のファンになり、「いつか来たらいいな」と「想像した日」に備えて買った、「あれ」のノウハウ本を元の自分の部屋の本棚から取り出してきて読んだ。(慣れるまでは、ゴムは明るい所で着けること。空気が入らないように先をつまんでつける事。)、(精力剤は三十分前までに飲むこと)、(うまく入ったら、最初は、ゆっくり。焦りすぎないように。三回浅く、一回深く。)、(最初は、七人中二人が失敗するから、失敗しても気にしないように。)、(あくまで、女性への気遣いを忘れないように。)、(終わってから、優しい言葉と抱擁が大切。)何度も何度も、繰り返し、見返しては、復唱した。

 一階で、風呂場のドアが開く音が聞こえた。直のくれた巾着から「絶倫赤マムシ」と書かれた金と赤のラベルのドリンク剤を前に置き、(うまくできますように。)と手を合わせて、一気飲みした。5センチ角の箱に入った、十二個綴りのピロー包装を、ミシン目に沿い丁寧に切り離して、三枚を枕の下に入れ、残りを巾着に戻した。

 仏壇に手を合わせ、(親父、おかん、三十歳にしてついに童貞卒業のチャンスが来ました。相手は、もちろん稀世さんです。うまくいくように見守っててな。)とお願いし、お鈴を二回鳴らした。

 

 稀世が二階に上がってきた。緊張した面持ちで、三朗の前に正座し、丁寧に頭を下げた。

「サブちゃん、私も初めてやから、上手にできなかったらごめんね。ふつつかでポンコツの妻ですが、優しくしてな。痛いときは痛いって言うから、その時は、ストップしてな。つい、プロレスの技出たらあかんから…。お願いします。じゃあ、恥ずかしいから、電気消すわな。」

「き、稀世さん、直さんくれた、ゴムつけるまで、電気つけとってほしいねん。ぼ、僕、つけんの初めてやから、本で調べたら、明るい所で着けんと、破れたり、空気入ってしまうって書いてあって。」

「えーでも、私、恥ずかしいし。」

「すいません。でも、ぼ、僕は、稀世さんの全部見たいんで、お願いします。」

「じゃあ、お布団だけはかけさせてな。」

「はい、大丈夫です。」


 年が明けて2022年の元日は、関西地方は、全般的に晴天に恵まれた。午前九時、すっかりと日は上がり、明るくなった部屋で稀世は目を覚ました。三朗が、隣の布団の中から顔を見ている。

「稀世さん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いしますね。」

「サブちゃん、あけましておめでとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします。あと三ケ月やけど、ずっといっしょに居てください。き、聞きにくいねんけど、わ、私、昨日、どうやった。」

「最高でした。想像を一億倍上回ってました。本当の夫婦になれた気がしてうれしいです。最初の二個は、つけるの失敗しましたけど、一晩で、後の残り全部使い切ってしまうくらい、良かったです。元日から空いてるドラッグストアありますから、初詣の後で買いに行ってきます。」

「サブちゃん、私も良かった。「あぁ、女の幸せ死ぬ前に感じられて良かった。直さんに感謝やわ。」って思ったわ。で、でもね、か、仮によ、初詣で直さんに会ったら、「二個だけ使った。」って言おな。全部使こたって、やっぱり恥ずかしいから。」

「そうですね、じゃあ、今日の分は、直さんと絶対会わんように、駅ふたつ向こうで買ってきます。」

「うん、ごめんね。面倒かけるけど。」

「じゃあ、おせち食べましょうか?」

「うん、さすがに、朝六時までやってたから、お腹ペコペコやわ。」

ふたりで、布団の上で「ちゅっ」とした。


 初詣は、電車に乗って、成田山に行った。すごい人だったが、逸れない様に、手を繋いでの参拝は楽しかった。おみくじは、稀世は、「大吉」、願い事全て良し。三朗は、「吉」、欲をかきすぎないこと。とでた。長い行列に並び、お賽銭を投げ入れ、お願いごとをした。

「サブちゃんは、何お願いしたん?」

「稀世さんと喧嘩することなく仲良く過ごせますように。ってお願いしました。稀世さんは?」

「最後まで、病院に入ることなくサブちゃんといれますように。と、生まれ変わってもサブちゃんのお嫁さんになれますように。と、サブちゃんが元気で長生きできますように。ってお願いしてん。」

「えー、三つもですか?欲張りですやん。」

「だって、私、大吉やったし、後三ケ月やと思ったら、来年のお参りは無いねんから、成田の神さんもおまけしてくれるやろ。なんちゅうても、これから死ぬまで、何でも「サブちゃんと一緒の、初めてで、最後のなんとか」になんねんからな。それぐらいサービスしてくれな神さんもあかんやろ。」

参道の帰り道、手をつないで歩きながら、ふたりで笑った。

 その日の晩、直が例のごとく突然やってきた。稀世が呼びだされ、ダイレクトに聞かれた。

「やったか?」

「はい、すごく良かったです。直さんのおかげです。いろいろとありがとうございました。」

「さよか、そりゃえかった。じゃあ、今晩もがんばりや。」

それだけ言い残すと、笑顔で直は帰っていった。


 2月14日、バレンタインデー。稀世から三朗に渡す、最初で最後のバレンタインチョコレートを手作りで作った。初めて作る、手作りチョコだったので、失敗に備えて多めに作った。しかし、初回から、そこそこの出来だったので、(私が、チョコ作んのも最後やから、商店街の人や、こども食堂の子や市民サロンの利用者さんにも配っておこうかな。)と考え、結構な量のチョコレートを作った。直やまりあはもちろんのこと、9月から、少しでも関わりのあった門真の人達に、この五ケ月の感謝の意をこめて配った。

 昼のアイドリングタイムに商店街をチョコ配りで回り、店に戻ると三朗は生け簀の水槽を掃除していた。稀世は、カウンター席に座り、三朗が作業する姿を見ていた。180リットルの水槽のポンプのフィルターを洗い、海水の五分の一を入れ替えた。一時的に別容器に退避させていた、アワビやサザエ、紫ウニ、イセエビ等をもとの水槽に戻した。

「サブちゃん、クイズでーす。世界中で一番、寿命の長い生き物ってなんか知ってる?」

「普通に考えたら、鶴とか亀?鶴は千年、亀は万年って言うやないですか。」

「うーん、はずれ。鶴の寿命は四十年ほどで、ミドリガメで四十年、クサガメで六十年くらいやねんて。あと、直さんに聞いたんやけど。ガラパゴスゾウガメって言うのが二百五十年やって。」

「意外と短いもんですねぇ。そんで、答えは何なんですか?」

「えっとねぇ、答えは紅クラゲとロブスターやねんて。紅クラゲはテロリアっていう染色体を消耗せんで細胞分裂するから、1500年位生きんねんて。ロブスターは、もっとすごくて、脱皮時に内臓の細胞も生まれ変わるから老化せえへんねんて。まさに不老不死やなぁ。ちなみに、イセエビってロブスターの仲間やろ?」

「うん、そうやけど。それがなにか?」

「次、仕入れるときに子どものイセエビ仕入れて、「稀世」って名前つけてほしいねん。そんで、そのイセエビは、ネタにせんとずっとここの水槽に居らせてほしいねん。私、残り一ケ月しかサブちゃんとおられへんから、イセエビになって、ずっとサブちゃんが仕事してんの見ていたいねん。お願いね。はいこれ、私から最初で最後のバレンタインチョコ。あと、ひと月、よろしくね。」

半泣きで無理して笑顔を作る稀世から、三朗も泣き笑いでチョコを受け取った。

「う、うん、今いるイセエビ、「き、稀世さん」って、な、名前にさせてもらいます。僕が仕事でけへんようになるまで、ずっと、ずっと世話しますね。」


 その日、臨時の商店街の役員会、青年部、女性部会が「お好み焼きがんちゃん」で開かれた。会議の終了後、忘年会の後にお好み焼きがんちゃんに残っていた九人のメンバーと稀世が残った。かずみから珍しく、厳しい顔で聞かれた。

「稀世ちゃん、なんか私たちに隠してること有らへん?」

「えっ、別に何も無いですよ。何か?」

「じゃあ、春のお花見の幹事は、稀世ちゃんにやってもらおかな。ええかな?」

「い、いや、お、お花見は…。ちょっと…。」

稀世がおろおろと言葉に詰まった。

「ごめん、稀世ちゃん。意地悪な言い方してしもたな。みんな、ここにいるメンバーは、稀世ちゃんの身体のこと知ってんねん。サブちゃんを責めんといたって欲しいねんけど、忘年会の後、ベロベロに酔っぱらわされてしもた、サブちゃんから聞いてんな。そんで、今ここにおるメンバーで、稀世ちゃんになんかしてあげられへんかなって。」

「えっ?」

「だって、突然、稀世ちゃん居なくなって、お別れも、お礼も、ハグも、一緒に笑ったり、泣いたりすんのもでけへんの嫌やねん。そんで、みんなで考えたんが、稀世ちゃんの「生前葬」やねん。」

「ん?「生前葬」って?」


 かずみたちの計画を稀世と三朗に話した。稀世は、かずみとさとみと一緒に思いっきり泣いた。直と男連中も、大いにもらい泣きした。

「でも、泣いて終わりやなくて、笑える間に、前もってお別れ会しとこってな。了承してもらえるかな?」

さとみが、稀世と三朗に確認をとった。ふたりは、ありがたく申し出を受けた。

 翌日には、直とかずみとさとみが一件、一件、「稀世の生前葬」について会員に話して回った。

「3月最初の日曜日、午前十時から。場所は西沢米穀特設リング会場。香典は無し、会費は二千円。こどもとサロンの利用者は無料。「笑って、送ってあげる」が条件。」

皆が、出席と回答した。


 三週間弱の告知期間だったが、夏子と陽菜のSNS発信が、過去に取材に来たテレビ局と制作会社に伝わり、稀世のドキュメンタリー番組が作られることとなり、「生前葬」にも取材が入ることになった。ファンや西沢米穀特設リングでファイトをしたアマチュアプロレス団体や、バンドや演劇やお笑いの人達からも参加に対する問い合わせが多数来た。予想以上の参加者が集まり、立食パーティー形式の「生前葬」とする事になった。


 「生前葬」開始の時間が来た。檜の司会で、葬儀は始まった。白い死に装束に、幽霊が良く額に巻いている三角の額烏帽子をおでこに巻き、稀世が登場した。場内に大きな笑いが起こった。檜が、

「稀世ちゃんのドキュメンタリー番組作成のため、テレビ局が来ています。これから、今しばらく、マイクをインタビュアーさんにお預けします」

とマイクをインタビュアーに手渡した。リング上に置かれた、三脚の椅子に、稀世と三朗、向かい合う形でインタビュアーが座った。カメラマンが、インタビュアーの背中越しで稀世と三朗にカメラを向ける。

 半年前に、門真での大阪ニコニコプロレスでの事故で、稀世が余命半年の重病と告知された事。その1週間後には、結婚式を挙げた事。その後の、ニコニコ商店街と大阪ニコニコプロレスで起こった事。関係者のビデオレター等を間に挟み、約三十分のインタビューが続いた。

 満を持して、インタビュアーが聞いた。

「周りの人の取材から、稀世さんは、いつもニコニコしていて、生前葬の話を聞くまで、稀世さんが居なくなってしまうなんて事は、思いもしなかったと全員がおっしゃってました。稀世さん自身は、ご自身の「死」に対してどうお考えですか?」

「…告知を受けた日は、泣きました。おそらく、今までの二十五年分以上泣きました。死を受け入れる事は怖かったです。サブちゃんに「好きだ。」と伝え、「好きだ。」と言ってもらった直後のことやったんで、どうしたらいいのかわかりませんでした。真っ暗な孤独の世界で押しつぶされそうになりました。ただ、サブちゃんが「最後の最後まで絶対いっしょに居るよ。」と言ってくれました。

 ニコニコ商店街会長の直さんとニコニコプロレスリーダーのまりあさんの励ましがありました。ここニコニコ商店街で、仲間もどんどん増えました。みんなに支えられて、今の私があるんやと思います。

 サブちゃんが、「泣いて過ごしても一生、笑って過ごしても一生やったら、笑って過ごしましょう。」って言うてくれたんと、私と同じように、余命告知を受けて、それでも結婚しはった、サブちゃんのご両親の話を心の支えに今日まで来ました。」

「ありがとうございました。では、最後にひとつ。稀世さんが、やり残したことや、悔いが残ってる事は、ありませんか?」

「うーん、やり残したことは、きっと山ほどあると思います。一番は、サブちゃんとの間で赤ちゃん作られへんかったことです。悔いが残ってるとしたら、半年前の披露宴、飲まされすぎて、実は記憶が無いんです。それが、サブちゃんに悪くって・・・。」

「えっ?稀世さんもやったんですか?僕も、そうやったんですけど、今まで言うに言えなくて。」

会場から、大きな笑い声が起こった。その質問を最後に、テレビのインタビュー取材は終わり、生前葬は、第二部の懇親会に移った。

 懇親会が始まると、大阪ニコニコプロレスの時のライバルで、結婚式の時に邪魔しに来て、今は直の合気道教室に通う、「パイ・ヒール粋華」がやってきた。

「おい、稀世、お前の葬式、駅の反対側でもやってるやないか。間違えて、そっちに入ってしもてたわ。遅れて、すまんすまん。」

「えっ?私の葬式って?」

「門真市駅の前から、「安キヨ様告別式会場」って電柱に張り紙貼ってあったで。まあ、よお考えたら、名前がカタカナで「キヨ」って書いてあったし、苗字も「安」のままやったから、気付けへんかった私が悪いねんけどな?」

(ん?名前がカタカナで「安キヨ」?何か、引っ掛かるもん感じるなぁ。)三朗は、何かを思い出しそうになるが、もやもやとしたものが頭の中をぐるぐると回った。


 「すいません。こちらに、「安稀世」さん居られますか?」

初老の男性が会場を訪ねてきた。会場にいたものの中に、その男性を知っている者はいなかった。夏子が、「どういったご関係の方ですか?」と聞いた。「半年前に、安稀世さんを救急扱いで診察した医師で本田というものです。」というので、まずは、まりあに伝えた。

 まりあが、その医師に対応した。医師が言うには、「どうしても、今日、直接本人にお詫びしたいことがある。」というので、仕方なく、稀世と三朗の元に連れて行った。(あっ、この顔は。)三朗は、本田の顔を見て、さっき感じたもやもやが一気に晴れた。

 まりあと直も立ち合いの中、五人で会場の隅のテーブルをはさんで話した。

「半年のご無沙汰になります。昨年9月×日、そこの総合病院の夜間救急で、安さん、いや、今は長井稀世さんですね。失礼しました。プロレスの試合中の事故で、意識不明で搬送されてきた後の、検査と診察をさせていただきました、医師の本田と申します。

 本日は、長井稀世さんとご主人にどうしてもお詫びしたいことがありまして、お邪魔させていただきました。医師として、とても許される事ではないのですが、長井稀世さんの診察の際、CTとMRIのデータを別の患者のものと取り違えるというとんでもないミスを犯してしまっていました。

 お詫びだけでなく、賠償にも応じるつもりで、本日は覚悟を決めてきております。」

と言って、四人の前で額を床にこすりつけ、深々と土下座をした。三朗が慌てて、

「本田先生、土下座はやめてください。そんなんじゃ、なんの話もできないですから。先生のお話って言うのは、今日、他所でお葬式やられてる、カタカナの名前の「安キヨ」さんの事ですね。」

「はい、おふたりが覚えておられるかわかりませんが、脱臼の触診の後、私が診察室で転倒した際に、カルテの入ったパソコンが再起動してしまい、私が患者名検索の際、アルファベットで「YASUKIYO」と検索をかけたんです。珍しい苗字なので、まさか同姓同名の患者様がおられるとは、つゆ知らず。脳腫瘍とすい臓がん、肺がんの末期の90歳の患者のCT、MRIデータを長井さんのものとして、診察をしてしまってしまいました。お詫びのしようもございません。」

(あぁ、やっぱり。僕が、あの診察室で名前が「キヨ」とカタカナになっていることを指摘していれば良かったんや。)

「ところで、今日のこの場は、どうやってお知りになられたんですか?」

「はい、稀世さんがテレビに出ておられるのを、何回か見させていただいたことがあったので、この近くに居られることは、知っていました。長井さんが、当時プロレスラーって事と、今回亡くなられた、九十歳の安キヨさんの9月×日のカルテに私が誤って書き込んだ内容から、死亡診断書作成の時に、エラーがかかりました。そこで、医事課に問い合わせて、当日の夜勤看護師を調べ直しました。奥村という看護師なのですが、長井さんの事を問い合わせると、今は、プロレスは引退されて、こちらの商店街のこども食堂をやっておられるとか。奥村看護師が夜勤の時などに、八歳の男の子と三歳の女の子が夕飯などを、長井さんにお世話になっていると聞いています。」

「奥村武雄くんと、凜ちゃんですね?今は一緒に暮らしてるんですね。」

「はい、そのような名前だったと伺っております。先日、近くの市営住宅で、家族四人で一緒に暮らしてると聞いています。彼女から、今日のこの会の事を聞きました。」

(あぁ、奥村さんの奥さん帰ってきはったんや。武雄君も凜ちゃんもよかったな。)

「私は、今月末で私の故郷の山村の診療所に移る予定になっています。退職に伴う転勤となった後は、患者様のデータに触れることはできなくなります。そこで、アポイントもとらずに申し訳ないと思いましたが、突然のお邪魔となったわけです。どうか、このご無礼をお許しください。」


 「ところで、本田先生、稀世さんの本来のCT、MRIの検査結果は、どうだったんですか?」

「いや、さすがはプロレスラーと言いますか、全く問題無しの健康体であることは確認してきました。余命半年などと、間違えてお伝えしたことで、不安な毎日をお過ごしだったと推測します。長井さん、ご主人、本当にすいませんでした。個人として、裁判でも示談でも何でも可能な限り対応させていただきますので、今後の事はこちらにご連絡いただけますよう、よろしくお願いします。」

と本田は、真新しい名刺を三朗と稀世に手渡した。名刺の住所は、鹿児島の聞いたことのない村で、住所には、〇〇島村大字××字△△とある。

「本田先生、ところで、先ほど稀世さんは、全く問題無しの健康体と言われましたが、よ、余命はあとどれくらいあるんですか?」

「病気を持ってられない方に、余命という言い方は通常しないのですが、半年前の長井さんの体組織から行くと長寿ギネスも狙えるくらいだと思います。医学的に、人間は、テロリアと呼ばれる染色体を細胞が入れ替わる時に消耗していきます。一般的に「命のろうそく」なんて言い方もしますが、骨を除く身体組織細胞は半年に一回入れ替わります。日本人のほとんどを含むモンゴロイドは、テロリアの長さが、細胞入れ替わり回数で250回分あると言われています。病気等が無ければ、細胞が250回入れ替わるのに125年かかることになります。ですから、長井さんの場合、現状、まったくの健康体です。この先病気等が無いとすると、現在二十五歳ですので、ちょっと大げさですが、あえて余命というのであれば、「100年」と言っても過言でないお身体されてましたよ。」

稀世と三朗は、顔を見合わせた。稀世が、本田の手を両手で取り、聞いた。

「せ、先生。あ、赤ちゃんは、子供は作っても大丈夫ですか?」

「はい、妊娠は、神の導きの部分もありますが、ご主人側に何も問題が無ければ、きっとお母さんに似て、元気な赤ちゃんが生まれる可能性の方が高いと思われます。」

稀世の目から、大粒の涙がこぼれた。三朗も泣いている。(あぁ、神様はいるんだ。)ふたりは思った。

「サブちゃん、まりあさん、直さん、聞いてくれました?「余命100年」やて。一気に200倍ですよ。残り一ケ月やったと考えたら、えーっと、1200倍も伸びて、「赤ちゃんもオッケー」やて。これからもずっとサブちゃんと居れんねやて。きゃー、最高やわ!」


 稀世が、会場全体に響くような大きな声を出したので、皆が会場の隅にいる五人に向いた。テレビ局のリポーターとカメラマンが何事かと寄ってきた。

「長く、お話されてたみたいですけど、何かあったんですか?」

「はい、奇跡が起きました。私、死ななくてよくなったんです。「余命半年で残り一ケ月のポンコツの嫁」から一気に「余命100年の嫁」に変わりました。あー、あと100年生きてんねやったら、半年前の記憶飛んでる披露宴にほんま悔いが残るわ。夫婦そろって記憶ないって最悪やなぁ、サブちゃん。」

「稀世さん、そうは言っても、終わってしまったことやから仕方ないですよ。」

三朗が、稀世をたしなめる。リポーターは状況がつかめず、不思議な顔でふたりを交互に見つめる。それまで腕を組んで、黙って聞いていた直が口を開いた。

「あほボン三朗、仕方ないことなんてあれへん。これから、100年の間、披露宴の思い出無しは、稀世ちゃんにとっては人生の損失や。いや、大損失や。今から、生前葬やめて、もう一回披露宴やり直すで!三朗、急いで醇一と雅子はん呼んで来い。速攻、白無垢スタジオに取りに行かせて、着替え次第、第二回披露宴や。稀世ちゃん、それでええな?」

「えっ、もう一回、披露宴やらせてもらえるんですか?ほんま、ええことありすぎて、死んでまうかも。」

喜び踊る稀世を前に、本田は困惑顔で、

「あの、私のお詫びの件は…。」

と聞くが、稀世は全く聞く耳を持たない。横からまりあが本田に言った。

「先生、この子は謝罪もお詫びも望んでないから安心してくださいな。できたら、ふたりの披露宴を今からやり直すみたいやから、先生も祝っていったって下さいな。」

「は、はぁ…。」

会場の奥から、笹井醇一と雅子が走ってやってきた。

「直さん、いったい何ですか?説明してください。」

「あほ、説明なんか後や。今から、あほボン三朗と稀世ちゃんの二回目の披露宴やるから、マッハ2で白無垢一式持ってこい!」


「不死身の花嫁」

 直の音頭取りで始まった、第二回三朗、稀世の結婚披露宴。薄暗い、西沢米穀特設リング会場は、稀世の登場を待った。「ガタンっ」、リング奥の控室のドアが開き、スポットライトが当たる。テレビ局のカメラと笹井のカメラが稀世の入場を待ち受ける。大阪ニコニコプロレス当時の稀世の入場曲「大阪ファンクラブ」が流れ、白無垢姿の稀世の登場に、会場のニコニコ商店街のメンバー、大阪ニコニコプロレスメンバーとファン、こども食堂、市民サロンの利用者が大きな拍手を送る。

 半年前の結婚披露宴の時と同様に、檜の司会により三朗が控室ドアの前に進み、稀世の手を取りゆっくりと会場内を挨拶しながら、まわり始めた。皆からの祝福を受け、ふたりはリングに上がった。檜が会場のみんなに告げる。

「ただいまより、第二回長井三朗君、稀世さんの結婚披露宴を行いたいと思います。皆様、今一度大きな拍手で祝福お願いします。会場の米蔵いっぱいに、割れんばかりの大きな拍手と掛け声の渦が巻き起こった。

 リング上で、檜から三朗がマイクを受け取り、

「すいません、ばたばたと。一日の間に、「結婚式」やって、その日に「葬式」をやった人は、世界のどこかにいるかもしれませんが、「葬式」やって、その後に「結婚式」をやった人はいないと思います。」

と頭を下げた。会場から大きな笑いと冷やかしの歓声が沸いた。続いて、稀世にマイクが渡される。

「皆さん、ありがとうございます。ついさっきまで「余命半年告知の残り一ケ月無い、いつ死んでもおかしくないポンコツの嫁」こと、私、長井稀世の生前葬から、「余命100年の診断」を受け、この世に戻ってまいりました。この半年、ニコニコ商店街のみなさん、大阪ニコニコプロレスのみなさん、ここでのサービス利用の市民のみなさんの励ましで、実に充実した毎日を送らせていただきました。

 今日を節目に、生まれ変わった気持ちで、再び皆さんと一緒の生活を続けることができることになりまして、幸せの絶頂です。三朗さんと一緒に頑張っていきます。今後ともよろしくお願いします。」

と、深々と頭を下げた。会場の夏子と陽菜からの「キス」コールは、次々に伝播し、会場全体の「キス」コールになった。リング上にスポットライトが当たり、三朗が稀世のあごに指を添え、唇を重ねた。この日一番の拍手が起こった。すごく遠くで、パトカーのサイレンが聞こえた。


 檜が、参加者に向かい、宣言した。

「改めて、ニコニコ商店街の女神の稀世さんとその最愛の人の三朗君に大きな拍手をお願いします。では、これより、長井稀世さんの「生前葬」改め、「結婚披露宴」に移りたいと思います。今回は、稀世さん、三朗君への過度なアルコールでのお祝いは、避けていただきますようお願いいたします。特に、武藤さん、直さん、ニコニコプロレスの皆様におかれましては、ご理解いただきたいと思います。なっちゃんと陽菜ちゃんは特にね。」

会場から大きな笑いが起こった。会場外では、複数のパトカーのサイレンがあわただしく走りまわっている音が近づいてきている。

 

 「いったい、何の騒ぎなのかしら。めでたい席に、パトカーのサイレンは、邪魔やね。」

まりあが呟くと、夏子がスマホの画面を見せた。

「おそらく、これっすよ。」

大阪門真市、銀行強盗のふたり組逃走中。とネットニュースの見出しが目に入った。

「あー、まりあさん、結構近い場所っすね。」

横から、覗きこんだ陽菜がまりあに言う。(何んなの、この得体の知れない不安感は?)まりあは背中に冷たいものを感じた。外を走り回る、パトカーの台数は、十数台は、いるように聞こえる。


 披露宴は、和気あいあいとした雰囲気で進んでいる。今回は、記憶が飛ばないように、三朗も稀世も片手にオレンジジュースのコップを持ち、ビールの酌は丁寧にお断りしている。ましてや、日本酒の一升瓶を持って近づいてくる者は、かずみとさとみがボディーガードとして「今日は、堪忍したって―な。」と丁寧に対応していた。パトカーのサイレンが、徐々に近づいてきている。


 「稀世お姉ちゃん、三朗お兄ちゃん、結婚おめでとう。お姉ちゃんが死ななくなって良かった。」

と小さい花束を持って、武雄と凛がお祝いに駆けつけた。きっと、武雄と凜が、近くの公園でつんできたと思われる菜の花とタンポポが、赤い折り紙で包まれ、「おめでとう!これからもなかよくしてね!武雄、りん」と書かれたカードが添えられていた。稀世は、凜から小さな花束を受け取ると、武雄と凜を抱き上げた。

「武雄君、りんちゃん、ありがとうね。お姉ちゃん、これからも、みんなと一緒やからね。武雄君も凜ちゃんもお手伝いしてな。」

とほっぺに「ちゅっ」とした。武雄は真っ赤になって照れている。西沢米穀の倉庫の向かいの道路の、右からも、左からもパトカーのサイレンが近づき、「キキーっ!」とブレーキ音が響いた。窓越しに赤い回転灯の光が見えた。


 バタンっ!激しく入り口のドアが開かれた。

「おらおら、騒ぐな!おとなしくせえ!」

迷彩服に黒の目出し帽のふたり組の男が飛び込んできた。入り口付近にいた、女性部会の奥方たちから悲鳴が上がった。取材のテレビ局のカメラのレンズが入り口に向かう。ひとりは、185センチ以上でがっしりした体形で、大きな黒いリュックサックを背負っている。もうひとりは、170センチ弱くらいの中肉中背。黒いスポーツバッグを肩から掛けている。開いたままのチャックの隙間から、札束らしきものが見える。ふたりとも刃渡り30センチはある、コンバットナイフを剥き身で右手に持っている。ナイフの刃がにぶい光を放っている。

(えっ?こいつらって、さっき夏子が見せてくれた、銀行強盗?)まりあは、瞬時に理解した。

「はいはい、みなさーん、お楽しみのところ悪いが、女子供を残して、男は、全員出ていけ。今すぐや。余計な血は見たないんで、おとなしく動けや。」

それまで、和気あいあいとしていた会場の空気が一気に凍りついた。

「なんやお前ら。無粋なもん持ち込みやがって。」

背の高い男に、掴みかかった武藤の頬に男のナイフの柄がヒットする。鼻血が吹き出し吹っ飛ぶ武藤。

「社長に何すんねや。」

飛びかかった、杉田の腹に正面蹴りが入る。明らかに、格闘技の経験があるものの動きだ。杉田は、武藤に折り重なり、呻いている。

「おいおい、なんやえらい元気な奴が多いな。次は、遠慮せんとブスッといくで。死にたくなかったら、さっさと出ていけや。俺は、気が短けーんや。ほらほら。」

とナイフをちらつかし、奥へと進んでいく。小さいほうの男が、凜に目をつけた。バッグをかけた左手で凜を抱え込み抱き上げる。

「第一人質ゲットー!」


 武雄が、男の左足の太ももにタックルする。

「凜に何するんや!放せ!」

男は、ぶんぶんと足を振るが、離さない。黒マスクの男の腕の中で凛が泣きじゃくる。男はナイフを持った右手で振り払おうとした瞬間、武雄が男の手を掴み右手首に思いっきり噛みついた。

「痛ってーなー、このクソガキ。」

右手で武雄を振り払い、吹っ飛んだ、武雄を踏みつけようとする。

「こどもに何すんねや!」

三朗が、男に飛びかかるが、ナイフのグリップで後頭部を一撃され、三朗はその場に倒れこむ。

「サブちゃん!」

稀世が、一歩前に出ようとしたところ、直が制止する。

「おいおい、結婚式の最中ってか?白無垢着て「幸せの絶頂でーす」ってか?「思いっきり、不幸な思い出」にしてしもて、すまんのう、お姉ちゃん。」

小柄な方の男が悪態をつく。

「とっとと、男は出ていけ。そこで倒れとる三人と勇敢なちびっ子も誰か連れて行ったってや。」

ぞろぞろと、男たちが出て行く。倒れた武藤と杉田は広義が手を貸し、三朗は気絶しているので徹三が背負い、武雄の手を取り、出て行った。

「強盗犯のふたりに告げる。これ以上、罪を重ねるな。お前たちは、完全に包囲されている。おとなしく自首しなさい。」

刑事ドラマでお決まりのセリフが蔵の外から聞こえる。ふたりの黒マスクの男が入り口側に意識が向いた瞬間、テレビ局のカメラマンが、そっとリング下のキャンバスに潜り込んだ。


 「花嫁のお姉ちゃんとばばあとこの女の子残して、後はみんな帰ってええよ。俺らの気が変わらんうちに、早く出て行ってなー。」

 小さい方の男は、凜を抱っこしたまま、リング上に残されていたマイクで好き勝手話している。大きいほうの男が、ナイフをみんなに突き付け、蔵から出るのを急かしている。最後に、まりあが稀世と直と凛の方を振り向き言い残した。

「必ず助けたるからな。絶対無理したらあかんで!」

「はいはい、できもしないこと言えへんの。ばいばいきーん。」

とまりあを外に押しやると、ドアを閉め、錠をかけようとした。いつもかかりにくく、新しい錠に変更しようとしていた鍵はうまくかからず、大きい男は四苦八苦している。相変わらず、外からは、まったく効果のない説得が続いている。「稀世ちゃん、隙を見て小さいほうから、やるでな。凛を連れて、逃げるんやで。」直が小さな声で稀世に言った。稀世は小さく頷いた。リング下の垂れ幕と床の隙間からカメラのレンズは覗き続けている。


 なかなか閉まらない鍵にイライラした凜を抱えた小さい方の男の意識が、稀世と直から外れた瞬間をふたりは見逃さなかった。無言のアイコンタクトで、直が一歩踏み込み、右手の親指と人差し指で凜を抱きかかえる左腕の肘のツボに指を入れた。「ぐあっ!」男の叫びと同時に、男の肘が垂れ下がった。凜の身体が「すとん」と床に降りた。男の肩から落ちたバッグの中から、札束が床に散らばった。

 稀世は、小走りで男の胸に左肩からショルダータックルをかました。(着物で歩幅がとれへん。浅いか?)男が吹っ飛ぶイメージで体当りしたが、尻もちをつく程度の当たりだった。背の高いほうの男が振り返った。稀世は、凜を右腕で抱きかかえ、入り口の前の男の喉元に左腕のラリアットを入れた。男の背中が、ドアを押し開け道路に倒れこんだ。開いたドアから、正面に心配そうな顔をしたまりあ、夏子、陽菜の姿が見えた。稀世は、

「まりあさん、凜ちゃんをお願い。」

と叫ぶと同時に凜をまりあに向かってラグビーボールのパスのように放った。まりあが両腕で凜の身体を受け止めた。倒れた男の右手のナイフを蹴飛ばすと、

「なっちゃん、陽菜ちゃん、こいつの後処理よろしく。」

横にいた警察官よりも早く、夏子と陽菜のエルボードロップが男のみぞおちと急所に食い込んだ。遅れて警察官が男に飛びかかったのを横目で確認し、蔵の中の直の姿を目で追った。

 きれいな円弧を描き、男が背中から床に落ちる瞬間が、稀世の目に飛び込んできた。男は、ブリッジで、跳ね起き、右手のナイフを逆手に持ち直し、再び直に正対しナイフを振り下ろそうとした。直は一歩踏み込み入り身投げに入った。再び男は回転したが、直の動きを読まれたのか、背中から落ちず、足から着地し再びナイフを振り上げた。

 男と斜対した直は、だらりと下がった男の左腕を下に、振り上げたナイフを持った右手を上に払い天地投げの体勢に入り、右足を踏み込んだ。「ブチっ!」直のサンダルのベルトが弾け切れ、直が大勢を崩した。天地投げは不発に終わり、小手返しを出そうとするが男の足が一歩早く、右膝蹴りが直の左太ももにヒットした。2メートルほど横に飛び、着地した直に苦悶の表情が浮かんだ。

 直は、再び正対した位置関係から正面に踏み込み、男の右腕をひねり、逆L字型に固め、相手のナイフが右手から落ちるのが直の目に入り、相手の懐に飛び込んだ。(だめ、直さん。踏み込みが浅い上に、落としたナイフはフェイクや!)稀世は、一瞬で判断し3メートル先の直に向かって飛び込んだ。男は、右手から落としたナイフを左手で受け、懐に背面で入った直の腹部に向けナイフを突き上げた。


 「グサっ!」、「カコーン」、直の前に飛び込んだ、稀世の腹にナイフが突き刺さった。刃渡り30センチに及ぶコンバットナイフの半分が白無垢に吸い込まれていった。(あぁ、今回も「節目」って思ったのがあかんかったんやろか。サブちゃん、ごめん。やっぱり、お葬式になる運命やったんかな。せっかく、赤ちゃん作れる思て、調子に乗ったらこれや。やっぱり、私って持ってない女やったんかな。サブちゃん、さよなら。次に、生まれ変わったら、普通に知り合って、普通に一緒になって、普通に長生きしよな。)走馬灯のように、この5年半の三朗との思い出が稀世の頭の中を巡った。稀世は、腹にナイフを突きたてた状態であおむけになって倒れた。一筋の涙が、頬を伝った。稀世の転倒に巻き込まれる形で、男も直も一緒に転倒した。直は、倒れながら、腹に深々とナイフが刺さった稀世に叫んだ。

「心亜―っ!」

男がいち早く、立ち上がり稀世の腹からナイフを引き抜こうとするが、深く食い込んでいるために抜けない。二度、引き抜こうと力を入れたが、抜けなかった。諦めて拳を握り込み、直の方に振り返った瞬間、

「この野郎!稀世の仇やー!」

真っ赤な鬼の形相をしたまりあのドロップキックが男のあごを蹴り砕いた。低く鈍い骨が砕ける音がした。


 「稀世さぁぁぁぁん!」

泣き顔とも驚きの顔とも何とも表現のしようのない顔で、駆けて近づいてくる三郎の顔が稀世の視界に入ってきた。倒れた、稀世の頭を正座の体勢で両ひざの上に乗せ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で三朗が必死に声をかけた。

「稀世さん、稀世さん、死んじゃダメや。稀世さん、稀世さん、稀世さん、稀世さん。」

「さ、サブちゃん、こんな私でごめんやったな。そんで、今まで、ありがとう。大好き・・・。」

稀世は、ゆっくりと瞼を閉じ、首ががくんと傾いた。

 なだれ込んできた、警察官により、黒マスクの男は確保された。三朗の膝の上に頭を載せ横たわる稀世を、直、まりあ、夏子、陽菜、かずみ、広義、さとみ、徹三、笹井、雅子、檜、由紀恵、武藤、武雄、凛たちが囲んだ。まりあと夏子は、稀世の手を握り大声で泣きじゃくっている。十重、二十重に囲まれた人込みを押しのけて、医師の本田が近づいてきた。テレビ局のカメラマンもリング下から這い出し、肩にカメラを載せ、稀世にレンズを向けている。凜が「お姉ちゃん、死んでしもたん。」と呟いた。

 

 本田が、夏子を押しのけ、稀世の手を取り脈を診る。稀世の口元に耳を近づけ、稀世の閉じた瞼を右手の人差し指と親指で開いて覗き込んだ。腹に刺さったナイフを人差し指と親指でつまみ引き抜こうとするが、すぐにやめた。稀世の頬を「ペシペシ」と平手で叩く。

「先生、稀世さんに何するんですか!」

三朗が怒気を含んだ声を上げる。本田は、三朗の言葉に耳を貸すことなく、頬をたたき続ける。

「もう先生、ええ加減にしてくださいよ。稀世さん、いたぶって、何が楽しいんですか。」

三朗が叫んだ瞬間、稀世の瞼がぴくぴくと動いた。

「さ、サブちゃん、うるさいで。さっきから。ゆっくり寝てられへんやんか…。せっかくきれいな川沿いのお花畑で横山やすし師匠と遊んどったのに…。」

そっと、瞼を開けた。

「えっ?」

周りのみんなが押し黙った。本田が立ち上がり、ゆっくりと話し出した。

「視覚から来る、インパクトのある画像情報により、脳が混乱することがあるんですね。長井さんの場合、凶悪犯の持つ大型のナイフの映像情報が、脳内で「これが刺さったら間違いなく死んでしまう。」という意識が、犯人たちが来てから、この数分の間で刻まれていたのだと推測します。その後、自らの腹部にナイフが深く突き刺さっているところを見てしまったがゆえに、先ほど長井さんが「川沿いのお花畑でやすし師匠と遊んでた。」とのくだりがありましたが、長井さんの脳は、「刺されて死んだ。」と判断したんでしょうね。

 でも、もうご安心ください。少なくとも、脈も呼吸も正常ですので、いわゆる「精神的ショック性意識喪失」の状態で倒れたのだと思われます。前回の誤診の件がありますので、慎重に見させていただきましたが、身体的には、何ら問題は無く、正常だと判断します。

 ただ、不可思議なのは、ナイフがこれだけ深く刺さっているにも関わらず、白無垢には、出血の後は確認できず、ナイフも固定されたように動かない。その点は、私からは説明できないですが。」

「あっ!まな板や。稀世ちゃん、おっぱい大きいから。タオル足らんで使わせてもろたんやった。」

雅子が左手のひらを拳でとんと叩き、叫んだ。


 三朗を背に上半身を起こし床に座った稀世の正面に立ち、まりあが、両手でナイフを引き抜こうとした。一回では抜けず、両足を踏ん張っての二回目でようやくナイフは抜けた。刃先に血痕は無い。暗い鋼色の光沢があるだけである。白無垢の表面には5センチ幅の切創が残る。まりあは、白無垢の合わせひもをほどき、帯をクルクルとほどいていった。羽織、長襦袢をはだけると、折りたたまれた白いバスタオルが二枚出てきた。中央部には羽織と同様に5センチの穴が開いている。二枚のタオルを取り除くとまたバスタオルが出てきた。(なんか硬い?)まりあが拳の甲で稀世のお腹をたたくと「コンコン」と音が響く。周りの皆が固唾を飲みこむ。バスタオルにくるまれた、20センチ×15センチで厚み3センチほどの小型の木製まな板が出てきた。さらにその下にもう一枚、下のまな板には1センチほどのナイフの先端が刺さってできたであろう、傷があった。

「あぁ、このサブちゃんのまな板が、稀世の命を救ってくれたんやなぁ。」

まりあが三朗に向かって呟いた。

「いや、この小さいまな板、親父とおかんが出張調理の時に使ってた、巻きずしの切り分け用のものなんです。僕のものじゃないんです。皆さんに、巻きずし振舞うつもりで、親父の形見のまな板と包丁を控室に持ってきてたはずやのに、どこに行ったんかなぁって思ってました。まさか、稀世さんのお腹の中にあったとは。」

「そうやったなあ。きっと先代とひろ子が、稀世ちゃんを守ってくれたんやとわしは思うぞ。」

直が、稀世の肩に手を添え、優しく言葉をかけた。(お義父さん、お義母さん、ありがとうございました。まだ、三朗さんと一緒に居れそうです。)稀世は、天井を仰いで、お腹のまな板を優しく、何度も撫でた。

 

 「すいません、まな板アップで撮りたいんで、こっちに向けてもらえますか?」

テレビ局のカメラマンの要望に、まりあが、ナイフが貫通した一枚目のまな板をカメラに向けた。

「もう一枚もお願いしていいですか?」

「はいよ。まさに奇跡の一枚ってやつやな?」

とまりあがまな板を取り出そうとした。

「あっ!まりあさん、ダメ!きゃあーっ!」

と稀世が叫んだ時には遅かった。二枚目のまな板をくるんだバスタオルとずれ防止に安全ピンで留められた、最後のバスタオルも一緒に取り払われ、稀世のGカップのバストが、カメラの前に現れた。門真銀行強盗逃亡立てこもり事件現場生中継とのテロップが出ている午後のワイドショーの全国放送に稀世の「爆乳」が映し出された。稀世は、真っ赤になり両手で胸を隠すが、両手で隠しきれる大きさではない。

「稀世ちゃんの生乳見んの、そういえば初めてやったなあ。乳だけなら、やっぱり心亜以上やわ。」

直が独り言のように言った。雅子が慌ててバスタオルで稀世の胸を隠す。ホッとする稀世。

「そういえば、稀世姉さんが刺された瞬間、直さん、「ここあ―っ!」って叫んでましたよね。稀世姉さん、そんなに「ここあちゃん」っていうお孫さんに似てるん?」

と夏子が聞いた。

「ああ、似とるで。着物着るともうそりゃそっくりや。わしとこの心亜も稀世ちゃんと同じくらいかわいかったでな。見てみたいか?」

「うんうん。見たい、見たい!」

と興味津々の夏子に直は、懐からスマホを取り出し、一枚の写真を開いて、夏子に渡した。

「ぷっ、ぎゃははははは!」

突然、夏子が大笑いした。今度は、陽菜が横からスマホを覗き込み、「どひゃひゃひゃひゃ。」と夏子以上に爆笑している。「えっ、なになに?」とまりあも覗くと、「ぶぶーっ!ぶっぶぶぶぶぶー。」と吹き出し、ふたりの三倍笑い転げている。

 大阪ニコニコプロレスのみんなに、夏子が直のスマホの画面を見せて回る。スマホの画面と稀世の顔を見比べて、全員が腹を抱えて笑い出した。


 「えっ!この笑いは何なん?私にも見せてよ、直さん。」

と稀世が言うと、直が夏子からスマホを取り上げ、稀世に渡した。

「この子が、わしの一番の自慢じゃった孫の「心亜」や。かわいいやろ。」

「・・・・。」

「どや、稀世ちゃん。色白で、ちょっとポチャッとしたところなんかよう似とるやろ。」

「な、直さん、心亜ちゃんって、男の子やったん?白いまわしつけて、お相撲さん?」

「そうや、高校三年のインターハイ出た時の写真や。通り魔事件に遭って無かったら、淡路島部屋から、大相撲に進む予定やったんやで。120キロあったから、まさに大型新人って期待されとったんやのになぁ。残念なことになってしもたけど。あっ、涙出てきてしもたわ。」

(直さんの孫とはいえ、お相撲さんにそっくりって言われても・・・。)稀世は再び卒倒し、胸を隠していたバスタオルが再び落ちた。三朗が、慌ててタオルを掛け直し、直の写真を覗き込むと、白いまわし一枚で、賞状を胸の前に持った笑顔の心亜の記念写真だった。(120キロのお相撲さんにそっくりやって言われたら、そりゃ卒倒してまうわな。)三朗もクスッと笑った。


 リング横のソファーで稀世が目を覚ますと、再びどんちゃん騒ぎが始まっていた。ずっと、横に着いていた、三朗が皆に言った。

「皆さん、稀世さん、目覚ましました。」

 テレビ局のカメラマンとインタビュアーと来客のみんなが、稀世と三朗の座っているソファーの周りに集まってきた。インタビュアーが、前に出てきて稀世にマイクを向けた。

「稀世さん、「余命半年の最後のひと月」から、生前葬で「余命100年」の太鼓判をもらい、最後には、披露宴で、強盗犯のナイフに深々と腹部を刺され、三途の川沿いのお花畑から帰還、まさに「不死身の花嫁」ですね。今日一日で、大変な変化がありましたが、感想をお聞かせください。」

「はい、もう近いうちに死ぬと思っていた、午前中からしたら、赤ちゃんも作れることになったし、めちゃくちゃ幸せです。ただ、「不死身の花嫁」って化け物女みたいなイメージですやん。テレビで放送するのは堪忍してください。ここ、カットしたってくださいね。」

インタビュアーが、少し困った顔で言った。

「稀世さん、今これ、生放送でスタジオに繋がってるんですよ。」

「えーっ。うそやー。もう、いややー。堪忍してー。」

両手で顔を覆って、三朗の胸に顔をうずめた。リングの上で、すっかり、酔っぱらった檜と鼻血が顔に残る武藤が音頭を取って、叫んだ。

「ニコニコ商店街の女神、「不死身の花嫁、稀世ちゃん」に万歳三唱やー!」

会場にいた、稀世と三朗とインタビュアーとカメラマン以外の全員が、両手を挙げて、ぴょんぴょん跳ねながら繰り返した。武雄と凜も大人たちに混ざって、飛び回っている。

「稀世ちゃん、ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい。」

その万歳は、途切れることなく、テレビで全国に流されながら、午後三時四十四分を迎え、次の番組に切り替わった。


「エピローグ」

 稀世の生前葬と第二回披露宴から二年後。「門真ニコニコカーニバル」の一環として、大阪ニコニコプロレス単独開催、門真ニコニコ商店街協力による秋の門真大会が門真市立総合体育館サブアリーナで開催された。メインアリーナの1647平方メートルに対し、サブアリーナは641平方メートル。バレーボールコート二面がとれる広さで。中央にリングを設置し、長辺側に広く観客席を取り短編側はリングサイド含めて5列の設定で、250席の会場設定となっている。一日の使用料は終日で一万二千円。リングや音響設備は、西沢米穀リングから持ち込んでいるので、飲み物代が約一万五千円と若干のチケット郵送料だけが大阪ニコニコプロレスの経費持ち出しとなっている。

 チケットやポスターは、新しくついたスポンサーの印刷業者が提供してくれており、チケット収入約百万円強に対し、持ち出し経費は約三万円弱。運営は大阪ニコニコプロレスと各種参加団体及びボランティアによって行われる。チケットは、この二年間の広報活動の甲斐もあり、前売りだけで完売したので、臨時で二千円の立ち見チケットを100枚追加したことでチケットの売り上げ収入が二十万円上積みされた。売り上げの一部は、ニコニコ商店街のこども食堂と市民サロンおよび福祉配食サービスに当てられることになっている。

 この二年間、学生・社会人プロレスと共に行ってきた西沢米穀特設リングでの試合のネット中継やファンとの交流イベントなど固定したファンがついたこともあり、アマチュア団体も参加する今回の大会は、京阪エリアの広いエリアから来場者が集まった。

 午前中は、プロレスと同じく、西沢米穀リング会場をベースに活動してきたインディーズバンドのライブ、インディーズ劇団の公演、漫才・コントのお笑いの複合ライブ公演で入れ替え制になっているがそちらもチケットの売れ行きも好調とのことだった。地元ケーブルテレビと今回のイベントを地域活性の成功例として、多数の市会議員、商工会、他の商店街から視察に来ている。

 一年前の元大手メーカーの工場跡地にできたショッピングモールで消滅の危機を迎えていた、ニコニコ商店街は、二年半前の会員数二十六件から奇跡のV字回復で現在の会員数は四十五を超え、大昔の五十件に近づく勢いである。一番変わったのが、この二年間で新たに会員となった店主の平均年齢が28.9歳と極端に若年化しているところだ。

 今日のプロレス大会の成功も、ニコニコ商店街の若手執行部と女性部による応援が大きな力になっている。子供から年寄りまでもが協力し取り込んできた。地味ではあるが、熱心でかつ丁寧な活動が実を結んだ背景がそこにあった。数多くの街おこし施策が全国で行われているが、ここまで短期間で成功したのは稀な事例だとマスコミに取り上げられてきた。


 午前中のライブは最初のお笑い演者から最後のバンドライブまで大いに盛り上がり終演した。お昼を境に観客の入れ替わりが行われる中、多数の継続の客がいたのも今回のイベントの特徴だった。午後一時から始まったプロレス大会は、10試合のプロアマ混合開催で、熱狂あり、笑いありでテンションは、うなぎ上りだった。

 夕方六時、いよいよ今日のメインイベントの時間となった。最高のボルテージの中で、リングアナがマイクを握る。

「青コーナー、大阪が生んだ伝説のヒール。再起不能のケガからの復活、不屈の闘志、大阪ニコニコプロレスの生けるレジェンド、実はいい人「デンジャラスまーりーあーっ!」」

スポットライトが当たった、青コーナーへの通路入り口から、まりあがリングに登場する。割れんばかりの拍手と歓声が門真市立総合体育館サブアリーナを揺らす。大歓声に両手を振ってまりあが応える。

 続いて、リングアナが反対サイドに振り返り、マイクを口元に上げる。

「赤コーナー、門真が育てた奇跡の女神。余命半年の告知も、凶悪犯に刃渡り30センチのナイフで腹部を刺されても、地獄からの死神を「なんでやねんチョップ」でKO。神に愛された不死身の女。「キャンディー稀世」こと「安―きーよーっ!」

場内の照明が落ち、再び点灯した入場口の赤いスポットライトの中から稀世が登場。登場曲の「大阪ファンクラブ」がアリーナに流れる中、かつての「横山やすし師匠」の扮装で、通路横の席の観客に飴ちゃんを配りながら入場してくる。リング入場での転倒から眼鏡を探すしぐさ、セコンドへの「なんでやねんチョップ」。二年半ぶりのパフォーマンスに会場は笑いと歓声で大盛り上がり。


 リング中央で顔を突き合わす稀世とまりあ。

「まりあさん、帰ってきました。今日は、胸借ります。」

「ああ、おかえり、稀世。今日は、ひまちゃんの初観戦や。いい試合しような。」

握手と同時にゴングが鳴った。会場は、大歓声に包まれた。

 大歓声のアリーナ席リングサイに、赤いベビー服を着た小さな女の赤ん坊を抱っこした三朗とその横に「デンジャラスまりあ」の名前入り鉢巻をした直がいる。直は、まりあと稀世に、右手を挙げて歓声を上げている。

 その大歓声の中、三朗が赤ん坊の耳元で囁く。

「ひまわりちゃん、あのリングにいるかっこいい人が、おまえのお母さんなんやで。お父さんが世界で一番大好きな人やねんで。さあ、一緒に応援しよな。」

END




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