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女が働きたいと言う。俺は断った。女がいてもいいが、いつ誰がやってくるかわからない。お客で来ている分には、勝手にきたのだから己の足で逃げろということになるが、従業員となると別だ。働かせるわけにはいかない。こっちの責任問題にされちゃ困る。はっきり言って足手まといなのだ。
俺はきっぱり断った。
女は不平等だと憤った。俺は彼女のために断ったのだが、お判りでないらしい。彼女はそんならいいわ、と踵を返した。俺はホッとした。
その後は、その女は来なかったので諦めたのだと思っていた。
だが、どうやら違ったらしい。
俺が兄貴の部屋のドアノブを回そうとすると一人でに動いて、ドアが開き、中から女が飛び出してきたのだ。それが、あの頼み込んできた彼女だ。俺はがっしり彼女を捕まえて、部屋に押しやった。一緒に入り、ドアに鍵をかけた。
彼女はあの不平等だと憤った時と同じ勢いで俺を罵った。
どうやら、命の危機を感じて逃げ出したところだったらしい。それが運悪く逆戻りだ。
兄貴はベッドに座って笑っている。シャツが肌蹴ている。ボタンが一番下あたりしか閉まっていない。俺は彼女の肩を掴んで兄貴のところまで連れて行く。兄貴は笑って見つめている。
「お前がいたんで助かったよ」
「離しなさいよ!」と女が声を出すので、兄貴がうるさかったのか、髪をひっつかみ口を開け、中にハンカチを突っ込んだ。彼女が兄貴を引っ掻こうとするので、腕を押さえ込んだ。足に関しては、兄貴が動かせば撃つと言ったので、蹴られずにすんでいる。
「兄貴、面白がってからかうのはよせよ」
「からかってないさ。彼女がうちでディーラーをしたいって言うじゃないか。色々聞いてやったのさ。お前断ったんだって?」
「断った」
「男女平等がどうのと言われた」
「俺も言われたよ。俺は彼女のために断ったんだぜ、言っとくけど」
「ああ、そうだろうよ。うちで働きたいしか言わないんだ。何かしらの目的があるだろうって聞けば、ディーラーになりたいんだと。好きな男でも働いてるのかって聞いたんだが、違うってんだよ。だったら、他のとこで働けって言ったんだがな、どうしてもって聞かないんだよ」
「それで?」
「それでな。俺は提案したんだよ。運良く俺から逃げきれたらディーラーにしてあげようって。それで、さっき彼女が勝ちかけたんだ」
兄貴は笑っている。どうせ俺がきているのがわかってて逃がしたんだろう。
「でも、負けたわけだ。なんかいいたそうだぜ、外してやれよ」
「噛まれそうで嫌だな」なんていいながら、ハンカチを口から抜き取った。抜き取られた彼女はハキハキと「外からくるなんて聞いてないわ! そんなのズルみたいなものよ!」と言った。兄貴はそれを聞いて大笑いしている。それに彼女はカンカンに怒って、盛んに兄貴に対して賭けが不平等だと怒鳴った。
兄貴はニヤニヤしながら、寝転んで彼女のありがたいご忠告とお言葉を聞いている。好きなだけ吐き出させて、彼女の口が疲れたところで「休憩だ」とハンカチをまた押し込んだ。
「お嬢さん。運ってのはな、こういう時に賭けたりしちゃいけないもんなんだ。こういう時はちゃんと話し合って交渉しなきゃ、頭が足りないね。前に俺から逃げられた女は頭が良かったよ。彼女は今じゃ、どこぞの金持ちの奥様だ」と彼女の足を撫で上げて、スカートをだんだんと上げていく。彼女は体をよじりたいだろうが、撫で上げているのが手じゃなくて冷たい鉄の塊だ。動けば、ズガン! だ。
「いいかい。運ってのはね、自分で掴むもんなんだよ。頭で考えてな、周りを見て、闇雲になんの確証もなけりゃ動かずじっと待つ。それで、釣り糸に獲物が引っかかった時みたいに慎重に手繰り寄せるんだ。お嬢さん。あんたは運がなかったんじゃない。バカだっただけだ。そもそも、弟がちゃんと断ったろう? なのに、俺のところに来た。だがなあ、弟の断り方がダメだったって場合もある。どんな断り方したんだい、アレックス」
兄貴は笑って、俺を見上げる。
時々、確かに女で働きたいってやつが来る。金が必要だ、好きな男と一緒に働きたいだのそんなのだ。そんな時、俺は彼女たちにちゃんと説明して断っている。
ギャングの組織が経営していること、時々ガラの悪いのが来て、殴り合いのドンパチ騒ぎになるから危険だと言うこと、腕力のいる仕事をさせていること、殺されるくらいに厳しいことを懇切丁寧に教える。そうすれば、大抵は怖気付く。
そしたら、俺は他の仕事を斡旋する。大概はキャバレーだのなんだのの、派遣して来てもらう方の仕事だ。楽器ができるってんならバンドだって紹介する。
だが、彼女はそれを意に介さずに怒ったのだ。男の仕事は女もするべきだと思っているらしい。それこそが平等だと思っているのだろう。だが、それは違う。相手をお互いに尊重してなきゃ、それは違う。人間として当たり前だが、女も男も等しく尊重するのが平等ってもんじゃないか?
だから、兄貴が俺の説明を聞いて「彼女の勇姿を称えて、男と同じ扱い方をしようじゃないか」と言い出したのも無理からぬ話だ。兄貴は彼女が男と同じであろうとしているところを尊重してるのだ。
「せっかくだから、楽しむ気でいたが、それじゃあ、彼女の尊厳が傷ついちまうからな」
銃を持った兄貴の手は、足から移動して、腹の上にある。それがどんどん上がっていって、眉間に止まった。カチと兄貴がハンマーを起こした。
その音がした瞬間、彼女は腰が抜けて座り込んでしまった。それでも、彼女の目は怒りで爛々と兄貴を睨み、また、俺も睨んでいた。
「俺を恨むなよ? 恨むなら自分のおつむと性格を恨むんだな」と彼女の手の甲にキスをして、俺の顔を見た。俺も兄貴を見返した。
大きな音がして、やんだ後、兄貴は「お前があのまま逃がしてやれば、いくらかは寿命が伸びただろうよ」と言った。俺は「たった数分だけだろう?」と返した。兄貴は笑って頷いた。
「兄貴」
「なんだよ」
「今日のスーツ白なんだよ、俺」
「赤く染めちまえば?」
「風呂で落とすよ」
「ズボンにもついてるぜ」
俺はズボンのチャックを下ろして下着を見た。
「下着についてないだけマシさ」
兄貴も頷いて「そうだな。お前なら、俺みたいに下着に血をつけりゃ、実は女だったかって思われるだろうよ」と言った。
「やめてくれよ、冗談じゃない」
「アッハハハハハハハ! 今度そういうのもいいかもしれないな」
「冗談! 俺は絶対嫌だね。家のシーツが汚れるなんてごめんだ!」
「いつも汚してるじゃないか、お互い」
「血じゃなきゃいいんだよ」
「そうかい。でもよ、あのムワッとした鉄の匂いはそそるぜ」
「それはわからないでもないが、絶対に嫌だ。兄貴、絶対にするなよ」
「ああ、わかってるとも。今度黒いシーツを買う」
「兄貴!」
「イッヒヒヒ! さすがに家じゃそんなハードなもんしねえよ」と兄貴はおどけてみせた。それから、風呂桶に水を張って、一緒に服を洗ってくれた。
だが、結局、スーツは女と一緒に捨てた。代わりは、この部屋にあるので、それを借りた。
この時、スーツと一緒に捨てたのがいけなかった。6ヶ月後に報いがくることになったのだ。しかし、まだ俺たちはそんなことなんて知らない。酒を飲んでチェスをしたり、仕事をやったり呑気に暮らしていた。
俺たちは永遠に死なないものだと思っていたのだ。
いや、本当はいつか死ぬことはわかっていた。だが、想像できなかったのだ、そんなものが。他人のは見飽きるほど見てきた。俺が照準を合わせて、兄貴が引き金をひいていた。目が虚ろになっていくところも、血の気がなくなっていくところも、硬くなっていく身体も、冷えていく心臓も、なにもかもほとんど見てきた。ただ、幸せな死にはお目にかかったことがない。兄貴は死ぬのに幸せもクソもあるまいと言う。だが、本当にそうなのだろうか。どこかにはあるんじゃないか、そう思う。そう願いたい。
地獄に行くのは、もうとうに覚悟を決めている。それは大丈夫だ。ただ、死ぬ間だけが怖い。兄貴はその間でも笑っているだろうか、わからない。
俺たちはちゃんと生きたと思う。誰よりも真面目に。いや、やってることは不道徳的で褒められたもんじゃない。むしろ罵られるべきことだ。だけど、生きたと思うぜ、俺たち。そこは褒められるべきだと思うね。
そのうちに、必死に生きる連中もいなくなるさ。そんなつもりになってるだけで、本当はそんなことないんだ。金だの家だのの話じゃない。そういうのじゃないんだ。確かに、兄貴は金が好きだ。生きるためにいるからじゃなく、面白く一番世の中を満喫するためだ。
兄貴に一度、全部の金を使って豪遊してみないのかと聞いたことがある。兄貴は笑って「毎日豪遊してるさ。ただ、いっぺんになくすだけのものがないだけなんだ」と言った。
「金はあったって仕方がない。こいつが本当に命を守ってくれるわけじゃない」
「じゃあ、なんで金持ちになったんだよ」
「あったほうが面白いだろう? それに便利だ」
「それだけ?」
「それだけ」
「じゃあ、誰かに全部くれって言ったら、くれてやるのか?」
兄貴は笑って「いや」と首を振った。
「俺のものをなんでやらなきゃならないんだ」
そう言って、俺に金を豪遊できるくらいに渡した。俺は兄貴のためにいて、兄貴のものだ。そうでないなら、俺は死んでいる。自分のものに自分のものをくれてやる分にはいいらしい。甘いというより寛容だ。
俺はその金を使って、命一杯豪遊した。欲しかったブランド物のジャケットを羽織り、イカした女を買って、行きたいところに行き、金を使い果たした。そうして家に帰ってみると、兄貴がウィスキーを飲みながらマガジンを読んでいた。
「よう、どうだった」
「楽しかったよ」と俺は言った。
「満足か?」
「うん」
「ブランドのジャケットを買って、時計を買って、タイもズボン、それから香水に女。酒に食べ物。そういうのに使ったろう」
「ああ、使った」
「明日になったら、うんざりするぜ」
「兄貴、豪遊したことあるのかい?」
「あるよ。車買って、ぶっ飛ばして乗り捨てたし、お前みたいにジャケットだの時計だのも買ったし、女だってそうだ。賭け事で全部スってみたり、色々やったぜ」
「へえ、いいな」
「ま、たまにはな。でも、すぐうんざりしちまってダメだ。お前もきっと明日にはうんざりしてるだろうよ」
「なんで? 俺は今いい気分だよ」
「今はそうだろうさ。でもなあ、豪遊したところでなにも満たされない。満たされるのは自己顕示欲なんていうやつさ。俺がどれだけえらくって、金を持っていて、素晴らしい男かってのを見せるだけの行為さ。それになんの価値があるってんだ。虚しいものだぜ、なあ」
俺はムキになって、1週間豪遊して、金を湯水どころじゃなく洪水のように毎日使った。兄貴は面白がってみているだけだった。
たしかに豪遊したって、楽しいのは最初のうちだけだ。自分の欲しいわけじゃないのを買ってみたりして、めちゃくちゃに金を使うのは虚しいものだった。
家に戻ると、パイプをくわえた兄貴が「うんざりしてるって顔してるぜ。金なんざ、別にいいもんじゃないだろ」と笑って言った。
俺は素直になって「ああ、もううんざりさ」と言った。気持ちが軽くなった気がした。
「人は寄ってくるし、欲しいもんは全部手に入る。金がある分、なにかをなくすぜ? 目的があって、金を使うのはいいけど、豪遊したって……そうだろう?」
「うん、兄貴の言う通りだった。兄貴、このうんざりした気持ちはどうしたらいいかな」
兄貴は俺に飯を出して「食べて寝て、明日一日働けばいい」と言った。
俺は飯を食べて、寝て、一日働いた。それが毎日続いている。不思議とうんざりはしない。毎回、今日もちゃんと生きてられたな、と思う。誰かに背中を撃たれることも、刺される事もなかった。
だが、俺は兄貴みたいにはなれない。銃声で生きているとは思えないし、その行為を平然とはできない。兄貴はよく俺の顔を見るが、あれはいつ俺が裏切るか、ダメになるかを見ているんだと思う。じっと見て、探ってくるのだ。ダメになるか、裏切るかすれば、すぐに兄貴は笑顔で俺に向かって躊躇なく銃口を向ける。
じゃあ、裏切りはなにかっていうと、まあ、それはそのうちわかるさ。
基本、この兄弟はフェミニスト。くるっちゃいるけど、基本は紳士たろうとはしてる、と思うし、案外地味な生活とか嫌いじゃない。なにせもともとは中流家庭より少し下くらいの家庭で過ごして来てたから。兄貴がちゃんと稼げるようになるまではジリ貧生活だったし、ボスの援助がなきゃ詰んでた。ボスはいい奴。