17
牢に入れば、依然として恐ろしく綺麗な兄貴が、平然とした表情で硬く冷たそうなベッドに腰掛けていた。
兄貴は笑って「遅いぜ」と言った。俺は悪かったと謝った。
「おい、持ってきたか?」
「うん」と俺は口を開けて、前歯の裏から薬を2つ取った。
俺たちに似合わず白いカプセルだ。だが、これも歯の裏に隠すためだ。さすがの看守も前歯の裏は確認しない。
カプセルを兄貴に渡した。兄貴は枕の裏に置いた。そんなとこで大丈夫かと聞けば、兄貴は笑って「腰抜の看守供は俺と楽しむのさえ怖いとみえる。絶対にあの鍵を開けることも入ることもない」と言った。
「俺はな、こんな檻の中に入れられてるが、ちっとも惨めに思わないんだ。看守たちがかわいそうすぎてな。目の前にこんな上物の獲物があるのに、誰一人として爪先で触ることもしない。しないくせに指をくわえてこっちをじっと見てるんだ」
「そうかい。俺の最初の憂いは消えたわけだ。それで、兄貴。出ることもできるぜ?」
兄貴は笑って「それよりも話をしよう。お前に会えなくて寂しかったよ」と俺の頬を親指で撫でた。
「兄貴、俺は恋人じゃないぜ」
「ああ、俺の弟だ」
「兄貴」
「なんだい」
「俺も寂しかったよ」と俺は兄貴の肩に顔を埋めた。今度は兄貴が「俺はお前の恋人じゃないぜ」と言う番だった。俺たちはそれで大いに笑った。
俺たちは会えなかった時間を埋めるようにずっと話した。
牢屋暮らしがどんなものか、鉄格子の中から見える空がどんなものか、カジノはどうなっているか、ボスはどうしているか、探偵はどうだのなんだのと話した。時々、二人して、看守が通る時にわざと顔を近づけてみせたり、なにかしら兄弟の仲になにかがあるんじゃないかと思わせるような事をして楽しんだ。
看守供は皆平静を装っていたが、目の中には暗くて軽いものがたんまりあった。たしかに、これでは兄貴も惨めと思うどころか、王様気分だろう。誰も自分をさわれず、さりとて捉えているのはあっちで……。へんてこりんだ。だが、世の中そんなもんなのだろう。
看守たちはずっと喋り続ける俺たちに飽きたのか、それとも辟易したのか、最後の一日は牢の前にもどこにもいなかった。
それでも俺たちは喋り続けた。あれこれと。
鉄格子の窓から見える月は細筆で書いた線みたいにか細かった。
俺と兄貴は黙って月を見上げた。
「満月じゃないだなんて、笑えるな」
「ああ、最期に見る月がな」
「でも、まあいいだろう」と兄貴は俺を見た。俺も黙って兄貴を見た。
兄貴は枕の裏から薬を取り出して、俺に渡した。
「こいつは甘いか?」とそんなことを聞く。もちろん、レイモンドに頼んで甘くしてもらった。砂糖菓子みたいに甘いらしい。俺は兄貴に「クリームみたいにね」と言った。兄貴は満足そうに「最期に食べるものが不味いなんて、最低だからな」と笑った。
俺と兄貴はお互いにお互いを見つめ合いながら、口にカプセルを含んだ。噛み砕こうとしたところで、兄貴がちょっと待て、と一本指をあげた。看守の足音だった。ずっしりとした体重が安物の皮靴をキュッキュッと鳴らしている。
兄貴は俺の髪を耳にかけた。俺はじっとした。
耳をすませ、目を見張りながら、看守が来るのを待った。
兄貴は俺のほっぺたを熟れて潰れやすい白桃を触るみたいに指で触った。それから微笑んでみせた。俺も兄貴に微笑んだ。別になんてことはない。最期だから、とことんまで勘違いさせてやろうじゃないかというのだ。
悲劇的な結末でも用意してやろうじゃないか。どこもかしこも俺たちのことで持ちきりになるだろう。最期まで、世間様を騒がせてやろう。
俺たちの耳に看守の靴底の鳴る音が聞こえた。兄貴はベッと舌を出した。上には薬が乗ってる。俺も同じようにして舌の上に薬を置いて、それを見せた。どちらともなく、絡み合った。
兄貴はずっと俺を見て笑っている。俺もなんだかものすごくおかしくて笑っている。まさか兄弟でこんなことする羽目になろうとは思わなかった。しかも、最期に! 女とでもなく、ジェニファーでもなく、兄貴とだ。
俺も兄貴も女を買って、散々やった。
兄貴は一瞬口を離して「女よりうまいじゃないか」と言った。俺も負けじと「兄貴も女よりもいい」と言った。看守が見ているらしく、兄貴の目は檻の向こうを見つめている。看守はウロウロしたり、立ち止まったり、向こうに行ったり帰ってきたりして、結局、どこかに行ってしまった。
兄貴は大笑いして「意気地なし! でも、今日はそれがありがたいや! 今夜は詰所で寝られない夜をすごすがいいさ!」と叫んだ。薬は俺の口の中にある。兄貴はなんの躊躇もなく、またやってきた。何度か薬を落っことしそうになりながらも、自分の口に薬を戻した。
「兄貴、そんなことしなくてもよかったんじゃないか?」
「まあな。でも、最期だし」
「最期だし、弟とやろうってのか?」
「さすがにそれはしない。お前してほしいわけ?」
「冗談じゃねえや!」
「俺だってごめんさ」
兄貴は俺の唇を拭って「なあ」と言った。俺は目で聞いた。
「さっきのやりながら、お互いに飲み込もうぜ。そしたら、どっちが先にはないだろう?」
「確かに」
「なあ、これはいつ頃にはっきり効きだすんだ?」
「四時間くらいだって。特別に遅くゆっくり効くようにしてるらしい。考える時間をやるって言われた」
「そうかい」
「なあ、兄貴」
と、俺は兄貴に出ることもできるけど、本当にするのか? と聞こうとしてやめた。兄貴はしっかりと笑っていた。俺はどうにか覚悟を決めて「いいぜ」と言った。兄貴は悪魔みたいに綺麗に笑った。でも、どこか悪臭がしているような気がした。あの下水の匂いのようなそうじゃないような。もっと変な匂いだ。香水と下水の水混ぜたみたいな。いい香りのようでそうじゃない。そんな感じの悪臭が。
俺たちはお互いの唾液で薬を飲み込んだ。
飲み込んだがどうってことはない。俺たちは拍子抜けして大笑いした。
兄貴はベッドに横になり、俺も隣で横になった。狭かったベッドは俺がうるさく言ったから、柔らかくて二人で寝ても充分な大きさに変わっていた。
俺たちはなんでもないような気がして、またいろんな話をした。昔話や失敗談だの、まだ両親も祖父母もいた時のこと、いろいろな話をした。
話をしていると段々眠くなって、俺はいい気持ちでうとうとしだした。兄貴も同じくうとうとしている。
「なんだか、いい心地だな」
「うん」
俺はガキの頃みたいに兄貴に抱きついて、兄貴も俺を抱きかかえた。
「子供の時に戻ったみたいだ」
「そうだな」
「なあ、兄貴」
「ん?」
「なんだか手が冷たいぜ」
「お前も手が冷たい」
「兄貴、足もだ」
「ああ、そうらしい」
「なあ、とうとう効いてきたらしいぜ、はっきりさ」
「そうらしい。死神の冷たさだ」
「なあ、兄貴」
「なんだい」
「なんでそんな平然としてるんだ」
「さあな」
兄貴は眠そうに言って、目を閉じた。
俺も目を閉じてみた。
いい心地で、こんな穏やかな気持ちになったのは初めてだ。とても気持ちのいい眠りが俺を待っているような感じがした。このまま、身を任せて眠ってしまおうかと思うほどだ。きっと、そうすれば女を抱くよりもよっぽど素晴らしい快感を得られることだろう。
だが、それも少しの間で、違和感が身体の中を駆け巡り、自分の体がスーッと冷たくなっていくのがわかる。手足の先から、なにかが這い上がって来るように、だんだんと冷たくなっていく。俺は兄貴にすがりつくようにだきついた。兄貴は俺の頭を撫でた。子供の駄々をなだめるような感じだ。
目を閉じていると、真っ暗だというのに気がつく。得体の知れないものが、まとわりついて、ずっとこっちを狙っているような感じが。だが、それをのぞいているのは自分で、目をそらすべきは自分だ。そらせば、俺は生きられるだろう。そう、そらせば、生きられる。得体の知れない恐ろしい黒いでかい口に飲み込まれないですむのだ。そう、生きられれば。
そう思うと、俺は急に怖くなった。でっかい黒いぽっかいと開いた口の向こうからなにかが笑っているような気がする。目をそらしてはいけないような、そらさなければいけないような。俺はたまらず、目を開けた。
起きてみると、頭がふわふわする。手は震えて、うまく握れない。それでも、俺は兄貴を揺さぶった。怖い夢を見た子供がママに泣きつくみたいに兄貴を揺さぶった。
「兄貴!」
「どうした」
「真っ黒い穴が見えるよ!」
「地獄の穴だな。ぽっかりしてやがる」
「なあ、穴がこっちを見てる!」
「見てるな、まっすぐ」
「兄貴! 這い上がって来るぜ、なあ! 兄貴!」
俺は兄貴を揺さぶり続けた。兄貴はだるそうに起き上がって俺を見た。少しの苛立ちもなさそうだった。逆に俺はとても苛立っていた。
「兄貴、死んじまうんだぜ?」
「ああ」
「なあ、怖くないのかよ。なあ!」
「お前は怖いらしい」
「兄貴、頼む。怖いと言ってくれ」
兄貴は俺を愛しげに撫でて「死にたくないなら、お前だけそうしたらいい」と残酷なことを言った。
「それは嫌だ! 兄貴、一緒に生きよう。な、そうしよう? 頼むよ、俺、怖いよ、なあ、兄貴、手が冷たくて震えるんだ。下水の臭いがするんだよ。兄貴、頼むよ、お願いだよ、生きるとか怖いとか言ってくれ、頼むよ! 兄貴!!」
俺は半狂乱で叫ぶように、兄貴に懇願した。薬をのんでから、2時間半くらいのことだ。まだ間に合う。4時間までにはまだ時間がある。
この時、俺は希望に満ち溢れていた。生への欲望が淀みなく溢れて、世界を輝かせていた。だが、兄貴は「俺は死ぬ」ときっぱり言った。
「どうして」
「俺は最初から決めてたんだよ。檻に一辺でも入れられたら、潔く死のうって。俺はな、賭けをしてたんだよ、俺自身と世界を使って」
「俺は、その賭けに巻き込まれたってわけか? いや、世界中が兄貴の賭けに巻き込まれたってのか?」
兄貴は晴れやかに笑って「ああ。でも負けちまった」と言った。
「俺は兄貴の賭けに使われたのか? 生きるためでもなんでなく、ただの自分の馬鹿馬鹿しい賭けのために? なあ、兄貴。それじゃあ、あんた悪魔だよ。面白がって笑う悪魔だよ」
「でも、世界と賭け事しようなんざ、これ以上面白いものはないだろう? だから、ギャングになったんだ。だから、人だって殺した。賭けをもっと面白くするために。全部な、俺と世界との賭けのためだ。お前の言う通り」
兄貴はこの上なく楽しそうに笑った。ガキが誰かに楽しかったこと面白かったことを報告するように、ひとつの陰りなく、このうえなく楽しそうに笑ったのだ。
俺は思わず兄貴の喉を締め付けて「この野郎……! 悪魔め、畜生! 人の人生、めちゃくちゃにしやがって、ちくしょう! くそったれ! ちくしょう、ちくしょう!」と叫んで体重をかけた。兄貴は一瞬苦しそうにしたが、それでも笑っていた。清々しく笑っていた。
俺は兄貴の賭けのために死ぬってのか? それだけのために今まで利用されてたのか? それでもいいと思っていたが、それは兄貴が必死に生きるためだと思えばこそだ。兄貴の賭けのためじゃない。兄貴だからだ。兄貴は賭けに勝つためだけに必死だったわけか。ちくしょう、俺の人生はなんだってんだ。俺の人生は! 俺の人生はチップだったってわけか。あの軽くて、ゴミにでもなんでもなる。あのチップだったってわけか! あんまりだ、あんまりすぎる。
俺には手に入れられるはずの幸せがあったはずなんだ。ジェニファーと息子たちと過ごせるはずの幸せが。兄貴の賭けに巻き込まれなきゃ、きっとあったはずなんだ。俺の人生はなんだったんだ。
確かに兄貴についていかなきゃ、その時点で死んでいた。俺は最良を選んだはずだった。だけど、兄貴の賭けのためにチップだったなんてあんまりだ。あんまりすぎる!
俺はさらに体重をかけようとした。だが、兄貴があんまりにも清々しく、なんの曇りもなく笑うので、首から手を離して、兄貴の横に寝転んだ。
このまま殺したところで兄貴は苦しまない。それに、俺はやっぱり兄貴の弟なんだ。
兄貴はもぞもぞ動いて、俺の耳元で「殺してもいいんだぜ? お前になら、恨まれて殺されてもしょうがないっておもってるから」と言った。俺は兄貴を見た。本当にそう思ってるらしかった。
「俺は兄貴を殺さないよ」
「別にもう俺に構わなくたっていいんだよ」
「ううん。俺は兄貴についてくよ。ここまできちまったんだ」
「そう」
「それに、俺は兄貴が好きだしさ。もういいよ。愛してるぜ、兄貴」
「俺もだよ、アレックス」
兄貴は俺に顔を近づけた。あの悪臭はさっきよりもひどくなったような気がする。
手どころじゃなく、腕も冷たい。さっきは怒りで怖いどころじゃなかったけれど、冷めちまったから、はっきりとなにかが俺の足を掴んでいることがわかる。俺は足を動かしたが、ゆっくりとしか動かなかった。
兄貴を見た。兄貴は気持ちよさそうに眠そうにしてる。でも、その目が寂しそうだった。初めて、兄貴を寂しそうだと思った。もう兄貴は、死ぬからってなにもかもから解放されたみたいで、俺が兄貴を見てきた中で一番幸せそうだった。幸せで穏やかそうで、だから、俺はとても怖かった。
「兄貴、一人で死ぬのはいやだ」
「うん」と兄貴は俺をできる限りの力で抱きしめた。全身が冷たいようなあったかいような不思議な感じがした。
「兄貴、もっと」
「ああ」と兄貴はさらに力を込めた。だが、ちっとも変わりはない。それでも、力を込めようとしたところに、俺は初めて兄弟の情ってやつを感じた。
「兄貴」
「うん」
「兄貴、こんなことなら、本当にやっておくべきだった」
「なにを」
「兄弟でばかなことさ」
「そうだな」
「俺は今までこんな気持ちになったことないぜ」
「俺もだ。俺もだよ」と兄貴は俺の喉を力なく噛んだ。
「死ぬのが惜しいな」
「ああ、本当にな」と兄貴は俺の手を自分の肩にまわした。
「でも、死ぬんだろ?」
「賭けに負けたからな」
「誰と賭けてたんだ?」
「さあな。俺自身にかもしれないし、世界とかもしれない。もしかしたら、悪魔か神様か。とにかく賭けたんだ、俺は」
「兄貴」
「本当はな、あの時、ギャングの野郎が来るのがわかってたんだ。でも、教えてやらなかったんだ。俺は、あの腐りきった教育野郎どもが嫌いだった」
「兄貴」
「なんでかお前だけは助けてやろうって気になったんだ」
「うん、ありがとう」
「どうしてかわからなかったんだ。俺は本当はちっともお前のことなんてどうとも思ってなかったんだ。確かに、お前は使えるだろうと思ったけど、生かすほどのものじゃない」
「うん」
「大学にやる必要も本当はなかったんだ。確かにお前は秀才だったけど、大学に入れて卒業させようが、結局はギャングだ。いや、お前はギャングじゃなかったっけ」
「そうだよ、兄貴」
「だから、入れる必要は本当はなかったんだ。お前は予想以上に働いてくれたし、俺に従ってくれた。それに、俺に冷たかった」
「そんなこと」
「いいや、お前の目はいつも冷静だった。俺を観察してた。だから、俺も観察し返した」
兄貴の足がからんできた。
「足が冷たいな」
「うん」
「まあ、これから死ぬんだし、足どころの騒ぎじゃないけど」
「それで? 続きは?」
「うん。お前がよく俺を観察していたからか、誰よりも意思のやりとりがしやすかったし、友達のようなそれ以上のような、そうじゃないような感じがした。俺は驚いたよ、予想以上にお前と一緒にいて楽しくて。牢に入って、お前に会えない間は本当に寂しかったんだ。ずっと一緒にいた唯一の家族で友人に会えないんだもんな」と兄貴は俺のおでこにキスをした。それから抱きしめて「本当だぜ」と呟いた。
「わかってるよ」
「ならいいんだ。俺はお前を可愛がろうって気はなかったんだ。俺に似て、顔は綺麗だし、体だって満足のいくもんだ。だからな、てんで使えなかったら、ボスにでもやろうと思ってたんだ。本当はな、本当は、一度でも失敗したら、そうしようと思ってたんだぜ。でも、なんでかな。できなかった」
「知ってるよ」
「でも、もしかしたら、それも全部、今のためかもしれないな。一人で死ぬのは嫌だったんだな」
「俺も一人は嫌だ」
兄貴は俺の髪を撫で付けて、俺の頬に冷たい手を添えて「本当なら、お前は生きて、普通の生活送れてたのに」と口惜しそうに言った。
「兄貴、何をそんなこと言ってんだ。俺は生まれた時から兄貴のことが好きなんだ。弟だもの。母親より、父親よりも、もっと近しいんだぜ。俺はどういう過程を踏んだとしても、兄貴についていって、ここで死んでるよ」
「さっき俺を殺そうとしたのに?」
「その後、きっと、隣で兄貴を抱きしめて寝てるみたいに死んでるさ」
「そう」と兄貴は言って、微笑んだ。
それに微笑み返して、兄貴の胸に耳をやった。まだ心臓ははっきり動いている。死にそうなのに、心臓はしっかりしてる。不思議だ。
また、悪臭がひどくなってきた。それと同時にまたなにかが這い上がってきた。嫌に恐ろしいものだ。これで最後の警告をしてるみたいだ。
「兄貴、またきたよ」と俺は呟いた。叫ぶ力もない。
兄貴は「うん」とだけ言った。
「あ、怖い!」
「大丈夫さ」
「兄貴、頼むよ。一人にしないでくれ、頼む」
「俺だって、一人はいやさ」
「兄貴、一人だって思わせないでくれ、頼むよ。俺、ダメだ。兄貴、しっかり抱いててくれ」
「死んだって抱きしめてるよ、硬直してさ」
「そういうのんじゃなくてさ。兄貴、背筋を這い上がって来るよ」
「死神の野郎、楽しんでやがる」
「兄貴」
「うん」
「兄貴、一人はいやだ。兄貴、先に死ぬなよ、一緒に死んでくれ、頼む」
「もちろん、一緒に死ぬさ」
「一秒の誤差もなくだぜ、本当に一緒にだぜ、なあ、兄貴、なあ」
「うん」
「兄貴、死ぬのは怖いよ」
「うん」
「兄貴、もっとちゃんと抱きしめてくれよ、力一杯、なあ」
「しっかり抱いてるよ。アレックス、もっとくっつけ」
俺は兄貴にしっかりくっついた。さっきよりも暖かくなった気がする。
「こんなにしっかりくっついてるけど、俺たち一人だぜ」
「言うなよ、兄貴。一人でなんか、俺、死ねないよ。ああ、こんなことなら、生まれなきゃよかった」
「バカ言え、お前は生まれてきてよかったんだよ」
「兄貴のために?」
「うん」
「結局、俺は兄貴の弟ってわけか」
「そうだよ」
兄貴はしばらく俺を見つめると、じんわりと目から水が張られて、涙がころりと落っこちた。俺は力の入らない手でそいつを拭った。
「兄貴が泣くところなんて初めて見た」
「そうかい?」
「そうだよ。兄貴、怖いの?」
「いいや、ちっとも怖くない」と俺の手を取った。
「むしろ、人生で、今が一番幸せで穏やかなんだよ。それで、なんでか流れちまった」
「兄貴、今、幸せなのか」
「とってもな。これで、俺は賭けをする必要もなくなった。なにもしなくて良くなったんだ。なにも考えなくていい」
「困るよ、兄貴。俺のことは考えてくれ」
「考えてるよ。考えているっていうよりも、はがれ落ちないから考えるのとはちょっと違うんだ」
「兄貴、幸せだったか?」
「多分、いや、絶対にそうだ。お前は?」
「幸せだったさ」
兄貴は「じゃあ、俺はもっと幸せだ」と俺の鼻に自分の鼻をくっつけてきた。
「じゃあ、キスしてくれ」
「お前、女みたいなことを言うね」
「抱き合ったって、一人で怖いんだ」
「ああ、俺も一人は嫌だ」
「兄貴、してくれ。頼むよ」
「もちろんだよ」
「兄貴、兄貴、なんで俺たち、死ぬんだ」
「賭けに負けたからだよ、アレックス」
「兄貴」と俺がなにかを言おうとした瞬間、兄貴は俺の手を握っている手で口を少し押して「いいから、黙るんだ。黙りな、アレックス」と言った。俺は黙った。
兄貴、結局、なにをしたって、俺たちは兄弟だけど一人で死ぬんだよ。
「目も瞑ってな。大丈夫、俺がいるさ。兄貴を信じろ」
「うん」
「大丈夫さ。なにもかも」
「そうだな」
目をつぶれば、やっぱり一人であのでっかい口に立ち向かっているような気がする。だけども、奴は存在が怖いだけで、本当に脅かそうとしてるわけじゃない。ただ、待ってるだけなんだ。兄貴、俺は兄貴の弟でよかったと思うよ。世間じゃそうじゃないようにされるかもしれないけど、俺は兄弟でよかったと思ってるんだ。
兄貴、俺たち、本当にバカやったぜ。世界一のバカだぜ、なあ。
兄貴はまだ生きている。俺だって生きてる。脳みそだけはしっかり動くもんだ。レイモンドの野郎には謝らなくちゃいけないな。
兄貴はなにを考えてるんだろう。今までのことを考えているのか、それともなにも考えてないのか。
だんだんと目を開ける気力もなくなった。最後に兄貴を見たいような気がする。
兄貴は目を瞑っていた。
俺は目を瞑った。
悪臭が全身を覆っているみたいだ。でも、もう臭いをどうこうは思わない。慣れちまった。いい気分だ。なぜだか、穏やかな気分だ。とても眠い。もう眠い。トロトロしていて、春みたいな気がする。地獄ってのは、本当は春だったのかな。
「アレックス」と兄貴はほとんど息のように俺の名前を呼んだ。
「兄貴」と俺も返したが、喉の野郎も力をなくしていっていて、兄貴と同じようにほとんど息のような声だった。
「最期にこれだけ言わなくちゃと思って」
「なんだい」
「俺はお前を愛してるぜ、本当に。心の底から」
「俺もだよ」
「ちゃんと言ってくれ」
「おんなみたいなことを言う」
「あいしてんだよ、ホントだぜ」
「俺も兄貴を愛してるぜ、昔から」
兄貴は満足したのか、一つ息をついて、静かになった。まだ死んじゃいない。俺だって、まだ死んでない。兄貴は顔をもそもそ動かした。口が触った。それだけだ。
兄貴は深い息を一つ吐いた。
とても静かな夜だ。神聖な気がする。それだけだ。
俺も少し動いた。兄貴は動かない。まだあったかい生きてる。多分。
兄貴、兄貴。もう喉が動かないぜ。手だって足だってそうさ。多分、心臓だってそうなってきてるぜ。でも、脳みそだけはまだ動いてる。
兄貴。
でも、そろそろ本当に俺たちダメらしい。とっくにわかってたけど、本当に今度こそダメさ。
なあ、兄貴!
兄貴! 兄貴! 兄貴!!
呼んだって無駄かもしれない。でも、呼ぶし、叫ぶ。俺の脳みそはもう細かく考えられない。だから、兄貴って呼んでおけばいい。
兄貴! 兄貴! 兄貴!
もう体の感覚はなくて、きっとこれが魂って奴なんだろう。もう口は見えない。見えないんじゃなくて、中にすっぽりはいっちまったんだ。
兄貴! 兄貴! 兄貴!!
なんとなく、兄貴が一緒にいるような気がする。こうなるまでは一人な気がしたのに不思議だ。
兄貴! 兄貴! 兄貴! 兄貴!!!
頼む、一緒に地獄に行ってくれ!! 一緒によお!! 兄貴!!!!!!!
兄貴……、
続けて読むと違和感がそれなりにすると思うのですが、それでいいのです。これを先に書いたのか、それとも錯乱しながら書いたのかっていうのを考えてもらえたらいいなーと思って、こんな感じになってます。
実際にこの会話をしたのか、まじでやっちまったのかは想像にお任せします。
でも、普通に兄弟同士でこんなことしないから、相当頭いってんなって思います。個人的にまじの血の繋がってる兄弟同士ってのはちょっと地雷なので、自分でよく書いたなって思う。でも、死ぬときに一人は嫌だってのでそうなっただけなので、素面では絶対に二人だって口同士はしない。ちょっと錯乱してるんですね。
二人は結局死んでしまうわけですが、ここは少し悩みました。タイトル通りにするか、それともしないか。
でも、やっぱりね、悪役はやっつけられるもんですからね、うん……。
ただ、だいたい死なない。いきて収容されるし、そこらへんに正義みたいなのを感じるんですがね、二人は、実際のところヴィランとは世の中では言われているけど、俺たちは人間でヴィランじゃないって思ってる人たちなので、悪役だからやられたとか、死んだとかではなく、己らの意思を貫いたり、プライドを貫いたりってだけで、ヒーローにやられたっていうイメージは自分たちにはないわけですよ。ただ、本当に自分基準で死んだだけって話。だけど、それが周りにとっちゃ衝撃って話。
だから、みんな、勝手に死ぬんじゃねえぞ。自殺、ダメ絶対。ほんと、絶対にダメだからな。辛いならその場から逃げればいい話だからな。なにが辛いのかわからないけど辛いでも結構。辛いって事実だけでも充分いいの。わからないからつらいってのもいいの。わからないならわからんでいいの、死んだらあかんよ……。
話がずれたのでここまでにしておこうと思います。まだ続くよ




