プロローグ
「これは……本格的に不味いことになった……」
適当な岩に腰掛けながら信楽善は途方に暮れていた。
見渡す限りの草原、たまに見かける粘液生命体や角の生えた獸の類い。
そして、彼の右腕に刻まれた面妖な蒼い紋様。
善の頬には赤い痣が幾つも刻まれていた。誰かに付けられたのではなく、ここが夢の世界であるかどうかを確かめるために自分で付けた結果だ。
つねった瞬間の鋭い痛みはあった。そして、今なおヒリヒリと鈍い痛みが頭に刺さっている。
――しかし、夢から覚める気配は微塵も無い。
「つまり、これは……」
異世界転移物、ということらしい。
◆◇◆◇◆
異世界転移、成る程。確かにそれは全高校生、いや、全男子の夢であろう。
異世界に飛ばされて、チート能力を授かって、無双して、世直しをして、現代知識で商売して、可愛い女性と結婚し、子供も生まれ、穏やかな余生を過ごす。確かにこんな未来があっても良かったかもしれない。
しかし、しかしだ。こんな簡単に、そして唐突に訪れるとは聞いていなかった。
覚悟なんて物も全く出来てない。
俺は、日本で生まれ育った平凡な高校生だ。
決して良くは無いが、それほど悪くもない、街ですれ違ってもすぐ忘れられるような平凡な顔に、高校生の平均身長よりも数センチ低い身長。
学力に関しては、県内で三番目位の進学校には通っているがクラスの中では落ちこぼれもいいところだ。
美術にだけはほんの少しだけ心得があるが、運動は人並み位にしか出来ない。当然、筋力もそこそこしかない。
そんな、俺がどうして転移者として選ばれたのだろうか。
特に、転移の切っ掛けになるような事はしてなかったように思う。
何時も通り高校に行き、部活をし、家に帰って宿題だけして寝る。それだけの毎日だったはずだ。
ああ、そう言えば弟と妹にせがまれてホットミルクを作ったんだっけか。鍋一杯に牛乳を注ぎ、たっぷりの蜂蜜を入れ、火にかけ、蜂蜜が溶けるまでかき回すのだ。
手間はかかるが、それはもう甘くて美味しい。
「ホットミルク……」
思わず呟きが漏れる。
ホットミルクを三つのマグカップに注ぎ入れ、リビングまで運び、そこで尿意を覚えた為トイレに行ったのだ。用を足し手を洗いリビングに戻るためにトイレのドアを開けると、いつの間にかただっ広い草原に立たされていたのだ。
それも、無一文で部屋着のまま。
さらに言うと現代無双の必需品でもある携帯すら持ってない。
「ハハッ、トイレが召喚のトリガーだってか……。相変わらず締まらねぇな俺ってやつは」
弟と妹はもうホットミルクを飲んだのだろうか。もし飲んでいるのならきちんと歯を磨いて寝るようにと小言を言いたい。妹は兎も角、弟はもう立派な大人の歯が生え揃ってるのだ。虫歯になったら洒落にならない。
もし、律儀に俺を待ってるのなら早く飲んで欲しい。あのホットミルクは冷めるのが早いのだ。折角作ったんだ。一番美味しいときに飲んでてもらいたい。
弟は俺が小言を言うと何時も顔をしかめる。「んな事分かってんだよ!」と怒鳴るかもしれない。
「帰りたい」
他愛ない家族の会話。それを思い出すだけて狂おしい程の郷愁に身を焼かれる。
「帰りたい帰りたい」
明日の宿題はなんだっけか。ああそうだ。数学のプリントと英語の単語調べだ。単語調べはもう終わったから、あとはプリントを仕上げるだけだ。
「帰りたい帰りたい帰りたいッ!」
そう言えば、弟が理科を教えて欲しいと言ってたんだ。英語は全く出来ないくせに理科だけは出来るもんで調子に乗ったら「ウザい」と一蹴されたんだっけか。
「帰りたいッ……帰ッ、り……」
気付けば、大粒の涙が再現無く溢れてきていた。
駄目だ。男は人生で五回しか泣いたら行けないのだ。そんな事を言ったのは、江戸っ子みたいに古風で奔放な考え方をする父だったっけか。
家族の事を思い出せば思い出すほど、涙は止まらなくなっていく。
果てしなく続く草原の中、俺はたった独りでワンワンと泣き続けた。