諦めること
およそ一ヶ月前のことだろう。
僕は東京のシェアハウスに暮らしている。と云っても、皆が抱いているようなイメージのものではなく、女子禁制で、部屋は分かれている。僕はその日、サークルの同学年を集めた呑み会の後だった。僕は日本酒やカクテルなど、ほどほどに呑んでいたがまだ頭脳は正常に回転していた。
自分の部屋に着くと、同居人がいた。僕より五歳も年上だ。僕が部屋を出る時、彼に部屋を貸していたのだ。
彼は話が合う人だった。その日は「諦め」について喋っていた。彼はどうやら諦めることが出来ないらしい。人から自分を理解されなかったとしたら、それを何とか理解に変えたいという、ある意味で人間的だった。
僕は、貴方には諦める力が必要です、と言った。
だが、その発言は拒否された。どうやら、彼にとってはその「諦め」が生活の原動力になっているという。
そして、僕は昨日。たった昨日、問題を起こした。
シェアハウスの部屋同士はそんなに離れてはいないので、僕以外の部屋にも僕の部屋のWi-Fiがかろうじて届く。それぞれがそれぞれに回線を契約するよりも、一人が契約してその料金を数人で分割するという、なんとも文明的な方法を取っていた。
つまり、料金を延滞したり、何らかの不祥事で回線が止められた場合、その責任は計り知れないのだ。
夜の零時のことだった。
回線がストップした。
うわぁ、やってしまった。
そういえば、四月の分はまだ払っていなかった気がする。
やってしまった。
「諦め」について語った同居人は、夜行性で、ネットもよく利用する。回線が止まったことには僕と殆ど同時に気づいた。
僕は正直に話した。延滞していて、止まってしまったみたいです。
分かっていたことだが……彼は相当憤慨していた。シェアハウスのグループラインでも同じような文面で謝罪を述べた。だが、どうやら彼は冷静を失っているようだった。ごめんで済む問題じゃない。その通りだ。責任を持てないなら最初からやるな。その通りだ。
次の日、つまり、今日。僕はカスタマーセンターに電話した。
「四月の請求書を無くしてしまって、もう一度送ってほしいのですが……」
「四月の料金は既に払われていますよ? 二月の料金なら未納ですが……」
その時の僕の驚愕は、生まれて初めて休日のJR新宿駅に行ったときよりも大きいものだった。
「そうなんですか? じゃあ、二月の請求書を送っていただけますか? あの、その請求書が来て、その料金を払うまでは、回線は止められたままなのでしょうか……」
「こちらでは、回線を止めるといった行動には及んでいませんが……」
休日の新宿駅の混雑がいかに矮小なものであるのかを知った。
結局、ルーターの電源を抜いてしまっていただけだった。
今はもうネットは復旧している。たった一日だけだったが、一日交通機関が使えないだけで、一日人と会えないだけで、人間の生活とは恐ろしく錆びるものなのだ。
彼は、どう出るだろうか。言い過ぎたと謝る、何も言わない。その二つのパターンが考えられる。
何も言わないなら、それでいい。何もなかったことに出来る。
謝るのなら、僕は何も言わずにそれを享受するだろう。
僕は諦めているから。
中山可穂という女性の書いた「感情教育」という本に、那智という少女が登場する。
他者に期待しない。それが彼女の処世術だった。
僕も、同じなのだろう。
「諦め」について語らった彼は、お前は周りの人間から何も考えていないと思われている。それは今のうちに矯正したほうがいい、と言われた。
だが、僕はそうする気にはなれない。他者の僕に対して抱いている抽象なんてどうでもいいからだ。
僕は、いつも考えている。
だが、必ずしも目に見えるものが真実全てではない。
むしろ、思考や頭脳といった、精神というもののは、視えないことのほうが圧倒的に多い。
そもそも、それは実体を持たないものなのだから。
また引用で悪いが、森博嗣の小説「すべてがFになる」に出てくる天才少女、真賀田四季の言葉に「真実は人間の理解とは無関係です」というものがある。
僕は理解されないのだ。
僕は、思考にはできるだけロスを少なくするように心がけている。
喋る必要のないことは喋らない。聞く必要のない話は聞かない。考える必要のないことは考えない。
だから、五分も十分もかけて同じ話を堂々巡りしている人を見ると、非常に嫌悪を覚える。
だが、それを矯正しようとは思わない。
人間には、生まれ持ってのキャパシティがある。
性格がそれぞれ異なるように、キャパシティもそれぞれで異なるのだ。
だからこそ階級差というものは生まれるし、戦争というものは生まれるし、文明はここまで発展できた。
僕は、様々な人がいるからこそのこの社会だと考えている。
この世に無駄なものなど何一つとして無い。
この世界は完璧であり、完全なのだ。
人間という存在があまりにも曖昧なだけで。
人は果してどこまで行くのだろうか。
僕は悲観も楽観もしない。
諦めているから。
とりあえず、皆さん。ネット料金、家賃はしっかり払いましょうね。




