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春樹が来るなんて、聞いていない。
慌てて上司の顔を見るが、一向に目を合わせようとしない。確信犯である。裏切り者!
しかし、「一度会うだけでも」その言葉を信じ、無理やり作った笑顔でもう一度頭を下げた。
ご趣味は、などのありきたりな質問を終えて、絵都子はため息をついた。
春樹の趣味が読書だなんて、嘘だ。青い鳥文庫でさえ、投げ出していたのを知っている。本当は漫画が好きなんでしょう。
絵都子が意地悪で、「好きな作家は?」と聞いた時の顔といったら。そして、読みやすい作家をあげればいいのに、「夏目漱石」と答えた春樹は、見てわかるほど「しまった!」なんて顔をしていた。
過去のあなたを知っている。取り繕わなくても良い。なんて言ったら、ただただ怖がられ、あのような冷たい目を向けられることも、もう知っているから。
今日1日だけ、初めて会った頃の気持ちを楽しむくらい、良いじゃない。
「あとは若いお二人で」
そう言い残して、確信犯の裏切り者たちは、同じラウンジのバーへ向かった。
何があとは若いお二人で、だ。春陽もいるから三人だ。そして結局は、私たちをあてに美味しくお酒を飲むんじゃないか。
やさぐれた気持ちでいながらも、前を向けば、春樹と目が合…わない。
春樹は、春陽の方を見ていた。
眠たそうだね、と声をかける春樹の声もどこ吹く風、春陽はもう船を漕ぎ始めていた。
机に頭をぶつけて泣かれてはたまらん、と、チャイルドチェアから春陽を持ち上げ、抱っこの体制に入る。
「お母さんですね」
春樹は笑う。お前がママにしたんだよ、なんて言えるものなら言いたい。それでも、春陽が一番の宝物であることには変わりないから。
子どもを理由に、このお見合いを断る雰囲気を出しているなんて、気がつかないふりをする。
「やっぱり、旦那さんのこと大好きですよね」
僕は、旦那さんの代わりなんて荷が重いよ。なんて言外に伝えてくるが、お前はその旦那さん本人なんだ。
言えるものなら言いたいシリーズが溜まっていく中で、絵都子ははっきりと言った。
「旦那は、物事をはっきり伝えるけども、物腰は柔らかな人でした。旦那のことを忘れるなんてできません。いまでも愛してます。」
こちらこそ、はっきり言わないあなたなんて、お呼びじゃない。私が愛していたのは、今のあなたじゃない。それを、今更はっきりと自分にも突きつけられた。
今の春樹がはっきりと物事を伝えないのは、相手が職場の人だからだろうか。いえ、そうじゃない。男が一番変わるのは、付き合っている女の影響だ。きっと、澪に違いない。なんで不誠実なお見合い。
私は、今の春樹を愛していない。
それが、今日一番の収穫であった。
「そろそろ、失礼します。本日はありがとうございました。」
ちょっと、と引き止める春樹の声を、聞こえないふりをして。
久しぶりに履いたピンヒールの音を響かせて帰る。
あなたが、はっきりと言わなかったけれど、お見合いなんてごめんだ、なんて雰囲気を出した相手の女は、自分のことを全く歯牙にもかけていなかった。良い女だったなんてあとで悔やめば良い。
さようなら、春樹。
なんて格好つけたけれど、ピンヒールが子育てに不向きな理由を身を以て体感することになる。
今日はタクシーで帰ろう。
明日からまた、三日間だけ、春樹と職場が一緒だという事実は見ないふり。
これまでのように。
そこまで考えたところで。
これまでのようにいかないことを、今私がしたのだと気がつき、絵都子は頭を抱えた。
やらかした。




