ある小説家志望とカレーライス
「なんだこれ! 坂口安吾に夢野久作を混ぜ合わせたような味がするぞ」
僕は、江戸川乱歩ではないので「わけのわからぬカレーだ」とは言わなかったが、カレーを一口食べたあと阿部と似たような感想を持った。その味は、辛いようで甘く、酸っぱいようで苦い。ありていに言えば、不味いのである。
なぜ、僕が不味いカレーを食べているかといえば、柄にもなくキャンプに来ているからだ。僕はいま、高校以来の友人である阿部とその彼女である泉さんと大学の後輩である藤坂さんの四人でキャンプに来ていた。野外に出ることを嫌う僕がキャンプなどという活動的な行いに参加しているかというと、いつもの如く阿部の所為である。
「今度の土曜日、キャンプに行かないか?」
「だめだ、その日は執筆に忙しい」
僕はにべもない態度で阿部の提案を断った。
「じゃー、来週。来週はどうだ? 未来の大文豪でもたまには大自然に出てみたらどうだ」
「残念だな。大自然を堪能したいのは山々(やまやま)なのだが、来週も執筆だ」
「再来週は?」
「執筆」
「なら、いつならいけるんだ?」
業を煮やした感じで阿部が僕に訊ねる。そんなもの答えは簡単だ。
「いつも空いてない。何が楽しくてせっかくの執筆時間を削って熱い思いをしに行かなければいけないのか?」
「お前という奴は……」
阿部は片手で頭を押さえながら大きくため息をついた。
「そもそも、どうしてそこまでキャンプに行きたいのだ? お前と僕でキャンプに行って何が楽しいというのだ」
「誰もお前と二人きりでキャンプに行きたいなど言ってない。男二人でキャンプとか何の罰ゲームだ」
「阿部が誰が来るとか言わないのが悪い。で、いったい誰が来るのだ?」
阿部が僕を誘うということは、阿部が所属する映画製作サークル『眼の壁』のメンバーは参加しないのだろう。なぜか、『眼の壁』のメンバーと僕の所属する文芸サークル『あすなろ』は仲が悪い。
先輩曰く、
「数代に渡る抗争によって、その理由は過去に消え去ってしまった。しかし、禍根だけは連綿と受け継がれているのだ。もってこれを伝統と言う」
と、いうことである。
この禍根については部室が左隣という立地も関係しているかもしれないが、僕らのサークルが何かを一緒に何かをやるということはありえないのである。
「それなんだが、実は泉さんを……」
阿部がごにょごにょと言い訳がましく何かを述べる。泉さんというのは僕と阿部の同期の女性である。また、今月の七月七日――七夕に阿部と付き合いだした出来たてほやほやの恋人でもある。どうやら、その恋人に大自然の中でも役に立つ逞しい俺、というアピールをしたいらしい。
「なら、行かない。何が楽しくてお前と泉さんがイチャイチャしているのを邪魔しなければならないのか。馬に蹴られて死ぬことが分かりきっているではないか」
「いやいや、待て待て。そこを曲げて頼む。どうしても泉さんの親御さんから二人っきりというのは許可がおりない。グループで行くというのなら許可がおりる」
「嫌だ嫌だ。全部、お前の都合だ。僕には一ミリたりとも関係ない」
「分かった。ではもう一人誘うことにしよう」
「僕の知らない人は嫌だ。知っている人にしてくれ。それも女子が良い」
僕は阿部にわがままを言った。その本心はといえば、エアコンの効いた下宿から一歩も出たくなかった。七月の日差しは厳しい。僕のような文学青年には刺激が強すぎるのだ。また、ただでさえ友達の少ない僕である。その僕と関わりのある女子などうまい具合に見つかるわけがない、という打算もあった。
と、高を括っていたのが失敗だった。阿部は、その条件に当てはまる女子を見つけ出してしまったのである。それが藤坂さんである。
藤坂さんは、『あすなろ』の右隣に居を構える占いサークル『千里眼』の一年生である。占いサークルというと胡散臭いが『千里眼』は初代会長が、
「心理学と統計学を駆使すれば、確実に的中させる占いができるに違いない」
と、豪語して作った科学的なサークルだという。
その初代会長は、サークルで築き上げた占い技術によって『新宿の父』と呼ばれているらしいが、怪しいところである。
藤坂さんとの出会いは六月に大学で起こった折畳み傘連続盗難事件で僕が悪漢から彼女の折畳み傘を奪い返したことから始まる。たかが折畳み傘を取り返しただけだというのに彼女は僕にひどく恩義を感じたらしく、なにかと僕に気を使ってくれている。
仁義に薄い昨今では珍しいお嬢さんである。
しかし、彼女もアウトドアが趣味とは思えない人物である。キャンプに参加するということは、阿部に強引に参加を促されたに違いない。
そして晴れて本日、キャンプを行う運びとなったのである。テントや火起こしなどは、やる気に燃える阿部が一人で行ってくれたので、僕は木陰でゆっくりと読書を堪能することができた。環境が変わると新しい発見があるもので、たまには外に出てみるものだと少しだけ阿部にも感謝した。途中、女性陣がコーヒーやチョコレートを差し入れしてくれたのも効果があったのかもしれない。カフェインと糖分は脳働きを活発にさせる。
「どうぞ、森久保先輩。甘いもの大丈夫ですよね?」
と、僕のことを気遣いながらコーヒーとチョコレートを差し出す藤坂さんに僕は感動を禁じ得なかった。なぜなら平素、僕の周囲は阿部を筆頭に気遣いという言葉を知らぬものばかりだからである。
読書が一区切りついた頃、阿部が言った。
「そろそろ、昼飯にカレーを作ろうと思うんだが、隠し味といえばコーヒーだよな」
「阿部、お前は何も分かっていない。カレーの隠し味といえばほのかな酸味と旨味成分を含んだオイスターソースだろ?」
コーヒーといえば飲料である。カレーのように単品で完成された料理に飲料を足して隠し味というのは画竜点睛を欠く、というのだ。
「オイスターソースだと? お前こそわかっていない。コーヒーを加えることによって加わるコクと香りこそ隠し味だ。泉さんもそう思いますよね?」
分が悪いと見た阿部が泉さんに同意を求める。良家の子女である泉さんがコーヒーを隠し味と認めるはずはない。阿部は助ける相手を間違えたのだ。
「私は、チョコレートだと思うわ。阿部君も森久保君もちょっと可笑しんじゃない?」
泉さんは、手に持ったチョコレートの箱を揺すって笑った。
「……チョコレート?」
阿部が阿呆のように口を開けて絶句する。これには僕も同意だった。辛いものに甘いものを入れるというのは酢豚に入ったパイナップル並に許されるものではない。
「あー、そういえばチョコレートもコーヒーも昔は媚薬だったそうですね」
険悪な空気に耐えられなくなったのか、藤坂さんが新たな話題を振った。
「媚薬って、いわゆる惚れ薬ってやつ?」
「そうです。泉先輩、惚れ薬というやつです。ヨーロッパにコーヒーやチョコレートが入ってきたときは嗜好品としてよりも薬として入ってきたみたいです。コーヒーに至っては悪魔の飲み物とまで非難されたそうです」
藤坂さんはコーヒーの入ったキャンプポットを持ち上げて言う。
「では、こうやって毎日コーヒーを飲める僕らは堕落した、と言われるんだろうね。一杯もらえる?」
僕はマグを藤坂さんに向ける。キャンプポットから芳ばしい香りが溢れ出る。
「大丈夫ですよ。クレメンス八世がコーヒーに洗礼を施してからは悪魔の飲み物ではありません」
「どんなものにも歴史があるものね」
「そうですね。あっ、そういえばカレーに使われているサフランもオイスターソースに使われている牡蠣も媚薬ですよ」
「もう、そこまで来るとなんでも媚薬なんじゃないかって気がするな」
阿部は僕が手にしたオイスターソースをまじまじと眺めながら言った。しかし、普段何気なく食べているものにもいろいろな用途があるものである。そういえば、シェークスピアの真夏の夜の夢でも媚薬が出てきた気がする。あれは花の蜜であったか無花果や柘榴のような果物であったか。
「阿部、もう隠し味で揉めるのはやめよう。カレーに正しいもなにもない」
「そうだな。カレーは何も加えなくても美味しい。それは世界の法則といっていい」
「そうね。カレーはお肉でもお魚でも受け入れる心の広い料理だわ。それに何かを押し付けるなんてやめましょう」
「先輩方……」
僕らはこうしてお互いのエゴを捨て去り、なにも隠し味を加えないカレーを作った。まず、野菜を軽く油炒め、そこに牛肉をいれてさらに炒める。全体に火が入ったところで水を投入し、沸騰したらカレー粉をダマにならないようにゆっくりと投入する。あとはじっくりと煮込むだけのはずだったのだが……。
「それがどうして、こんな味になっている。誰が隠し味を入れたのか?」
僕は机を囲んだ四人の顔を順番に睨みつけた。阿部は目を泳がせて、泉さんはなぜか空を眺めて、藤坂さんは笑顔で僕に応じた。
カレーを調理した際、僕たち四人はそれぞれが監視し合うようにしていた。そのため、調理中に何かを混入したとは考えにくい。つまり、この隠しきれない隠し味を入れたのは調理後ということになる。
調理後、僕たちが何をしていたかといえば、
「カレーは少し寝かしたほうが美味しい。寝かしているあいだに残りの作業をしよう」
と、いう阿部の意見に従って飯盒でご飯を炊く係と付け合せのサラダを作る係に分かれた。
ご飯係は阿部と泉さん。二人は、カレー鍋を火にかけている隣の炉で作業をしていた。サラダ係は僕と藤坂さん。僕たちは炉から十メートルほど離れた折りたたみの机で作業をした。二人一組でいる以上、何かをカレーに混入させる隙はないように思える。
「阿部、ご飯係はちゃんと二人で一緒に仕事をしていたんだろうな?」
「いやーそれが……」
阿部は言いにくそうに苦笑いをする。
「森久保君、ごめんなさい。ご飯係は途中まで別々に作業してたの。阿部君がご飯を炊くための薪を集めて火をおこしている間、私はお米を洗うためにキャンプ場の水汲み場まで行っていたわ。その間、カレー鍋は完全にフリーでした。でも、お互いの作業が終了して飯盒を火にかけてからはずっと二人だったわ」
泉さんが頼りにならない阿部の代わりに当時の状況を述べる。
「森久保、お前らはどうなんだ?」
「僕らは……」
「私と森久保先輩ならずっと一緒に作業していましたよ。野菜も一緒に切りましたし、野菜、お酢、塩といった材料は全部ここにありましたから、私たちがこの机を離れるなんてことありません」
そう言うと、藤坂さんは手作りドレッシングのかかったサラダを二人に見せた。
「ということだ。僕と藤坂さんには確固としたアリバイがある。つまり、カレーに隠し味を入れたのは阿部か泉さんか、ということになる」
「ちょっと待ってくれ、俺じゃない」
「私でもないわよ!」
二人は見苦しくもお互いの無実を主張し合う。まったく認めれば、可愛げがあろうというのに。
「では、もう一度カレーを食べてどんなに味がするか僕に言ってくれ、そうすれば犯人は自ずと分かる」
震える手でカレーを口に運ぶ二人。そして、
「甘い!」
「苦い!」
と叫んだ。
そうなのだ。このふたりはお互いに隠し味を入れあっていたのだ。カレーに深いコクを与えるコーヒーは苦味を、カレーにまろやかさを与えるチョコレートは甘味をカレーに残してしまう。これがどのようにしても消せない証拠なのだ。
「明らかになったな。阿部はコーヒーを投入し、泉さんはチョコレートを投入した。双方、異存はあるか?」
「すいません。美味しくなると思ったんです」
「みんなに美味しいカレーを食べて欲しくて……」
悲しい事件だった。皆に美味しいカレーを食べさせたい、という気持ちがこのような悲劇を引き起こそうとは誰も思わなかったに違いない。どのようなことも最初は善意から始まるのである。しかし、それがいつしか気づかぬうちに悪意に変わってしまう。
「いいんだ。二人とも君たちのカレーに対する熱い思いは伝わった。多少不味くてもいいじゃないか。それがアウトドアの醍醐味というやつだろ。ほら、二人ともせっかく藤坂さんがよそってくれたんだ。食べようじゃないか?」
「森久保……」
「森久保君……」
目に涙を浮かべる二人を尻目に僕は、心の中で舌を出した。
藤坂さんはずっと僕たちが一緒に作業したといったが実は僕は一瞬だけ机を離れたのだ。それはサラダを作るために足りないものを取りに行くためであったが、その瞬間こそがカレーにオイスターソースを加える千載一遇の機会だった。
机に足りなかったもの。それは油である。
今回のサラダはドレッシングまで手作りであった。机にはドレッシングに必要なお酢と塩はあった。しかし、そこに加えるべき油は、カレーの具材を炒めるために炉に持っていったままになっていたのだ。僕は阿部と泉さんの二人がいないことを確認するとカレー鍋にオイスターソースを入れた。
だから、カレーからは酸味がしたのである。
阿部も泉さんもこの酸味には気づかなかったみたいで助かった。あんなにきつい酸味に気づかないとは意外とあの二人は味音痴なのかもしれない。
カレーをほお張る森久保先輩を眺めていると、私の顔からは自然と笑みがこぼれてしまう。いけない。いけない。ここはぐっと真面目な顔をしなければ……。
森久保先輩が最後まで気づかなかったからといって気を抜いてはいけないのだ。カレーからする酸味の正体を悟られてはいけない。
オイスターソースだけで、あの酸味を出せるわけがないのである。実は、私もちゃんと隠し味を入れさせてもらった。それは無花果と柘榴の果汁。古くは古代バビロニアやギリシャで重宝された媚薬である。そして、それは森久保先輩のカレー皿にだけ入れた。カレーを皆によそったのは私なので、とても簡単な作業だった。
つまり、阿部先輩と泉先輩が食べたのは、この特製媚薬が入っていないカレーである。食べたのは森久保先輩だけ……。
効果はあるかわからないけど、私のこと好きになってくるかな?
なってくれるといいなぁ。
森久保先輩、大好き。
あなたはカレーにどんな隠し味をつけますか?
僕は鰹だしです。