月の光
蛇の村の、屋敷には風呂があるが、仮設にも幕屋にもないので、明人達が仮設用の、大きなこれまた仮設の風呂を設置し終えてホッとした時、遠く西の空に青白い月の光が一筋に降りているのが見えた。
「あれ…!」
明人が言うと、嘉韻と慎吾も振り返った。
「あれは、恐らく西の果ての地だ。」嘉韻が言った。「龍王が陰の月の力を使えると聞いておるゆえ、龍の力では封じられるとみて、月の力を使ってるんだろう。つまりは、封じから出られたということ。これで終わるな。」
明人と慎吾と嘉韻は、しばらく並んでその光を見ていた。そのうちに大きく光ったかと思うと、光は途切れた。
「…終わったな。龍達も戻るだろう。そのうちに王から事の次第をお知らせくださるだろうて。」と、慎吾は回りを見回した。「よし、これで落ち着いたし、我らも戻るか。」
明人も頷いた。もうくたくただ。嘉韻が一人踵を返した。
「主らは戻るが良い。我はここの警備の件を李関殿と話して、それから戻る。」
嘉韻は、スッと飛んで行った。明人はそんな嘉韻を見送りながら言った。
「なあ、果たして嘉韻って何を楽しみに生きてるんだと思う?あいつ、疲れ知らずだし任務任務で他には興味ないけど、相変わらず女にはこれでもかとモテるのに。」
慎吾は苦笑しながら宿舎のほうへ向けて飛び上がった。明人もそれに続く。
「我にもわからぬ。最近では休みの日も、我ら家族がうるそうてなかなかに嘉韻と釣りに出掛けることも出来ぬであろう?早く身を固めよと言うてはみるが、相変わらずうるさそうにするだけでの。結局一人で、湖や森を散策したりしておるのだそうだ。誰にも煩わされずにおられるそんな時間が一番なのだと。」
明人は呆れたように言った。
「そうか…嘉韻と話したい女は湖に行けばいいなんて、誰かが吹聴して回ったらどうする?憩いの時間がなくなっちまう。そのことは、誰にも言うなよ。」
慎吾は頷いた。
「わかっている。結奈が宮で良く嘉韻のことを聞かれて困ると言っておったが、何気なくでも何も言うなと言ってある。我が娘が嘉韻に懸想せんで良かったことよ。」
宿舎に降り立ちながら、明人は笑った。
「そりゃあ小さい時から一緒で、家族みたいに育ったんだからな。同じように父親みたいなもんだろうよ。うちの心の純も大丈夫なようだ。ホッとしてるよ。」
明人は、自分の戸の前に立った。
「じゃあな、慎吾。また明日。」
慎吾は頷いた。
「ああ。明日こそ、何も起こらんで欲しいものよ。」
二人は、宿舎の家族の元へと戻ったのだった。
明輪は、明人の第二子で長男だった。
父を倣って軍に入り、今では分隊長をしていた。父が師団長、祖父が次席軍神なのを見ているので、自分はまだまだだと思っていた。
今日も、父達師団長はとっくに宿舎へと帰って行ったが、明輪はまだ自分の宿舎へ帰れずに居た。後の片づけがまだ残っていたからだった。
「分隊長殿。」
部下の声に、明輪は振り返った。
「どうした?」
部下は膝を付いた。
「全て終わりましてございます。」
明輪は頷いた。
「ご苦労だった。今日はもう戻って良い。主らの隊は明日夜勤であるので、朝は出なくて良いゆえな。」
相手は頭を下げた。
「は!失礼致します。」
部下は下がって行った。これで、自分が見ている隊は全て戻った。
明輪は、やっとの事で宿舎へと向かって飛び上がった。
明輪が着物を手に大浴場へ向かっていると、李心が声を掛けて来た。
「明輪、終わったのか。」
明輪は頷いて言った。
「やっとだ。主、早くに戻っておったのではないのか。」
李心は首を振った。
「明日の準備があると父上に引き留められた。今まで掛かってしもうたわ。」
「明日?」李心の父は、李関だ。明日何があるんだろう。「何かあるのか?」
李心は頷いた。
「龍王が蛇の軍神を連れてこちらへ来られるのだそうだ。そのためにいろいろあった。」
脱衣場へ入って着物を脱ぎながら、明輪は気になって問うた。
「つまりは、あちらも収まったということか?戦は終結したのだな。」
李心は頷いた。
「父上はそうおっしゃっていた。蛇が龍の臣に下るのだそうだ。王の己多が軍神達の家族を人質にとって、此度のことはあったらしいのでな。月が救出して来たので、ここがあんなことになっておるのであろうが。」
二人は浴室で並んで体を洗いながら、尚も話し続けた。
「では、龍の領地が広がってしまうの。それでなくとも、将が少ないと申しておったのに。父上が、いつか戻らねばならぬと言うておったが、今はそんなことが出来そうにもないし…。」
李心は遠くを見るような目をした。
「我の父上だって、いつかはと言いながら結局ここまで居てしもうたと言うておったぞ?なので、主がそんなことを案じる必要はないであろう。あまり細かいことを悩むでない。主は神経質であるからな。」
そんなことをさばさばと言う李心は、確かにあの涼先生の息子なのだと明輪は思った。いつも思うが、姿形は李関にそっくりで黒髪に深い緑の瞳なのに、中身は母の涼に似ている。どこにでも初めての事でも物怖じしないし、細かく考えて悩んだりもしない。明輪はそれに助けられたりもしていた。
二人が風呂から出て宿舎の回廊を歩き出すと、明輪の妹の純が歩いて来た。明輪はびっくりして慌てて駆け寄った。
「主、こんな時間にこんな場所で何をしておる。女が軽々しく来る場所ではないぞ!」
純は驚いて明輪を見た。
「まあ、お兄様。本日からしばらく、ここのお父様のお部屋に戻るように言われましたの。」
後ろから来た李心が言う。
「屋敷は神威様の臣下に解放したと聞いておるぞ。それゆえであろうが。」
明輪はそれを初めて聞いた。
「我は聞いておらなんだ。しかし純、こんな時間になんぞ?姉上は?」
純は答えた。
「我は宮に着物の縫製を手伝いに参りました。姉上は…」
純は言いにくそうにした。明輪がそうか、と思ってばつが悪そうにした。縫製など、心には無理だ。李心が笑った。
「あやつにそんな細かいことは無理であろうて。幼い頃から手先が不器用であったではないか。主、そんなことも分からぬのか。」
李心は豪快に笑うが、純と明輪は顔を見合わせた。心がその幼い頃からこの李心を思っていることを知っていたからだ。純が慌てて言った。
「ですので、我は戻りまする。では、お兄様、李心様。」
純は美しく頭を下げると、歩き去って行った。李心がそれを見送りながら、気遣わしげな顔をした。
「…送らなくて良いのか。一人でここは、危ないであろう。」
明輪は言われて純の方を見た。
「父上の娘なのに、それはないだろう。」
「主は甘いの。」李心は純の方に足を向けた。「ここでは略奪が合法なのだぞ?人の世とは違う。父の変な影響を受けておるの。」
李心は、純を追って行った。
明輪は、何と言っていいのか分からなかった。
純は、母の紗に似た茶色の金髪に青い瞳の、それは美しい娘だった。確かにいろいろな場所で声を掛けられて、面倒にも思っていた。しかし、父と兄が居るので、危ない目にあったことなどなかった。なので、軍宿舎の中も、別段怖いと思わずに歩いていた。
父の部屋まで階段ではなく飛んで上がろうとした時、後ろから何かの力が自分の体を掴むのを感じた。
「え…」
振り返る間もなく、気が付くとそのまま、どこかの部屋の中へ放り込まれていた。
床で腰を打った純が腰を擦りながら立ち上がろうとすると、見たことのない軍神が、自分を押さえ付けた。
「…純殿。」
純は驚いて身を縮めた。これは誰?
「ど…どなた?」
「我は主をずっと見ておったもの。どうか今宵、我の妻に。」
ええ?!
純は仰天して震えた。妻?!誰かも分からないとこのかたと…。
「そ、そのようなこと…!」
純が怯えて逃れようとするのを、その軍神は押さえて唇を寄せて来た。純は背筋を冷たいものが走るような気がして、必死に横を向いた。
「嫌!あなたなど知りませぬ!」
「主には我に抗えぬ。」
「では、我ではどうか?」
別の声が飛んだかと思うと、その軍神は宙を飛んだ。急に解放された純は、必死に起き上がって涙を流しながら、そちらを見た。
「さあ!」
李心だった。
「李心様…」
茫然としている純を、李心は抱き上げると、その部屋を出た。そして、縦に伸びた回廊を上に向かって飛ぼうとした時、純は言った。
「李心様…こんな状態で、お父様とお母様にお会い出来ませぬ!どうか、宮のほうへ…!」
見ると、純の着物が乱れて、襦袢も見えている。李心は迷ったが、下へと降りて、出入り口から外へと飛んだ。
飛んでいる最中、純はまだぽろぽろと涙を流していた。李心は困って、どうしたものかと空中に止まった。
「純、しかし父母の所へは戻らねばならぬぞ。このままでは、行く所もないであろうが。」
純は李心を見上げた。
「でも…どうした良いのか、我にも分かりませぬ。」
李心は、宮の庭へ下り立って、傍の岩に純を座らせた。
「さあ、着物を直して。」純は、李心に言われるまま、襦袢を直して、上の袿も直した。李心は、懐から懐紙を出した。「涙を拭くのだ。少し落ち着いたら、我が送ってやるゆえに。」
純はうんうんと頷きながら、李心を見上げた。
「申し訳ありませぬ。このようなこと、初めてで…我も、どうすれば良いのか、分からなくて…。」
せっかく拭いた涙が、またぽろぽろと流れ出した。李心は困ったように言った。
「主はいつも守られておったからの。しかし、神の女には良くある事。主も己の身を己で守るように、一人で危ない所へ行ってはならぬのだ。いくら父が上に居るとは言うても、なかなかに気取れぬものであるからの。明輪にも言うたが、主らはこういうことに疎いのだ。もっと危機感を持て。主など、どれほどの軍神に狙われておると思うておるのか。」
純はびっくりして李心を見た。
「え、あのかただけではありませぬの?」
李心はため息を付いた。
「そうではない。主はの、美しく成長したゆえ。狙ろうておる者は我の回りにもたくさんおる。知らぬのは主らぐらいのものぞ。」
純は怖気が走るのを感じた。あんなこと、何度もあっては我は耐えられない…。
「…どうしたら良いの。我は、あんなことにはもう耐えられませぬ。」
李心は目の前のある池を見た。
「そうよのう…宿舎に戻る時は、我か明輪を呼ぶことだ。さすれば部屋まで送ってやるゆえ。」
純はうんうんと頷いた。
「…でも、もしもどこか外で居る時でしたら?」
李心は顔をしかめた。
「困ったことを申す。我らそこまで着いて参る訳にも行かぬしの。それに、王は妻を守ることは許しておられるが、女の取り合いで戦うことは禁じられておっての。我の今日のこととて、もしかしたら罰せられるやもしれぬのだ。取り合いと見なされれば、我はしばらく牢へ入ることになるやも…」
純は驚いて首を振った。
「そんな!我を救うてくれただけでありまするのに!」純はすっくと立ち上がった。「では、我が王に申し上げまする!そんな理不尽なことはありませぬもの。」
李心は苦笑した。
「ま、大体は状況を見てお咎めなしなことが多いゆえ。安堵致せ。」
純はまた、岩に座った。それにしても、どうしたらいいのかしら。私、早く結婚したらいいのかしら。そうしたら、夫が守ってくれるから…。
「…ならば、我が早く結婚すれば良いという事でありまするね。」
李心は仰天した顔をした。
「なぜにそうなるのよ。主、相手が居るのか。」
純はぶんぶんと首を振った。
「誰も。だって接する機会がありませぬし。知っておる殿方もおりませぬ。でも、そうしたら我は見知らぬ誰かに襲われる心配はないのでありましょう?」
李心はためらいがちに頷いた。
「まあ、そうであるが…強い夫であればの。」
純はため息をついた。
「強くなければなりませぬの?」
李心は頷いた。
「当然であろうが。でなければ夫が負かされてしまうわ。」
純はまた考え込んだ。では、我の夫になってくださるかたっているのかしら。我が慕わしく想えるかたでないといけないし…。
「…自信がなくなりました。」
李心は、困って純を見た。確かに危ない。今にも誰かにと、いつも冷や冷やして見ていたのは見ていたのだが。
「そうよの…我が娶っても良いが、そうなると兄と婚姻のような心持であろう?」
純はびっくりして李心を見た。李心様…我は確かに憧れておったけれど、でも、お姉様がずっと思っていらっしゃるかたであるのに…。
「…兄などと、思ったことはありませぬ。李心様は素晴らしいかた。でも…」
純は口ごもった。李心は眉を寄せた。
「なんぞ?我では嫌か。」
純はぶんぶんと首を振った。
「いいえ!そうではありませぬ。でも…李心様をお慕いしておられるかたが、たくさん居るとお聞きしておりまするから…。」
これは本当だった。宮でいろいろと手伝いに行っている時も、李心の話になると皆が色めきだった。李心はとても美しい顔立ちであるし、序列も高く、そして何よりとても凛々しい。何でもはっきりと言い放つ様は、自信に満ちて、清々しかった。
「なんだ、そんなことか。」李心は知っていたように言った。「良いわ。我が望んでおるのではないしの。純、我と婚姻せよ。さすれば我が守るゆえ。これ以上心配しておるのも、もう飽きた。」
「え…?」
李心は、スッと立ち上がると、純の手を取った。
「さ、参ろうか。」
純は急な事に驚いて、李心を見上げた。
「あ、あの、どこへ?」
「我の部屋ぞ。」李心は言って、純を抱き上げた。「さすれば明日から主は心安らかに過ごせるであろう?我も心配せずに済む。思えば、我が心配するという時点で主を娶っておればよかったものを。そんなことは思いつかなんだわ。」
「え、」純がびっくりして口をぱくぱくさせいる間に、李心は飛び上がった。「ええー?!」
そして、二人はそんな簡単な理由から、婚姻となったのであった。




