陰の月
何やら宮が騒がしい。
嘉韻はそれを感じたが、王が呼ぶ気配もないので軍神達には立ち合いを続ける事を指示した。
皆を監督するふりをしながら、嘉韻はまだ迷っていた。愛おしい維月…仮にそれがひと夜だけでも、手にする事が出来たなら。
それを思うと、体が熱くなった。維月を欲する気持ちと、それに伴い長く続く苦悩を思い、ためらう気持ちが胸の中でせめぎあい、どうしたらいいのか分からなかった。
何を信じたらいい…。
嘉韻は、ただ苦しかった。
「少し良いか?」
李関の声に、嘉韻は慌てて膝を付いた。
「は!」
李関は手を振った。
「良い。話したいだけぞ。」
嘉韻は立ち上がった。
「は…いかがなさいましたか。宮で何か?」
李関は首を振った。
「いや。あれはどこかの部屋で騒いでおるだけで王は何もおっしゃらぬので、慎吾に一応見に行かせておる。それより、主、悩んでおるの?明人から聞いた。」
嘉韻は、下を向いた。
「…軍務に支障をきたして申し訳ございませぬ。」
李関は首を振った。
「良いと申しておる。あのな嘉韻、主はよく踏ん張ったと思うぞ。王族を相手取り女を争うなど、我でも出来ぬ。それを主はたった一人で耐えた。つまりは、それほどに思う女ということであろう?」
嘉韻は言葉に詰まった。そう、想っている。だが、もう手が届かない…。
李関は続けた。
「悩んでいるとて、それは手にした後のことであろう。主が今、一番に欲するものはなんぞ。」
嘉韻はためらいがちに答えた。
「それは…維月でありまする。」
李関は頷いた。
「して、それを手にした後のリスクとは?主はどう考える。」
嘉韻はなぜにそんなことをと思いながらも言った。
「…明人にも言われ申したが、子も育てる術を考えねばならぬし、何より会うことすら制限され…おそらく、今より苦しいのかと。」
李関はまた頷いた。
「そうよの。では主、その苦しみを耐えるに値しないと考えるか?主の中で、維月の価値とはそこまでなのだな。」
嘉韻はハッとした。維月の価値…。
「…何よりも代えがたい価値でありまする。」嘉韻は、李関を見た。「我が苦しんで手に出来るなら、そんなに易い事はない。」
李関は微笑んだ。
「ならば自ずと答えは出たのではないか?後は共に苦しんでくれるかどうかぞ。」
李関はそう言うと、スッと離れて行った。
共に苦しむ…そう、維月も巻き込むことになる。維月…我は主を望んでいる。苦しくても共に居たい。だが主を苦しめるのは、つらい…。
自分の気持ちに迷いがないのは分かったが、維月をそれに引きずり込む事に悩み、演習が終わって、皆が帰途に着く時、嘉韻はまた、もう来ないのをわかっていながら、湖へと飛んでいた。あの場所は、維月と出会って、共に過ごした幸せな記憶が残る場所。そこで癒されたいと思ったのだ。
十六夜の気が遠ざかるのを感じ、嘉韻はそこに十六夜が居た事を知りながら、湖の上に着いた。
そして息を飲んだ…維月の気。維月の気がする…しかも、今までより強く、より大きくこちらを誘うような、陰の月の気…。
嘉韻がその気をたどり急いで飛ぶと、間違いなく維月がこちらを見上げて立っていた。
しかしその姿はより大人になり、完全に成人したものだった。覚えがある。あの美しい立ち姿は、前世の龍王妃、維月様…。
「嘉韻…話したいの。」
嘉韻は頷き、ためらいながらも維月の前に降りた。そして、じっと 維月を見た。
「維月…姿が変わっているから、一瞬戸惑った。」
維月は微笑んだ。
「そうなの。記憶が戻ったから…前世のあの頃の姿にまで成長したみたい。私、月だから。思えば姿はどうにでも出来るわよね。」
嘉韻は、今にも我を忘れて抱き締めてしまいそうな衝動を感じて、横を向いた。
「その…主は、このように「気」が強くなかった。 じっと見ているとおかしな心持ちぞ。」
維月はため息をついて苦笑した。
「ごめんなさい…これが私の成人した時の気なの。本当はこうなるべきだったのに、まだ心が子供だったせいかしら、ここまで強くはなかったのよ。抑えるには骨が折れるの。でも、嫌ならがんばって抑えるけど。」
嘉韻は首を振った。
「そうではないのだ。ただ、その気は我をもっと惹きつける…主を諦めるべきかと悩んでおったのに。 これでは、それも出来ぬ…。」
維月は、嘉韻の頬に触れた。
「維心様と話したのでしょう?私は嫌ではないわ… 嘉韻が、望まないと言うのなら、もちろんこのまま私は帰るけれど。だって、数か月に一度、三日ほど しか会えないのに。本来は、別に良いかたを迎えていただくのが一番いいのだけれど…。」
嘉韻は、維月を思わず抱きしめた。
「そのようなことは無理だ。主以上の女を見つけることなど出来ぬ。維月…主が良いと申すなら、我はそれでよい。元々軍神など、なかなかに屋敷に帰る ことは出来ない仕事。会えるまでの数か月は、任務 だと思うておるゆえ…良いか…?」
維月は微笑んで一つ、頷いた。嘉韻は胸がいっぱい になった…精神的にも成人した維月の気がまた嘉韻 の全身を包んで震わせ、嘉韻は小刻みに震えた。迷うことはない。引き返せぬのであるなら、このまま進むよりないのだ。
嘉韻は維月を抱き上げると、そのまま自分の屋敷のほうへと飛び去って行った。
屋敷へ帰ると、侍女や召使い達は驚いた顔をしたが、黙って頭を下げた。嘉韻はそのまま維月を抱いて部屋へと戻ると、寝台の上に維月と共に沈んだ。
「維月…我は己だけが苦しむのだと思うて迷うておった。だが、主も苦しむことになる。それでも良いのか。」
維月は驚いた顔をしたが、嘉韻の首に手を回して頷いた。
「ええ。これから心の中に嘉韻も置いて、確かに気になって仕方がないと思うけれど、でも、嘉韻も耐えてくれるのでしょう。だから私も頑張るわ。」
嘉韻は、嬉しそうに微笑んだ。
「愛している。我の想い、これで成就するのだな。」
嘉韻は、維月に口付けた。維月はそれを受け、二人はそのまま、深く、強く愛し合った。
次の日の朝、嘉韻は気だるい体で起き上がった。 日はもう、髙く上がって傾き始めている。ここまで意識もなく深く眠っていたのは初めてだった。隣りには維月が眠っていて、昨夜のことを思うと、自分のその反応にも合点がいった。昨日は明け方まで眠らなかったのだ…あれほどに我を忘れ、また幸福を感じたことはなかった。維月も気配に気づいて目を開けた。嘉韻を見ると、少し驚いたような顔をしたが、微笑んだ。
「まあ嘉韻…長く寝入ってしまって。もう日は高いわね…。」
維月は襦袢を引き寄せて起き上がる。嘉韻はその背を抱き締めた。そして、堪え切れずに呟いた。
「維月…離れたくない。」
維月は困ったように微笑んだ。
「嘉韻…。」
昨日約したことは覚えている。だが、やはりこの気持ちは抑えられなかった。これほどに愛おしいと思うものを手にした。だが、それは限定された時間の中でのことだった…。わかってはいるが、つらいことだった。
「維月…わかっているのだ。だが、まだ慣れないだけで…。」
維月は嘉韻のほうを見て、抱き寄せた。
「本当に…つらい想いをさせたくないのよ。だから、こうしてここに来たのだし…。でも、ごめんなさい、これはやはり、つらいことだった…?後悔しているのね?」
嘉韻は黙って考えた。昔から、王族の妃や主人の妻を愛してしまって、隠れて会っている男の話はあるもの。それは他人事のように思っていたが、今、自分はその男たちと同じ立場になっているのだ。ただ 、自分は隠れて会う必要がないだけで…。
「…これが、我の愛する形だと思う。」嘉韻は言った。「つらければその辺の女を相手にすれば良いだけのこと。それなのに、我は主でなければならなかった。主以外は要らぬと思うた…己の気持ちに正直に生きたからこそ、こうなっておるのだ。我は後悔などしておらぬ。」
維月は嘉韻の決意に満ちた表情を見た。そんなにも愛してくれるの…。
「嘉韻…。」
嘉韻は、維月に口づけた。
「きっと、我と前龍王は同じなのであろう。あれも月の妃である主を愛して、それは苦しんだのだと思う…そして、月に許された間だけ主を手にして。ただ月は寛大であったゆえ、正妃にして傍に置くことが出来たというだけで。なので、前龍王が我に主を許した気持ちも、なんとのう分かるのだ。ただ前龍王は月ほど寛大ではないの。数か月に三日であるのだから。」
嘉韻はからかうようにそう言った。維月は噴き出して笑った。
「ほほほ、確かにそうかもしれないわ。でも、寛大であるとまた違ったことなの。十六夜も私も、月であるから…こういうことは生物学的なことでしょう?あまりこだわらないのよ。だって、生物学的には、私達存在しないわ。確かに子を成すことは出来るけど、それは形を持たないの…誰か、地上のかたと交わらない限りはね。私は前世で人から月になって、その記憶があるから多少なりともこういうことに抵抗を感じたりするけれど、でも、やっぱり転生してこだわらなくなっているのも事実。維心様はまた身を持ってしまったから、どうしてもこだわってしまうのを捨てられないのね。わかってあげて。これでも維心様にしては大きな譲歩なのだもの。」
嘉韻は頷いた。自分に宛て嵌めて考えてみると、どうしても許すことなど出来なかったであろうからだ。相手を殺してしまったかもしれない。なのに、前龍王はそれを許したのだ。龍の身でありながら…。
「維心殿には、感謝しておる。もちろん、十六夜殿にも。」と、維月を見た。「維月…早く帰れ。我は主を待っておるゆえ。我の選んだ、ただ一人の女であるからの。主を待っておったのかもしれぬ…こうして、ここで結界を張って…。」
維月は花のように微笑んだ。
「ええ。帰る時には知らせを送るわ。嘉韻…どうしても辛い時には月に向かって話して。十六夜にも聞こえるけど、私と話せるわ。宮の行事や責務などで返せない時もあるかもしれないけれど、きっと答えるから。」
嘉韻は笑った。
「十六夜にも聞こえるとはの。仕方がない…主らは陰陽でつながっておるのだものなあ。」
嘉韻はもう一度維月を抱き締めた。
「嘉韻…すぐに戻るから。待っていてね。」
嘉韻は頷いた。
「待っておる。主は我の妻ぞ。」
維月は頷いた。
「ええ。だから、私にはあなたを幸せにする責任があるのよ。私は結婚したからには、必ず夫を幸せにするんだと決めてるの。前世、人だった時の夫を、幸せに出来なかったから。幸せに出来ないなら結婚しない。そう決めたの。」
嘉韻は、笑った。
「そのように構えずとも良いぞ。」嘉韻は、維月に唇を寄せた。「主さえこうして傍に居れば、我は幸せであるから…。」
「嘉韻…」維月は嘉韻の髪を撫でた。「なるべくたくさん帰るわね。」
そして、しばらくそうして名残を惜しんだ。
そこに、確かに愛情があった。




