第十三話 未踏峰(2)
漆黒の巨大な鉄塊が、曇天の雪原を斜めに叩き割った。
轟と風を割る音が、旋風が駆け抜けた後に響きわたる。雪が駆け抜けた音にはじかれ、舞い散る。
直撃を受けた蟾蜍は、原型をとどめないほどに弾け、鮮血がびしゃりと白い雪に掛かる。
――まるでイチゴのかき氷だなぁ。
<分身>のスキルで間一髪の危機を脱したゲロスは柄にもない事を思った。
毒々しいまでに赤くて冷たい氷菓子が、生臭い臭気をたてて"未到峰"の白い絨毯を汚していた。
「ずいぶんじゃないか、ギンちゃん。久しぶりに会った僕が、君になにをしたっていうんだい? ひどい扱いだと思うよコレ」
目の前の少女型の狂気を相手に、努めて冷静に。七色の蟾蜍は言い放った。
綱渡りであった。ゲロスが一歩受け答えを間違えば、即。受け答えを間違えなくても、遠からず首と胴が生き別れになる……どころか、形も残さずに爆ぜ散るだろう。先ほどの<分身>の様に。
「よく言うよ、ゲロっち。超痛かったから、ボク正直胃から中身が飛び出るかと思ったよ」
夏の快晴を思わせる、暗さを感じさせない快活な受け答え。曇天の冬山には似つかわしくない、底抜けに明るい声である。
例えその答える口から、どす黒い血をたれ流していても、だ。
「それはいいんだ、でも……そういえばボク、大まじめにキミとブン殴りあいをしたことはなかったなって。それはそれでとても気がかりだなって!」
闇色の光が駆け抜けた。恐らくは<旋風撃>。
<分身>で間合いを稼いだはずのゲロスは、瞬時に詰められる間合いに、大きく後方に<宙返り>。先ほどまで存在していた空間が、大地が、粉砕機にかけられた。
間一髪だ。ゲロスの背筋に冷たい汗が流れる。
ミリコンマの世界で、ゲロスと敵の視線が交わる。
黒い少女ーートレードマークだった銀色の鎧は、明度と色調を反転させたかのように光を吸い込む吸光の黒。赤毛は自然界に存在しいない、鮮やかな青に。肌は白から浅黒く。
唯一以前となにも変わっていないのは、瞳の光。純粋な対人狂の爛々とした目が、獲物を見つけて光輝いていた。
ゲロスの知っている"ギンスズ"がそこに在った。
「そいつは重畳、詰まるところ、君のお眼鏡にかなったって事だ」
純白の雪の上に着地したゲロスの回答が、正解だと言わんばかりにギンスズの斧が三度奔る。雪原に大穴が穿たれる。遅れて到達する爆音が、周囲の雪ごと吹き荒れる。
ぐらり地面が揺れ、散った雪が再び雹の様に乱れて落ちた。
ゲロスは弱い。
鉄火場での判断力、反射神経、フレーム単位での精密操作を他の廃人どもと比較するなら、一段劣る。
劣っていた。
それは、スペックぎりぎりのノートPCでプレイしていた為だったり、ゲロス自身の性格であったりだの、様々な要因が絡んでいる。
だから、この手の争いごとは以前は好まなかった。
しかし、今は劣るだの勝るだの、細かい事を気にしていてはやってられない。
手前の命がかかっているのだ。嫌でも何でも、やらねばならぬ。
<霧隠れ>のタイミングがもうワンテンポ遅れたら、斧と大地の間でゲロスは平べったいプレス肉になっていた。冷や汗が止まらない。
「ボク、思うんだ。きっと、今までのキミは、本気になれてなかっただけだって。こっちがメインになったら、きっとすごく強くなれるって」
致命の攻撃を三度回避された狂戦士が、どす黒い顔を紅潮させて熱っぽく語る。知ってるよ、と。
「だって言うじゃない。恋する乙女は"最強"って。そんな最強とボク、戦ってみたいなぁ」
より悪化した狂斧使いが、ゲロスの逃亡を阻んでいた。
逃亡の前に、時間を今一度、稼がねばならない。
この場で回避した斧は三度。交わした言葉もこれで三度。
ゲロスの狙い通りなら、後四、五度――
ちらりちらりと、陣取る場所を考えながら。ゲロスは起死回生の一手を待つ。
***
遠く、山頂から見下ろした時は小さな黒い染みであった。
いったい何だろう、と好奇心を抱いたのがゲロスの間違いだったかもしれない。
「まさに、好奇心は猫をも殺す、ってやつかにゃぁ。ちょっとコレはマジで洒落になってない量だし……」
ゲロスは己の迂闊さを呪う。好奇心に引かれて、のこのこと――いや、注意は払っていたものの、それはあまりにも不足していたと反省せざるを得ない。
大概の脅威も同時に五匹までなら、ゲロス一人でも何とかなる、そんな油断もあった。ソロでもそこそこの所まではやれる、そんな無意味な自信は、圧倒的な数を前にして、穴のあいた風船のごとく萎んでいた。
好奇心を満たすために、渡った瞬間、ゲロスは背筋に冷たい氷柱を突き入れられたような、ぞっとした怖気が走るのを感じた。今着用している、冷気に絶大な耐性を誇る『背教者』シリーズのセット効果が切れたのかと、マイナス一次元された平べったい体をなでさすったが、何ら装備に異常はなかった。つまり、ゲロスの精神そのものが怖気を感じているのである。
原因はなんだ。そう考えた瞬間、ゲロスは渡りきって、世界を認識した。脳内レーダーで感知できる範囲が、真っ赤に染まっていたのである。
渡る距離の計算を違えて、寄りすぎた――やらかした事を、ゲロスは<影渡り>が解除された瞬間に理解した。
<隠業>でとっさに隠れる影があったのは幸いである。
本当に、不幸中の幸いである。
何しろ、この近辺でもっとも危険な物陰であったのだから。
つまりゲロスは、いわゆる、敵の指揮官格の影に潜んでいるのである。
潜んだ影から周囲へと意識を移せば、雲霞の如くの大群。視界が認識する以上の魔物《MOB》の群にゲロスの脳内が真っ赤に染まる。
その中でも特に、紫色の光点が四つ。
赤の中にあって、一際強い光をギラギラと放つきわめて異色の色であった。
「これをそのままやり過ごす……いや、反応範囲をどれだけごまかしても、引っかかる。どれだけリンクするかわからないけれど、今すぐ出て逃走に移るしかないかな……本格的にこの量ひっかけた事ないから、逃げきれるか判らないけれど、これ以上時間をかけると」
と、の後に、ゲロスはこっそりと跳躍した。
音も立てず、ただ宿主の影にあわせて跳ねた。
なにしろ潜んだ箇所が箇所、この紫の影は歩いている。時々飛び跳ねている。それにあわせてゲロスも飛んだり、跳ねたり、止まったり。
必死のパントマイムを続けること、しばし――その間に、ゲロスは疑問を抱いた。
――このMOBの集団はどこに向かっている?
以前も今も、高所にはMOBはいない。
だから、これら集団は誰かが誘導したか、それとも彼ら自身の意志によって、進軍していると言うことになる。
前者の可能性がほぼない以上、理由は後者。そうなると、なぜ"ヤマ"という、ルートをとった?
ゲロスは思考する。
――いわゆる、突発イベント。
街を襲う、と言うことはまれによくある事象であった。それが起きると言うことは、何らおかしくはない。
――では、ヤマを越えをした後、もっとも近い都市はどこだ?
ゲロスの知る限りでは、クオン王国首都、トコシェではないのか。
なら、ゲロスの出る幕ではない。
こんな重いクエストは、ゲロスの好みではない。
そこまで思考を手繰った時に――ゲロスはいつの間にか、以前と同じ感覚で考えてしまっていたことに思い当たる。
確かに、やりたくないことは、やらなくてもよかった。
以前のままの感覚なら、たしかにそうだ。その通りだ。
「……でも、やばいんじゃないかな、これ。超ヤバイどれぐらいヤバイかっていうと放置するとこれマジで首都でも全滅じゃないかな、いや、僕がヘマして逝くだけならともかく、いや、僕には全く関係がないけれど、寝覚め絶対悪くなるよねこれ、ほんと」
ゲロスがやりたくなくても、何かしないと、何ともならなくなる奴らがでるのが、目に見えている。
「いやちょっとまじめに僕なに口走っているんだろう。本当にどうする、いや、どうしようもないと思う、でも反響痛ぐらいの集団なら、対処の仕様もあるだろうけれどこう……僕一人じゃ……」
ゲロス一人では何ともならないこの集団相手でも、反響痛の面子なら、あのベルウッドに率いられた奴らなら、この数でも捌ききれる可能性がある。
「や、でも、準備時間は必要だよね、不意打ちされたら、だいたい乱戦になる」
――だがしかし、それもまたゲロスがこの状況を伝える事ができたならの話だ。つまりゲロスは、この状況で、彼らの進軍速度を早めることなく、できる限りの速度で離脱しなければならないのだ。
考える、考えろ、考えた。
「BOSS狙い、かな」
よく言うではないか。少人数で、多数を相手取る方法の一つだ。
指揮官をつぶせば、指揮系統に乱れが生じる。おそらく、ゲロスが求める結果になるに違いない。
瞬殺はできなくとも、ヘイトを稼いで、その後うまいことまけば、全体の進軍速度は間違いなく下がる事だろう。
ターゲットは集団の先頭を率いる、赤くもない、青くもない、異常な"紫の光点"。
まさに、今ゲロスが潜むこの影の宿主が撃破対象だ。
初手<腎臓打ち>からのワンチャンスタンのデバフ特盛り、そこからは周囲のヘイトを観て、感じて、また<影渡り>しながらの離脱。
戦術はこんなものだ。対MOBなら確定で、少なくともこの影からの離脱は可能であるはずだ。
「やるしか……ないかなあ」
まったく持ってゲロスの気は乗らないが、MOB相手なら仕方がない。
不意打ち上等の必殺の一撃で――
***
ギンスズは抜けている。
前を見て歩け、と言われて前を見ていたら足下の石にけつまずく。そんなことは序の口だ。
ぼぉっとして階段を踏み外す事もしばしば。他人との会話も、ずれた事を返して、唖然とさせることも。
学校のお勉強? 習い事? お友達とのお付き合い?
いつもギンスズに下されるのは、あの子はだめな子だ、と言う周囲の評判だ。
ギンスズは、思うのだ。
『彼の世は、ボクにはハードモード過ぎる』と。
努力の大切さはギンスズにだって、耳にたこができるほど聞いているし、知ってもいるつもりだ。
だからギンスズだって、努力はした。
だけれど。
生まれ持った才能の差があって、努力だけでは絶対に覆らない。どれだけ時間をかけて勉強したり、運動したり、おしゃれしたりしても、だ。
デキる人はみんな一歩、ギンスズの先にいる。
無論、ギンスズにだって才能の一つや二つ、あったのだろう。
しかし、それを悠長に探すのには、あまりにも彼の世は厳しい。
そんなもんだーーと、そちら側に諦めをつけても、誰が非難できようか。誰もが誰も、努力したら努力しただけの力を身につけることができるわけではない、彼の世では。
だが、此の世は違う。
努力したら、努力しただけ、目に見える形であらわれる。
此の世は真に、平等だ。努力した奴ほど、強く、美しい。
つまり、ギンスズは強く、美しい。
ベルウッドは、その上を行く素晴らしさだ。
「それにしても、こんな箇所があるなんて思っても見なかったよ」
キチキチと鳴く子蜘蛛を肩に乗せ、ギンスズは跳ねる様に歩く。世界は思ったより広い、と何年も何年もプレイした筈の此の世の、全く知らない銀世界を進みながら。
肝心の山の天気は荒れていたが、ギンスズの気分は晴れていた。
先頭を任されるのも、信頼の現われだし、見知らぬフィールドを一番槍で開拓するのも、信頼の現れだ。この体になってから調子も悪くないし、仲間も前より増えた。まさに、邪神様々である。
「これも全部、ヤ・ヴィのお導きって奴なのかな?」
ギンスズが肩にとまる蜘蛛に話しかけた時に、異常に気がつく。ぶるぶると体を震わせて、蜘蛛は主人に危機を告げる。
――背後。背後。背後。
蜘蛛の声は、ギンスズには理解は出来なかったが、異常な動作に慌てて体の軸をずらした。幸運であった。
直後、背後から爆発的に広がる存在感。脳に響く警戒音。真っ赤な、極めて慣れ親しんだ不意打ちの臭いに、鮮やかに蘇る闘争の感覚。
誰が襲い掛かってきたのかは判らない。しかし、戦場ではよくある事だったし、それが大して重要でない事は、ギンスズは良く判っている。
斜め後ろから、胃の腑を突き上げられるような衝撃がギンスズを襲った。
<剛体>、と瞬時に内力を練り上げ、魂を燃やす。タイミングさえ合えば鋼鉄よりもなお硬く、伝説の剣ですら容易に貫けぬ、正に鉄壁の防御。
が、今回は少々、タイミングがずれた様だ――